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2. お城の問診

お城の問診


 大豆島に着いても、まだ両足に船の揺れている感覚が残っていた。


 両足を無理やり動かし、港を出る。小さなバス停の前に立つ。


 一台の錆びついた軽トラックが、キーッという耳障りなブレーキ音を立てて、海斗の前に停まった。 運転席からひょこりと顔を出したのは、人の良さそうな女性だった。白いTシャツにジャージのズボンを履いている。


「もしかして、今日から新しく来はった先生?」


 その女性は、快活な声で海斗に問いかけた。 海斗は、その顔をまじまじと見つめた。強い日差しをたくさん浴びてきたのだろう、肌は健康的に日に焼けている。だがその顔立ちは驚くほど整っていた。人好きのする親しみやすい雰囲気の中の、凜とした造形美。大きな瞳は、島の海を映したかのように、きらきらと生命力に満ちて煌めいている。年の頃は22歳くらいだろうか。屈託ない笑顔は、その女性をやけに幼く見せていた。


 ふと海斗の合理的な頭脳が分析を始める。 化粧をすればきっとびっくりするような美人になるだろう。 いや、あるいは。 この汗と太陽の光に彩られた、飾らない姿こそが、彼女の魅力の本質なのかもしれなかった。


「は、はい。守屋 海斗です」


 海斗は少し戸惑いながら頷いた。


「やっぱり! よかったわー、会えて。うちはクリニックの看護師の、朝生 美波いいます! 迎えに来たんよ!」


 美波と名乗った女性は、人懐っこい笑顔で言った。


「……よろしくお願いします、朝生さん」


「美波でええよ。よろしゅうな、先生! さ、荷物、乗っけて! クリニックまで、まだ車で30分はかかるで」


助手席に乗り込むと、車内はかすかに、発酵した大豆のような、甘く香ばしい匂いがした。


「それにしても、びっくりしたわー。新しい先生が来るって聞いて、どんなおじいちゃん先生やろーって思てたら、まさか、こんなこど……若い先生が、来るんやもん」


「19歳です。子供では、ありません」


「じゅ、19歳!? うそやん!? 免許、持ってはるん? ちょっと見せてもらってもええ?」


 海斗が渋々医師免許証を見せる--よく、カード型なのではないかと誤解されるが、賞状のような大きさの、薄黄色の紙だ――と、美波は、目を丸くした。


「ほんまや……て、てんさい、てやつかぁ。すごいやん!」


「……どうも」


 軽トラックは、海岸沿いの、くねくねと曲がりくねった狭い道を走っていく。


「先生、都会っ子やろ? やっていけるんかなあ、心配やわー」


「……都会とか、田舎とか、関係ありません。医療を、するだけです」


「おー、頼もしいこと言うやん。せやけどこの島、コンビニもスーパーも遠いんよ。Amazonは届くけどな、たまに船が欠航して遅れるわ」


「……そうですか」


「夜は真っ暗やし、イノシシも出るで。大昔に海を渡って来てん。あと、ムカデもクモも」


 海斗は、黙り込んだ。


 やがて、軽トラックは、小さな漁港に面した、古びた木造の建物の前で停まった。


『大豆島クリニック』


 潮風で少し錆びた、古い看板が、かかっている。


「はい、到着ー! ここが先生の、新しい御城やで!」


 海斗は車から降り、目の前のクリニックを、呆然と見上げた。


 美波の明るい声が、やけに空虚に響いた。クリニックの玄関のガラス戸は、ガタピシと音を立てている。壁にはいくつも、ひびが入っていた。


 診察室に入る。カビの匂いと、古い木の匂いが、混じり合っている。


 ここが、俺の、城……?


