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5. 石と骨

石と骨


 息を切らして飛び込んできたのは島の仕出し屋を切り盛りする木下早苗だった。早苗の後ろには、不機嫌そうな顔をした初老の男が、腕を組みながら立っている。


 島で唯一の桶職人、木下源三。御年68歳。源三の作る醤油樽は、百年持つと言われている。早苗の父親であり、島一番の頑固者としてもその名を轟かせていた。


「こんにちは、木下さん。どうされましたか?」


 海斗の問いに、娘の早苗がまくし立てる。


「昨日、作業場で脚立から落ちて手首を強く打ったんです! なのにただの打ち身だなんて言って、今日も仕事しようとするんですよ!」


「うるさい、早苗! 大したことはないと言っとるだろうが!」


 源三が娘を一喝する。


「先生、わしはこの通りぴんぴんしとる。だが娘があまりにうるさいから、形だけ見せに来ただけじゃ。湿布の一枚でもくれれば、それでええ」


 源三は、ぶっきらぼうに海斗の前に左手首を差し出した。


 手首は赤黒く腫れ上がり、明らかに正常な状態ではなかった。


「……少し触りますね」


 海斗は慎重に触診を始めた。


「源三さん、ここを押すと痛みますか?」


「ぐっ……! い、痛いがな、当たり前じゃ!」


 手首少し親指側、嗅ぎタバコ窩と呼ばれる窪みに、著しい圧痛がある。


「手の骨が折れているの疑いがあります。レントゲンを撮りましょう」


「レントゲンだと? 大袈裟な……」


 文句を言う源三を、早苗と美波が半ば無理やりレントゲン室へと連れて行った。


 数分後。現像されたフィルムをシャーカステン(フィルム観察器)にかける。


 海斗は、眉をひそめた。


 手首を構成する八つの手根骨。その中に典型的な骨折線は見当たらない。


「……おかしいな」


 だが、症状は明らかに骨折を示唆している。


 診察室に戻り、海斗は二人に告げた。


「レントゲンでは、はっきりとした骨折線は確認できませんでした」


「ほれ見ろ! やはりただの打ち身じゃ!」


 源三は得意げに胸を張る。


「ですが」と海斗は言葉を続けた。


「舟状骨のような小さな骨の骨折、特に『ひび』のような不全骨折は、初期のレントゲンでは写らないことも多いんです。ですが症状から見て、骨折の可能性は非常に高い」


「あやふやなこと言うな!」


 源三の声のトーンが変わった。


「骨折していると仮定して治療するのが最善です。これから四週間ギプスで完全に固定します。仕事は絶対に休んでください」


「……なんだと?」


 源三の目の色が変わった。


「冗談じゃない! 四週間だと!? このくそ忙しい時期に一ヶ月も仕事を休めというのか! 桶作りは待ってくれんのじゃ! 手が使えんと、わしは死んだも同然なんじゃぞ!」


 源三の怒声が、静かなクリニックに響き渡った。


「お父さん! 先生の言うことを聞いて!」


「黙れ早苗! 先生、はっきりさせてくれんか。折れとるんか折れとらんのか。どっちなんじゃ!」


「ですから確定は……」


「あやふやな診断のために職人の命である手を止めろと言うのか! あんたにわしらの仕事の何が分かる!」


 頑固な職人の言葉に、海斗はぐうの音も出なかった。


「……源じい、気持ちは分かるけど先生もあなたの身体を心配して……」


 美波が助け舟を出そうとするが、源三の勢いは止まらない。


 海斗は困り果てた。どうすればこの頑固な職人を納得させられる?


 その時だった。


 海斗の脳裏に以前港で出会った一人の老人の姿がよみがえった。


 島の石工の棟梁、村上龍正。


 村上龍正が庵治石の原石を優しく撫でながら言っていた言葉。


『ワシらはな、石を撫でただけで中の傷が分かるんじゃ。目には見えん石の目、石の声がこの指には聞こえるんじゃよ』


 ……石の声。


 常識ではありえない。だがあの時の村上さんの目には絶対的な自信が宿っていた。


 賭けてみるか……?


