4. 秘密兵器
秘密兵器
美波の不安は、的中した。
夜半過ぎ。暴風雨が、窓ガラスを叩きつけていた。クリニックの電話が、狂ったように鳴り響いた。
海斗が受話器を取る。
「 た、助けてください! 親父が……!」
電話の向こうから、切羽詰まった若い男の声が聞こえた。
十分後。
クリニックの玄関に、一台のトラックが、猛スピードで滑り込んできた。
運び込まれてきたのは、60代ほどの、屈強な体格の男だった。漁師だ、と一目で分かった。男の顔は、苦痛に歪み、真っ青になっている。左足のふくらはぎから出血があり、応急処置で巻かれたタオルを、真っ赤に染めていた。
「親父! しっかりしろ!」
息子らしき青年が、泣きそうな声で叫ぶ。
「転んで、加工場の冷凍保管室の棚に、足を引っ掛けて……!」
「棚は木製ですか? 古い棚?」
「ステンレス製です、半年くらい前に買ったものですけど、アルコール消毒は毎日してて」
海斗は、冷静に、しかし迅速に、男--剛を処置室に運び込んだ。
「美波さん、輸液開始! 血圧測定! それから、念の為破傷風のトキソイドと抗菌薬も!」
「は、はい!」
美波が、慌ただしく動き出す。
海斗は、剛のズボンをハサミで切り裂いた。
左下腿に現れた傷口を見て、息をのむ。
深い。大きい。
大きく裂けた創は深く、皮膚と筋肉は無惨に損傷しており、深部の神経への影響も疑われるほどだ。全長20cmはあり、血が流れている。
「足は動きますか?……これ、触っているの、分かりますか?」
「ああ」
「……おそらく神経は大丈夫ですね。動脈は大丈夫そうに見えるが……出血が多いな。処置します」
本土の病院へ搬送できない今、ここで、自分がやるしかない。
まずは、ガーゼによる圧迫で止血をした。次に局所麻酔を打ち、傷口の洗浄と、デブリードマン(汚染された組織の除去)を、手早く行う。さらに、傷の奥深くの、断裂した筋肉と筋膜を縫い合わせる。その手際に、迷いはない。阪都大学病院で、数えきれないほど、こなしてきた処置だ。
問題は、ここからだった。
皮膚の創縁をピンセットで寄せ、一針目を縫合する。外科の基本だ。
だが、糸を結び、引き締めた瞬間、海斗は、異変に気づいた。
糸が貫通している部分の皮膚が、白く張っている。そして、チーズをワイヤーで切るかのように、じわり、と、皮膚が裂け始めたのだ。
「くそっ……! 皮膚が、張力に耐えられない!」
慌てて、その糸を抜く。だが、時すでに遅く、皮膚の一部が破けてしまう。
「先生、どうしたん!?」
「創縁の血流が、悪すぎる。それに、長年の肉体労働で皮膚が硬化している。このまま普通に縫合すれば、次々と皮膚が裂けて、壊死してしまう……!」
どうすればいい。
海斗の額から、冷たい汗が流れ落ちる。今から、論文など調べている時間もない。
その時だった。
処置室の入り口で、心配そうに様子を見ていた剛の息子が、おずおずと、口を開いた。息子も漁師らしく、日に焼けて体格もしっかりしている。
「先生」
「……なんですか。今は、手が離せないんですが」
海斗は、苛立ちを隠さずに答えた。
「そんな、一点だけで、無理やり引っ張ったら……そりゃあ、網なら、すぐに、破れてしまいますよ」
「……網?」
海斗は、思わず、聞き返した。
「そうです。大きな穴が開いた網を繕うときは、まず、穴の周りに、『支えの糸』を、何本か格子状に、渡すんです。そうやって、引っ張る力を、一点じゃなくて、周り全体に散らす。それから、中の細かいところを、縫っていくんです」
「力を……全体に、散らす……?」
海斗の頭の中で、何かが、閃光のように、きらめいた。
「面で、支える……」
そうだ。なぜ、気づかなかった。創縁そのものを引っ張るから、裂けるのだ。ならば、もっと遠くから、創全体を、面で支えればいい。
息子の言葉と、海斗が知る縫合術が、頭の中で結びつき、再構築されていく。
「もっと広範囲に、力を分散させる……格子状に……」
海斗は、ぶつぶつと呟きながら、新しい縫合のイメージを、頭の中で組み立てていた。
「美波さん、一番太いナイロン糸と、一番大きな縫い針を」
「え? 先生、何を……?」
「お願いです、早く!」
美波から、器具を受け取ると、海斗はメスを握り直した。
誰もが、息をのむ。
海斗は創の縁から数センチ離れた、健康な皮膚に針を刺した。そして、創を大きくまたいで、反対側の同じく健康な皮膚へと、糸を通す。
それを、創に沿って、数カ所繰り返す。
