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3. 白衣の天使の大活躍

白衣の天使の大活躍


 ◇


 1月後、初夏。大豆島を奇妙な災厄が襲った。


 体長一ミリほどのヌカカと呼ばれる羽虫が、過去に例がないほど大量発生したのだ。夕暮れ時になるとどこからともなく現れ、人々を執拗に刺す。刺された箇所は米粒大に赤く腫れ上がり、耐え難いほどの激しい痒みが何日も続いた。


 クリニックは、皮膚の痒みを訴える患者で溢れかえっていた。


「先生、痒うて夜も眠れんのじゃ」


「子供が掻きむしって血だらけになって……」


「診断は刺虫症による皮膚炎。治療はステロイド軟膏。標準治療です」


 海斗の処置は迅速かつ的確だった。だが患者の数は減るどころか日に日に増えていく。備蓄していた薬品はあっという間に底をつきかけていた。


「……おかしい。島のお年寄りたちも、こんな事態は初めてだと言っている」


 海斗は自分のパソコンで、気象データと関連論文を猛烈な勢いで検索し始めた。


「原因が分かりました。この数年の瀬戸内海の平均海水温の上昇です。地球温暖化の影響で、ヌカカの繁殖サイクルが異常に活性化しているんだ。解決策は……地球温暖化を止めれば」


「壮大な構想もええけど、その前に、先生! 薬、もうこれだけしかないで!」


 美波が、ほとんど空になった薬棚を指差した。


「本土に追加を要請していますが、船便では到着まで二日かかるそうです……」


「二日も待たれへん。それまでに島の子供ら、みんなボロボロになってまう」


 元気に走り回るはずの子供たちが、診察室でしょんぼりと身体を掻いている姿を見て、美波はぐっと唇を噛んだ。


 美波は意を決して、海斗に言った。


「先生。うちはうちのやり方でやってみるわ」


「……どういう意味です?」


「薬がないなら作ればええんよ。……ドクダミとヨモギは、痒みによう効くんや!」


 言うや否や、美波は大きな籠を手にクリニックを飛び出していった。


 ◇


 海斗は美波の行動を「非科学的な民間療法だ」と内心断じながらも、美波の言葉が気になっていた。好奇心に駆られ、パソコンで、pubemd――医療用論文データベース――の検索を始めた。