 冗談じゃない。 ただの、打ち捨てられた、廃墟だ。


「……城、ではないな」


「え、なんか言うた?」


「いえ、何も」


「診察は明日からでええ? まずは片付けんと」


 美波は、ケラケラと笑う。


「他にも、従業員はいるんですか?」


「基本、うちと先生の二人だけ。あとは、たまに来てくれる事務のおばちゃんくらいやな」


「……二人、だけ?」


 海斗の声が、かすれた。


「せやせや。これから、よろしゅうな、先生!」


 美波の太陽のような笑顔が、今の海斗には、ひどく眩しく、そして残酷に感じられた。



 美波に案内されたクリニックの内部は、海斗の絶望をさらに深いものにした。


「ここが診察室。で、こっちが処置室。レントゲン室は、あの奥やけど……まあ、あんまり期待せんといてな」


診察室には、ビニールレザーがところどころ破れた診察台と、年季の入った木の机。壁には、黄ばんだ人体解剖図が貼られている。隅に置かれたパソコンは、海斗が小学生の頃に使っていたモデルよりも、さらに旧式に見えた。ディスプレイが、分厚い。


「カルテは、これ?」


 海斗は、机の上の棚にぎっしりと詰め込まれた、分厚い紙のファイルを示した。


「せやせや。全部、紙カルテ。先生、パソコン得意なんやろ? もしかして、電子カルテとか、期待しとった?」


「期待とかの問題じゃありません。そもそも、ネットワークは基礎的なインフラで……」


「いんふら?」


 美波が、不思議そうに首を傾げる。その反応だけで、海斗は察した。


 このクリニックには、大阪の大学病院で「常識」とされていたものは、何一つ存在しないのだ。


 処置室は、さらに酷かった。棚に並んだ薬品は、種類も数も、絶望的に少ない。ガーゼや包帯といった基本的な衛生材料も、潤沢とは言いがたい。


 そして、医療器具。ステンレスのトレイに並べられた鉗子やメスは、何度も研がれ、消毒を繰り返したせいで、その輝きを失い、鈍い光を放っていた。


「これで……手術を?」


「そんな大したもんはでけへんよ。ちょっとした怪我の縫合くらいやな。あとは、魚の骨が喉に刺さったとか、そういうの。あ、そうそう、島の魚、新鮮でめっちゃ美味しいで! 都会から来た先生方は、皆、口に入れた瞬間にびっくりしとったで」


「……」


 海斗は、言葉を失った。阪都大学病院では、手術ごとに使い捨てされるのが当たり前の器具もあった。ここでは、一つの器具が、何十年も使われ続けている。


 錆びついた城。それが、海斗がこのクリニックに抱いた、最初の印象だった。


「先生、なんや元気ないな。うちの今の推し、マルクス・アウレリウスが言うとったで。『あなたの心そのものを、あなたの不幸の原因にしてはならない』って。大阪で何があったんか、うちは知らんし興味もないわ。せやけど……起こったことは変えられへんけど、どう思うかは、先生次第やんか」