創の上に、まるで梯子のように、何本もの糸が渡された。
「先生……そんな縫い方、見たことない……!」
美波が、驚愕の声を上げた。
「次に、この渡した糸を、格子状に編んでいきます」
海斗は今度は、創と平行に、先ほど渡した糸を縫うようにして絡めていく。
処置室にいる誰もが、その光景に魅入られていた。
やがて創部の上に、ナイロン糸でできた、精緻な「網」が完成した。
そして海斗は、その網の糸を一本一本、均等な力で、ゆっくりと引き締めていった。
すると。
あれほどぱっくりと開いていた創が、まるで巾着の口を絞るように、ゆっくりと穏やかに、閉じていく。創縁の皮膚には、ほとんど、張力がかかっていない。全ての力が、周囲の健康な皮膚と、糸が作った「網」に分散されているのだ。
「すごい……」
美波が、感嘆の声を漏らした。
「本当に、網だ……」
創が、完全に、閉じた。
「俺も、今、考えました」
海斗は、汗を拭いながら言った。
「名付けるなら……『漁網縫合』です」
嵐の夜が、明けた。
漁師の剛の創部の経過は、驚くほど良好だった。
後日、クリニックを訪れた剛が、海斗の前に、深々と頭を下げた。
「先生。俺等漁師の当たり前の知恵が、まさかこんな形で俺の命を、救うとは……夢にも思わなかった」
「いいえ。俺の知識だけでは、救えなかった。俺は……知りませんでした。教科書にはない知識が、この島には、眠っているのかもしれない。ありがとう、ございました」
海斗も、深く、深く、頭を下げた。
東の空は、どこまでも、青く、澄み渡っていた。
◇
嵐の夜に漁師を救って以来、海斗の行動は劇的に変わった。
海斗はクリニックの外へ積極的に足を運ぶようになった。医学書を読む時間を割いて、島の様々な「職人」たちを訪ねて回ったのだ。
醤油蔵の杜氏、そうめん作りの名人、オリーブ農家。彼らの仕事には長年の経験と試行錯誤の末に培われた科学的な合理性が隠されていた。発酵の温度管理、塩分濃度の調整、生地の乾燥具合。海斗は彼らとの対話の中から、医療に応用できるヒントを貪欲に吸収していった。
そんな中、海斗が最も心を惹かれたのは港の片隅にある小さな鉄工所だった。
『坂上鉄工所』
錆びついた看板を掲げたその工場をたった一人で切り盛りしているのは、坂上吾郎という、無口で頑固そうな70代の職人だった。
「ごめんください」
海斗が油と鉄の匂いが充満する鉄工所に足を踏み入れる。吾郎は火花を散らす溶接機から、ちらりと視線を向けただけだった。
「……なんじゃ、医者の先生がこんな汚い場所に何の用だ」
「少しお話を伺わせていただけませんか」
「話すことなど何もない。帰ってくれ。わしは忙しい」
取り付く島もないとはこのことだった。
海斗は諦めなかった。
海斗はクリニックの、古くて使いにくい鉗子にずっと不満を抱いていた。
鉗子とは、医療器具の一種だ。
一見すると、その形状は裁縫箱に入っているような、柄の長い華奢なハサミに似ている。指を通す二つの輪。交差する支点。長く伸びた二本の金属の腕。だが、決定的な違いが先端にある。対象を「切る」ための刃ではなく、指先のように「掴む」ための溝が刻まれているのだ。血管を挟んで出血を止めたり、微細な組織を確保したりする、外科医の指の延長だ。
しかし、クリニックの鉗子は酷い。度重なる滅菌消毒と使用で、金属が疲労している。左右の腕を繋ぐ関節部分、「ボックスロック」と呼ばれる支点にガタがきていた。先端を閉じても、紙一枚分の隙間が空く。このわずかな隙間が、命取りになる。ぬめる血液の中では、血管が滑り落ちてしまうのだ。そもそも、鉗子の先端が太く、細かい作業がしづらい。
もっと先端が細く、それでいて組織を優しく確実に掴むことができるような特殊な鉗子。そんなものがあれば……。
阪都大学病院ならば世界中のメーカーから取り寄せることができた。だが、ここでは夢物語だ。それに、そもそも日本人の小さな手にフィットする鉗子は、なかなか無い。
ならば作ればいい。
この島の技術で。
海斗はその日から毎日鉄工所に通い詰めた。
「坂上さん、これを見てください」
海斗は自分で描いた精密な鉗子の設計図を吾郎の前に差し出した。
「……なんだ、これは」
「医療用の鉗子です。ここの先端の角度をあと3度鋭角に。そして掴む部分の内側に滑り止めのための、0.1ミリ単位の微細な溝を刻んでほしいんです」
吾郎は設計図を一瞥するとふんと鼻で笑った。