『ヨモギ 薬効』『ドクダミ 皮膚炎』


 表示されたのは英語で書かれた、数えきれないほどの学術論文だった。


『Artemisia princepsヨモギ抽出物の抗炎症効果と鎮痒作用について』


『Houttuynia cordataドクダミの抗菌活性とその機序』


 論文を読み進めるうち、海斗の顔から血の気が引いていった。


 美波の行動は、気休めなどではなかった。何百年も前から、人類が経験則で知っていた、科学だったのだ。


 ◇


 一時間後。美波がカゴいっぱいに山盛りの、ヨモギとドクダミを抱えて戻ってきた。


「これをすり潰して、ガーゼに塗るんよ。気休めかもしれんけど、何もしないよりはマシやろ」


 美波が、クリニックの流し台で作業を始めようとする。


「……美波さん」


「ん、先生? どうしたん?」


「その物理的な破砕抽出法では、有効成分の細胞壁からの収率が低くなる。結果、必要な薬の量が多くなって、島民全員に行き渡らない」


 海斗は腕を組み、真剣な顔で言った。


「エタノールを使った、溶媒抽出法に切り替えましょう。その後ワセリンを基剤に軟膏として練り上げるのが最も合理的だ。……手伝います」


「……え?」


 きょとんとする美波を尻目に、海斗は薬棚の奥から、エタノールとビーカーを取り出した。


 海斗の頭脳は、既に最適な薬の製造工程を完全に描き出していた。


 そこから二人の奇妙な共同作業が始まった。


 美波が豊富な経験から、薬草の選別と下処理を行う。


 海斗が科学的な知識で、有効成分を最大限に引き出すための、抽出と精製を担当する。


 クリニックの流し台は、まるで実験室のようになった。


 ヨモギとドクダミの青々しい強い香りが、クリニック中に満ちていく。


 ◇


 数時間後。


 大きな保存容器いっぱいに、深緑色の滑らかな軟膏が完成した。


「よし、完成や!」


 美波は小さな軟膏ケースに薬を詰めながら言った。


 海斗は完成した軟膏を、少量プレパラートに取ると、顕微鏡で覗き込んだ。


「……うん。有効成分の結晶化も見られない。基剤との乳化状態も良好だ。これなら皮膚への浸透も期待できる」


 二人が作った「特製ヨモダミ軟膏」は驚きの効果を発揮した。赤く腫れた患部に塗ると、すっと熱が引き、しつこい痒みが和らいでいく。


 何よりもクリニックにあった薬品とは違い、島の自然から作られたその薬は、人々の心を和ませた。


 海斗はその光景を目の当たりにし、呟いた。


「最新の医学も、古くから伝わる知恵も、正しい、か……」


 ◇


 その日の午後、絶え間なく来院していた患者が、一瞬途切れた瞬間があった。


 テーブルの上には空になった軟膏の容器がいくつも並んでいる。


「……それにしても驚きました」


 海斗が、カルテ記載のペンを止め、呟いた。


「何がや、先生?」


「あなたの知識です」


 海斗は真剣な目で美波を見た。


「美波さん、教えてください。なぜ、ドクダミやヨモギの薬効を、あれほど確信をもって知っていたんですか? 俺が論文で読んだ知識とは、明らかに違うようでしたが」


 それは海斗の科学者としての疑問だった。そして美波という人間へ、始めて強い興味を持った瞬間でもあった。


 美波は手を止め、少しだけ遠い目をした。窓の外の、島の山の稜線を眺める。まるでその向こうに別の景色を見ているかのように。


「……論文やないな」


 彼女は静かに言った。


「身体で覚えたことやから」


「身体で……?」


 美波は海斗に向き直った。その笑顔はいつもより少しだけ大人びて見えた。


「うちはな先生、ここよりも、もっと薬がない場所で育ったんよ」


「……え」


「――薬がたとえあったとしても、簡単には買えへん人たちが多い、そんなところ。……もう、どこにも無い場所やけど」


 海斗は息を飲んだ。


「先生、かゆくてたまらん!」


 外来患者がまた一人現れ、会話はそこで止まった。


 ◇


 最近の海斗は、自分の診療方法を島に最適化させようと、必死にもがいていた。しかし、島の住民は、元気があって口達者な高齢者が多く、『医師だから』と簡単に話を聞いてくれるケースなど稀だった。


「また、負けた……」


「あー、またどっかのじーちゃんに言い負かされたん? 大丈夫、大丈夫。うちの推しのアウレリウスもな、こう言うとる。『朝に、こう自分に言い聞かせるのだ。おせっかいで、恩知らずで、横柄な人たちに、今日、私は出会うだろう、と』。もともと、人間なんてそんなもんや、て思ってたら、腹も立たんやろ?」


「そんなに簡単に、割り切れませんよ……」


 丁寧に問診をして、患者を理解する。ただそれだけのことが、こんなにも難しいとは。


 ◇


「山下さん、その咳は、いつからですか?」


「さあ、いつからじゃったかのう。先週くらいかの」


「痰は絡みますか? 色は何色ですか? 黄色いですか、緑ですか?」


「さあ……そんなもん、いちいち見とらんわ」


「そうですか……。では、胸の音を聞きますね。少し、服をめくってください」


 海斗は、聴診器を、気管支炎を疑う山下の背中に当てた。


「大きく、息を吸って……吐いて……」


「すー、はー」


「……ラ音は聴取されません」


「先生、なんですかな。その、らおん、とかいうのは」


「あ、いえ……肺の雑音のことです。今のところ、肺炎の兆候は……」


「はあ……」


 山下は、明らかに、退屈そうな顔をしていた。


 海斗は、焦っていた。


 患者に、分かりやすく説明する。美波に言われた通り、それを実践しようとしているのに、どうしても、長年染み付いた癖が抜けないのだ。彼の口から出てくるのは、無意識のうちに、専門用語ばかり。