「分かりました」


 海斗は意を決して顔を上げた。


「では、骨折しているかどうか、はっきりさせましょう。ですが少しお時間をください。俺に考えがあります」


 海斗は美波にクリニックを任せると、文字通り坂道を駆け上がった。


 島の高台にある、村上石工の作業場へ。


「村上さん!」


 粉塵の舞う作業場で、村上龍正は黙々と石を磨いていた。


「……なんじゃ先生。慌てて」


「お願いがあります! あなたの『手』を貸してください!」


 海斗は事情を手短に説明した。そして深く深く頭を下げた。


「俺の目では見つけられない『骨の傷』を、あなたの指で見つけてほしいんです」


 村上はしばらく無言で、海斗の顔を見つめていた。


 やがて村上は、ゆっくりと手を止め立ち上がった。


「……面白い。医者の先生が石屋に頭を下げるとはな。よかろう。行ってやる」

 

 クリニックに村上石工を連れて帰ると、源三は訝しげな顔をした。


「村上……? なんで石屋がここに……」


「源三、お前の手を見せろ」


 村上は多くを語らず、源三の前に座った。


「馬鹿馬鹿しい。石屋にわしの手の何が分かる」


 源三は悪態をつきながらも、村上の気迫に押され、おとなしく左手を差し出した。


 村上はその手首を、両手で包み込むように持った。


 そしてゆっくりと目を閉じた。


 診察室から音が消えた。


 誰もが固唾を飲んで村上の指先を見守っている。


 村上はまるで何百年も前の銘石を鑑定するかのように、指先で骨の表面を丹念になぞっていく。ミリ単位の動き。皮膚の上を滑らせ軽くタップして、戻って来る微かな振動を感じ取っていく。


 長い長い沈黙。


 それはまるで、静かな儀式のような時間だった。


 やがて村上は、ゆっくりと目を開いた。


 そして腫れた手首の一点を、人差し指で静かに示した。


「……先生」


「はい」


「ここの骨じゃ。舟のような形をしたこの骨」


「舟状骨ですか」


「他の骨とは響きと振動が違う」


 村上はさらに続けた。


「そしてここからこう……」


 村上の指が骨の上を数ミリ滑る。


「髪の毛一本ほどの『流れ』がある。目には見えんが、確かにここに傷が入っとる」


「……ありがとうございます、村上さん。もう十分です」


 海斗は確信した。


 海斗は源三に向き直った。


「源三さん、もう一度だけレントゲンを撮らせてください。今度は必ず写してみせます」


 海斗はレントゲン室に入ると、撮影の角度を0.1ミリ単位で調整した。


 村上が示した「流れ」のライン。その微細な亀裂がフィルムに対して垂直に写し出される唯一の角度。それを探り当てる。


 そして撮影。


 現像されたフィルムをシャーカステンにかける。


 そこにいた全員が息をのんだ。


 先ほどのフィルムには何も写っていなかったその場所に。


 髪の毛のように細く白い一本の線がくっきりと浮かび上がっていた。


 微細な、しかし決定的な骨折線。


「ああ……」


 早苗が小さな悲鳴を上げた。


「……ほんまじゃ」


 源三が呆然と呟いた。


 やがて源三は椅子から立ち上がると、海斗と村上の前に立った。


「先生……村上さん……。疑って本当にすまんかった。わしの負けじゃ。仕事は、休む!」


 その声は震えていた。


「お父さん……!」


 早苗がホッとした声を出す。


「先生、本当にありがとうございました……!」


 クリニックの外で、空は美しい茜色に染まっていた。


 帰り支度をする村上の背中に、海斗は声をかけた。


「さすがでした、村上さん。……どうやって、分かるようになったんですか?」


 村上は振り向くとにやりと笑った。


「石も骨も一緒じゃ。何十年もそれだけを見つめ触り続けていれば、声が聞こえるようになるもんじゃよ」


 村上は海斗の目をまっすぐに見た。


「先生も、ワシらと同じ『職人』の目を持っとるで」


「だと、いいんですが。……ああそうだ、話は変わるんですが、黒曜石って、大豆島で採れたでしょうか? 黒曜石じゃなくても、高温を加えても壊れない、強度の高い石であれば、いいんですが」


「何じゃ、藪から棒に。黒曜石は採れんが、ダイカイトって石なら、その条件を満たすかもしれんな」


「今度、工房にお邪魔してもいいですか。ご相談があります」


「おお、歓迎するで。先生なぁ、色んな工場に顔出しとるやろ。若いモンがうちの仕事に興味持ったって、じーさん連中は喜んどる。跡継ぎのいない工場や工房も多いからなぁ。まあ、儲からんし、地味だし、仕方ないけどな」


 儲からん、という言葉に、ふと思い出した。


海斗が鉄工所で鉗子を特注した時、時間をかけてもらった割に、随分と安価に感じた。もしかしたら、世間知らずの海斗が知らなかっただけで、大サービスの価格だったのかもしれない。


 この島の老人たちは、一度懐に入れた相手には優しいが、甘えすぎるのは良くない。技術には、正当な金額を支払うべきだ。次は樹脂製の鉗子を作ってもらいたいと思っていたが、相場をきちんと調べてから行くべきだろう。


「いえ、職人技は格好いいと、俺は思います。……ちょっとお金のかかることをお願いするかもしれない。給料日後に、お邪魔しますね」


「おう、いつでも来ていいで」


 言い残して、村上は去っていった。


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