「馬鹿を言え。医療器具なんぞ作ったこともないわ。それに0.1ミリの溝だと? わしのこの古びた旋盤でできるわけがなかろう」
「できます」
海斗は断言した。
「先日、あなたが修理していた醤油の圧搾機のベアリング部分を見ました。あそこにはミクロン単位の精密な加工が施されていた。あなたなら絶対にできるはずです」
吾郎は少し驚いたような顔をした。自分の仕事を、そこまで細かく見ている人間がいたことに意表を突かれたのだ。
「……帰ってくれ。わしには関係のない話だ」
それでも吾郎の態度は変わらなかった。
海斗は作戦を変えた。
海斗は吾郎の仕事ぶりをただ黙って観察し続けた。
油にまみれ火花を浴びながら、吾郎は古びた機械をまるで自分の手足のように操っていた。その指先は長年の仕事で太くごつごつしている。だが、その動きは信じられないほど繊細だった。
金属を削る音。熱した鉄をハンマーで叩くリズミカルな響き。
海斗はそこに、自分が手術室で感じていたのと同じ種類の緊張感と集中力があることに、気づいた。
この人も自分と同じだ。
最高の仕事をすることに、人生の全てを賭けている。
何日か通い続けたある日。海斗はクリニックから顕微鏡を運び込んできた。
「坂上さん、これで見てください」
海斗は自分が持ってきたドイツ製の最高級のマイクロ鉗子の先端を、顕微鏡のレンズの下に置いた。
「……」
吾郎は訝しげな顔をしながらも、レンズを覗き込んだ。
そこには肉眼では決して見ることのできない、精密な加工の世界が広がっていた。
「これが……先生が使いよる道具か」
「はい。ですがこれでもまだ不満な点がある。もっとこう……」
海斗はそこから夢中で語り始めた。
人体の組織がどれほどデリケートで柔らかいか。血管や神経がいかに複雑に入り組んでいるか。手術や医療処置というものが、どれほどの精密さを要求される作業であるか。
吾郎は初めて黙って海斗の話を聞いていた。
「……分かった」
一通り話し終えた後、吾郎はぽつりと呟いた。
「え?」
「面白い。やってやる」
その瞳には、職人のプライドと、そして挑戦への好奇心の炎が宿っていた。
そこから、二人の奇妙な共同作業が始まった。
海斗は毎日診療が終わると鉄工所に通い、吾郎の横で『ああでもない、こうでもない』と話をする。
「坂上さん、そこのカーブが違う。もっと滑らかに」
「うるさい! 分かっとるわい!」
「素材はチタンが理想ですが……」
「そんなもんあるか! このステンレスで、焼き入れの温度で調整する!」
世代も性格も全く違う二人。だが一つのものを創り上げるという共通の目的が、彼らを強く結びつけていた。
海斗は、金属の特性や加工技術の限界を学んだ。
吾郎は、解剖学や医療の現場で本当に求められる機能性を学んだ。
試作品がいくつも作られた。そのたびに海斗は、それを鳥のササミや豚のレバーを使って試し、改善点をフィードバックする。
そして、一ヶ月後。
ついに一本の鉗子が完成した。
先端は針のように細く鋭い。それでいて掴んだものを決して傷つけないだけの堅牢さを保っている。
海斗はそれを手に取った。
驚くほど指に馴染む。まるで、生まれた時から体の一部であったかのように。動かしてみると、カチ、カチ、カチ。ぴたりと噛み合う、閉じた先端は、光すら通さない完全な密閉。
まるで海斗のためにあつらえられた、芸術品。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
「これなら……戦える!」
吾郎は何も言わず、ただ腕を組み満足そうにその光景を眺めていた。その顔には、確かな笑みが浮かんでいた。
阪都大学病院にあったどんな最新器具よりも頼もしい、『秘密兵器』の誕生の瞬間だった。
◇
その日は、朝から穏やかな晴天だった。
クリニックはいつものように、風邪や腰痛を訴える高齢の患者たちで賑わっていた。
「先生、この間の薬、よう効いたわ。ありがとうな」
「そうですか。それは良かった」
海斗は、以前よりずっと自然な笑顔で、患者と接することができるようになっていた。
だが、その平穏は一本の電話で破られた。
「先生! 大変や! ユウキ君が家の裏の崖から落ちて……!」
電話の向こうから、美波の切羽詰まった声が聞こえた。
海斗が現場に駆けつけると。
小さな空き地の、その先。高さ5メートルほどの崖の下で、一人の少年が倒れていた。