「要するに、今のところ、大きな心配はいらない、ということです。ただ、コンプロマイズドホストですので念のため、抗生剤を……」


「先生、もうええわ」


 老人は、話を遮って、立ち上がってしまった。


「え?」


「風邪じゃろ、どうせ。うちで、ネギを首に巻いて、寝とくわ。薬は、いらん」


 そう言い残して、老人は、さっさと診察室から出て行ってしまった。


 残されたのは、呆然とする海斗だけ。


「……はぁ」


 大きなため息が、診察室に漏れた。


 そこに、ひょこりと、美波が顔を出す。


「先生、お疲れさん。今の、見てたで」


「……見ていたなら、助けてくれてもいいじゃないですか」


 海斗は、少し、拗ねたように言った。


「あかんよ。これは先生が、自分で乗り越えなあかん壁やもん」


「壁……。俺には、無理かもしれません。患者が何を考えているのか、さっぱり分からない」


「そらそうやろ。先生、患者さんの顔、ちゃんと見てへんもん」


「見てますよ。診察してるんですから」


「ちゃうちゃう。顔色は見てるかもしれんけど、表情は見てへん。先生が見てるんは、病気だけや。その奥におる人間を、見ようとしてへんのよ」


「……どうすれば、いいんですか」


「うーん、そうやなあ……」


 美波は、少し考えると、にっこりと笑った。


「まず、その白衣、脱いでみいひん?」


「え?」


「先生、いっつも、その真っ白な白衣、着とるやん。ネクタイまで。それが、鎧みたいに見えるんよ。患者さんからしたら、『偉いお医者様』て感じで、どうしても身構えてしまうんちゃうかな。前の先生と比べる訳やないんやけど、前の先生はええ加減で、普段着で診療しとったで」


「しかし、これは、医師としての……」


 大学病院ではむしろ、白衣・ネクタイ・革靴を着用してないと教授の『指導』が入った。理由は――覚えていない。研修医が、『急患対応時には、革靴では走りづらいし、スクラブの方が動きやすいのに』と愚痴っていたのを、思い出す。


「ここでは、そんなん、いらんいらん。もっと、ラフな格好でええんよ。その方が、みんな、話しやすいって」


 ◇


 翌日。


 海斗は、美波のアドバイス通り、清潔な襟付きシャツにチノパンという、比較的ラフな格好で、診察に臨んだ。


 最初は、落ち着かなかった。白衣を脱ぐと、まるで、丸裸にされたような、心許ない気分だった。


 白衣は、たしかに鎧だったのだ。


 --子供だと、侮られないための。


 だが効果は、てきめんだった。


「おや先生。今日は、わしらと同じような格好じゃな」


「その方が、親しみやすいわい」


 患者たちの反応が、明らかに昨日までとは違っていた。警戒心が解け、他愛のない世間話を、向こうからしてくれるようになったのだ。


「先生、大阪から来なすったんか?」


「はい」


「大阪の、どこな?」


「……阪都大学病院に、いました」


「ほう! そりゃ、すごいとこじゃ! わしの息子もな、大阪で働いとるんよ。先生みたいに、頭は良うないがな、ははは」


 海斗は、戸惑いながらも、一つ一つ、丁寧に相槌を打った。


 医療とは、関係のない話。以前の海斗にとっては、無駄な時間にしか思えなかった。だが、その「無駄な時間」が、患者との距離を少しずつ縮めていることに、海斗は気づき始めていた。


 ◇


 コミュニケーションの努力は、診察室の外でも続いた。


 海斗は、美波に連れられて、往診にも行くようになった。軽トラックに揺られ、島の狭い農道を走り、一軒一軒、患者の家を訪ねて回る。


 そこでの光景は、海斗にとって、驚きの連続だった。


 美波は、患者の家に着くと、まず、仏壇に手を合わせた。そして、お婆さんの血圧を測りながら、その家の嫁の愚痴を聞いたり、孫の自慢話に付き合ったりする。


「美波ちゃん、これ、持ってきな」


「わ、大根! ええの、おばあちゃん?」


「ええんよ。たくさん採れたから、先生も、持ってきなされ」


 往診が終わる頃には、軽トラックの荷台は、島で採れた野菜で、いっぱいになっていた。


 美波は、笑った。


「ここでは医療も、生活の一部なんよ。診察料だけやない。こういう、気持ちのやり取りが、大事なんや」


「気持ちの、やり取り……」


 ◇


 ある日の往診先。


 寝たきりの、末期癌の老人の家だった。病は老人の全身を蝕み、その顔には深い苦痛が刻まれていた。かつて島一番の漁師と謳われた頑固な男、定吉。もう、積極的な治療は何もできない状態だった。できるのは、痛みを和らげる緩和ケアだけだ。