「西暦121年生まれのローマ皇帝が、推しなんですか……?」


「その人のコト考えたらドキドキしたり、元気もらえるんやから、推しに違いないやろ」


 美波は、自信満々である。


「……俺の心を、俺の不幸の原因にしない、か」


 名言に心を動かされたわけではないが、自分を慮ってくれる美波には、少しだけ、報いたいと思えた。


 ――もう少しだけ、ここで、頑張ってみようと思えた。



 翌日。


 ガラガラ、と音を立ててクリニックの玄関の戸が開いた。診察室へ、腰の曲がった老婆が入ってくる。


「美波ちゃん、新しい先生、来なすったんか?」


「おめでとう、タミさん! 新しい先生の、記念すべき患者さん第一号や! ……今日からここの先生になった、守屋先生や」


「はあ、こりゃまた、若いのう。孫みたいじゃ」


 田中タミと名乗った老婆は、くしゃっと笑った。御年80歳。高血圧と、長年の畑仕事で腰痛を患っている、とカルテに記されていた。


「田中さん、こんにちは。守屋です。今日はどうされましたか?」


 海斗は、努めて冷静に、問診を始めた。


「いやあ、先生。最近、また腰が痛うてかなわんのじゃ。それに、この間の血圧の薬、どうも、わしには合わんみたいでな」


「合わない、とは?」


「なんというか、飲んだ後、身体がしゃんとせんのよ」


 海斗は、タミのカルテと、持参したお薬手帳を照らし合わせる。処方されているのは、標準的なカルシウム拮抗薬。ガイドライン通りの、適切な処方だ。


「血圧を測りましょう」


 測定の結果、血圧は180/100mmHgだった。危険な数値だ。


「田中さん。血圧が非常に高い。このままでは、脳卒中や心筋梗塞のリスクが極めて高い状態です」


「はあ、そうかいな」


 タミの反応は、どこか他人事のようだった。


「薬の種類を変えて、かつ量を増やします。必ず、毎日、決められた時間に飲んでください。それから、塩分を控えること。一日6グラム未満が目標です。畑仕事は腰に悪いですし、ある程度までにして、安静に……」


 海斗が医学的知見に基づいた、指導を続けようとした、その時。


「先生」


 タミが、海斗の言葉を遮った。


「そんな色々言われても、わしには分からんよ」


「え?」


「薬はただでさえ沢山飲んどる、これ以上増やしとうない。それに、畑仕事はわしの生きがいじゃ。休んでしもうたら、身体がなまって、余計に弱ってしまうわ」


「しかし、それでは腰が……!」


「まあ、死ぬときは、ぽっくり逝ければ、それでええんよ。痛み止めの湿布だけで十分や」


老婆は、そう言って、寂しそうに笑った。


 海斗は、言葉に詰まった。


 阪都大学病院では、患者は、医師の言うことを、絶対的なものとして聞いていた。反論する者など、ほぼいなかった。


 だが、ここは違う。


 結局その日は、痛み止めの湿布を処方するだけで、診察は終わった。



 タミが帰った後、海斗は、やり場のない苛立ちを、美波にぶつけた。


「どうなっているんですか、ここの患者は! 自分の命が惜しくないんですか!」


「……まあまあ、先生。落ち着いて」


 美波は、困ったように笑いながら、お茶を淹れてくれた。


「あのまま放置すれば、いつ倒れてもおかしくない。どんな論文にだって教科書にだってガイドラインにだって、そう書いてある! 俺は、正しいことを言った!」


「うん。先生の言うことは、一つも間違ってへんよ。全部、正しい」


 美波は、静かに頷いた。


「せやけど、先生。ここでは、それだけじゃ、あかんのよ」


「何が違うんですか!」


「うちの推しのマルクス・アウレリウスも言っとる、『書物を捨てよ。もはや、それに心を惑わされるな』……タミさんはな、一人暮らしなんよ。旦那さんには、とっくに先立たれて、子供たちは、みんな都会に出てしもうた。あの人にとって、畑仕事は、ただの仕事やない。自分がまだ、社会と繋がっとる、生きてる、て実感できる、唯一の場所なんよ」


「生きがい、ということ、ですか」


「そうや。タミさんの生きがいを、『休め』の一言で取り上げるんは、タミさんの人生を、否定するようなもんや。それに、年金暮らしで、薬代も馬鹿にならん。これ以上、負担を増やしたくない、て思う気持ちも、分かってあげてほしいんよ」