小学二年生のユウキ君。この島で数少ない子供の一人だ。
「ユウキ! しっかりしろ!」
母親が泣き叫んでいる。
「ユウキ君、分かるか! 俺の声が聞こえるか!」
呼びかけると少年はうっすらと目を開けた。意識はある。
だが、右腕がありえない方向に曲がっている。複雑骨折だ。そして腹部。着ていたTシャツが赤黒く染まっている。
「先生、お腹に棒が刺さっとる……」
駆けつけた美波が息をのむ。
少年の脇腹あたりから一本の錆びついた鉄筋が突き出ていた。崖から落ちた際に、地面に突き刺さっていた廃材に身体を貫かれたらしい。
「……本土の病院に――いや、間に合わない。クリニックに運ぶ」
海斗の声は冷静だった。だがその頭脳は、猛烈な速さで回転していた。
鉄筋を下手に抜くことはできない。抜いた瞬間大出血を起こす可能性がある。
クリニックに運び込みバイタルサインを確認する。血圧は危険なレベルまで低下していた。腹腔内での出血が疑われた。
「美波さん、輸血と、抗菌薬の準備を」
海斗は、ユウキ君の母親に向き直った。
「お母さん、今から緊急手術を行います」
「しゅ、手術!? ここでですか!?」
「今から本土に運んでも、間に合わない」
古びた処置室が、にわかに手術室へと姿を変える。
麻酔をかけ、海斗はメスを握った。
開腹する。
案の定腹腔内は血液で満たされていた。脾臓が、損傷し出血源となっている。そして鉄筋は肝臓をかすめるようにして身体を貫通していた。
まず、脾臓を摘出する。ここまでは問題ない。
問題は、体内に深く突き刺さった鉄筋だった。
その先端は、おそらく重要な臓器近くにまで達しているだろう。海斗の脳裏に、レントゲンに映し出された鉄筋が浮かんだ。
いかに安全に、この異物を抜去するか。
海斗は大きく息を吸い込んだ。
海斗は手袋をした手で、重力に逆らうように、ゆっくりと、しかし確実に鉄筋を引き抜いていく。数ミリ、また数ミリと、鉄筋が体外へと姿を現す。そのたびに、手術室にいる全員の息を呑む音が聞こえるようだった。
全ての鉄筋が引き出されるまで、あと5ミリ、1ミリ……。
「やった!」
体外に全ての鉄筋が出て、処置室に歓声が響いた。
その時だった。損傷した血管から、鮮血が勢いよく噴き出し、海斗の白衣を赤く染めた。
「サクション! 」
海斗の短い、しかし力強い指示が響き渡る。
美波は素早く吸引器を手に取り、血を吸い取る。
海斗は素早く出血点を探り当てると、清潔ガーゼで圧迫する。
海斗は、特注の鉗子を取り出した。先端は極めて細く、手に馴染む。
島の、「秘密兵器」。
海斗は、全神経を指先に集中させる。鉗子の細い先端で血管を挟むと、すっと出血が止まった。血管を縫合していく。一本一本の糸を、丁寧に、確実に結んでいく。
手術室の天井から吊り下げられた時計の秒針だけが、カチカチと時を刻んでいく。
海斗の額には、すでに大量の汗が滲み、髪が張り付いている。美波は、その額の汗を、そっと清潔なタオルで拭った。
そしてついに。
海斗は最後の一針を縫い終えると大きく息を吐いた。
「……終わった」
手術は、成功した。
幸い、脾臓以外の主要臓器に大きな損傷はなく、麻酔から覚めたユウキ君は奇跡的に快方へと向かった。
数日後。
クリニックの前に、多くの島の住民が集まっていた。
ユウキ君の母親が海斗の前で、深々と頭を下げた。
「先生……本当にありがとうございました。あなたがいなければこの子は助からなかった。あんたはこの島の宝じゃ」
その言葉に続いて、人々から拍手が沸き起こった。
温かい心のこもった拍手。
海斗は大学病院でどんなに難しい手術を成功させても、こんな拍手をもらったことはなかった。
データでも論文の評価でもない。
ただひたすらに温かい「ありがとう」という気持ち。
海斗は、涙をこらえるので精一杯だった。
◇
その夜。
海斗は一人診察室で机の前に座っていた。
机の上には二つのものが、並べて置かれている。
一つは海斗が学生時代から使い込んできた、ボロボロの外科学の教科書。
もう一つは、坂上吾郎が作ってくれた、世界に一つだけの特注の鉗子。
海斗はその二つを交互に見つめた。
そして静かに呟いた。
「俺の医療はまだ終わっていなかった。いや……ここから始まるのかもしれない」
その瞳にはもはや、絶望の色はなかった。
◇
次の日の午後、クリニックのドアが勢いよく開いた。
「先生! お願いします! この頑固親父をどうにかしてください!」