 海斗は、マニュアル通りモルヒネの量を調整し、テキパキと、処置を済ませようとした。


 その隣で、美波はそっとベッドの横に座った。


「定吉おじいちゃん、今日は、調子どう?」


 美波の優しい声が、重苦しい空気に温かい一滴を落とす。定吉は、苦痛に歪んだ顔で美波を一瞥すると、ふい、と顔を背けた。彼の心は、病の痛みだけでなく、迫りくる死への恐怖で閉ざされているようだった。


「……うるさい。放っといてくれ。どうせ、もう長うないんじゃ……」


 掠れた声で、定吉は吐き捨てるように言った。海斗は、その言葉に眉をひそめた。


「何言うてんの! そんなこと言うたら、アカンよ!」


 美波は、それでもめげない。彼女は、定吉の、骨張った手を、そっと両手で包み込んだ。


「定吉おじいちゃんの手、いつも頑張ってた証拠やね。漁師の定吉おじいちゃんは、この島で一番やって、みんな言うてるよ」


 美波の言葉に、定吉の表情が、微かに揺らいだ。しかし、すぐにまた、硬い仮面で覆われる。


「もう、何も、食べとうないんじゃ……水を飲むのも億劫でな」


「そっか。じゃあ、無理せんでええよ。でもな、ちょっとだけ、口、ゆすいどこか。さっぱりするで」


 美波は、そう言うと、慣れた手つきで、口腔ケアを始めた。小さな洗面器と、温かいタオル、そして、丁寧に絞ったガーゼ。白衣の天使、という陳腐な言葉が、それでもしっくり来た。彼女の動きは淀みなく、そして、限りなく優しかった。


 海斗はその光景を、ただ呆然と見つめていた。


 美波が、定吉の口元を丁寧に拭う。定吉の目は、美波の優しい笑顔を、じっと見つめている。


 口腔ケアが終わると、美波は、そっと定吉の頬を撫でた。


「どう? ちょっとは、さっぱりした?」


 定吉は、何も言わなかった。だが、その目には確かに、微かな光が宿っていた。そして彼の口元に、微かに笑みが浮かんだ。それはすぐに消えてしまったが、海斗は見逃さなかった。


 ◇


 帰り道。海斗は美波に、ぽつりと、漏らした。


「俺には……あなたのようなことは、できません」


「……」


「俺は、人の手を握ったり、優しい言葉をかけたり……そういうことが、どうしようもなく、苦手だ。俺にできるのは、データを見て、正しい診断を下し、的確な治療をすることだけだ。それさえも、ここでは通用しない」


 美波は、軽トラックを道端に停めた。


「先生」


 美波は真っ直ぐに、海斗の目を見た。


「先生は、先生のままで、ええんよ」


「え……?」


「無理に、うちの真似する必要なんかない。先生には、先生にしか、できひんことがあるやろ。うちにはない、ものすごい知識と、技術がある。それはこの島にとって、絶対に必要な力や」


「しかし、俺は……」


「今はまだ、その力の使い方が、分からんだけや。大丈夫。先生なら、きっと、見つけられる。我が推し、マルクス・アウレリウスの言葉や…『我々の人生は、我々の思考が作り上げるものである』。先生が、ここでの経験を“挫折”て思ったら、人生は挫折になる。でも、“新しい学び”やて思ったら、きっと、道は開けるで」


 美波の言葉に、海斗は、胸のあたりが少しだけ温かくなるのを感じた。


 ◇


 転機は、突然訪れた。


 その日の夕方から、空は、不気味なほどの鉛色に染まっていた。テレビは、夏の台風の接近を繰り返し告げている。


「先生、今夜は荒れるでぇ」


 クリニックの仕事を終え、宿直室で医学書を読んでいた海斗の元に、美波が心配そうな顔でやってきた。


「フェリーも、昼過ぎから全便欠航や。救急ヘリも、飛べへんやろな」


「……つまり俺たちは、完全に孤立した、ということですか」


「そういうこと。何も、起こらんかったらええけど……」


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