 美波の言葉に、その”正しさ”に、海斗は苛立った。


「じゃあ、どうしろと……。医者として、間違ったことを見過ごせと?」


「見過ごせ、とは言うてへん。ただ、もう少しだけ、患者さんのことを理解してほしいんよ。何に困ってて、普段どんな生活をしてて、何が好きで、とかな」


「患者さんを……理解する」


「せやせや。医者と患者、ていう関係の前に、人と人やんか。タミさん、きっと先生に、自分のこと分かって欲しかったんやと、うちは思うで」


 その夜。海斗は、クリニックの宿直室で、タミのカルテを、もう一度開いていた。


 何ページにもわたる、手書きの記録。そこには、病状の記録だけでなく、タミの家族構成や、趣味、生活の様子が、細かく書き込まれていた。


『娘さんの孫(ひ孫)が生まれたことを、嬉しそうに話していた』


『最近、オリーブが豊作で、ご近所におすそ分けしているらしい』


 海斗は、そのカルテを、ただ呆然と見つめた。



 次の日の朝、美波がクリニックに入ると、海斗は診察室の机の上で、山積みの紙カルテに囲まれていた。海斗は、奇妙な、達成感に満ちた顔だ。


「先生、徹夜したん? まさかずっと、論文でも読んどったん?」


 美波が呆れたように声をかける。


「いえ」


 海斗は顔を上げた。その目は少し充血しているが、爛々と輝いていた。


「より重要なタスクを完了させました。診療圏の全住民、1985名の基本データベースの構築です」


「でーたべーす? 紙カルテを整理してくれたん?」


「俺の、頭脳にです」


 海斗は自分のこめかみを、とん、と指で叩いた。


 美波は一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「……は?」


「この島の医療を最適化するためには、まず全住民の包括的なデータ把握が不可欠だと判断しました。昨晩、クリニックの全ての紙カルテと、町の住民基本台帳の閲覧許可を得たデータを、全てインプットしました」


「いんぷっと……て、まさか全部覚えたん?」


「はい。テストしてみますか?」


 海斗は自信に満ちた顔で言った。


「美波さん、誰でもいい。名前を挙げてください。うちにかかった履歴のない方でも、いけます」


 美波は半信半疑のまま、試しに口を開いた。


「……じゃあ、港の近くの小山勝蔵さん」


 海斗の目がすっと細められる。まるでコンピューターがファイルを検索するように、僅かな沈黙が流れた。


「小山勝蔵さん66歳。配偶者は緑さん64歳。長男夫婦は岡山市在住。主訴は慢性的な咳と3年前の脳梗塞術後経過観察。飼っている秋田犬の名前は『次郎丸』で最近メタボ気味。違いますか?」


「……え」


 美波は言葉を失った。


「あ、合っとる! 犬のメタボまで! う、うそや……。じゃあ河野さんところの長女さんの!」


「河野ミサさん19歳。子供の頃から当院かかりつけで、風邪の時などに来院。以前、検査で軽い細菌尿を指摘されていますが、無症候性ということで経過観察。好物はうちのクリニックの受付に置いてあるサトウキビアメですね」


「……」


 美波は絶句した。もはや、恐怖さえ感じるレベルの記憶力。ごくりと喉を鳴らした。


「……先生。あんたの脳みそ、パソコンなん……?」


 その時だった。


「ごめんください」


 か細い声と共に、クリニックのドアが開き、痩せた中年女性が入ってきた。どこか、表情が沈んでいる。


 海斗は自信に満ちた顔で立ち上がった。データベースの実践テストだ。


 海斗は、女性が名乗る前に、笑顔で言った。


「鈴木スミさんですね。おはようございます。主訴は貧血によるめまい感。前回処方の鉄剤の効果はいかがでしたか? それと、本土に住むお孫さんのさくらちゃんは、来月で1歳になりますね。おめでとうございます」


海斗は、スミさんに関するデータを、完璧に披露した。


 これで患者は、自分のことを、「患者を深く理解している、素晴らしい先生だ」と感動するはずだ。


 しかし。


 スミは海斗の顔をぽかんと見つめただけで、悲しげな表情は変わらない。


「……先生。すごいな、よう覚えとる。……でもな、今は孫の話やないんよ」


 スミは深く深くため息をついた。


「昨日な、わしが可愛がっとった、猫のクロが死んでしもうたんよ……。もう寂しゅうて寂しゅうて、貧血も何もどうでもええくらい辛いんじゃ……」


 海斗は凍りついた。


 猫のクロ。


 彼の脳内データベースが瞬時に関連データを検索する。『ペット:クロ、19歳、慢性腎不全で経過観察中』。


 データはあった。ただ、最新ではなかったし、クロが死んだときにスミがこれほど落ち込むなんて、想定していなかった。 


 海斗が言葉を失って立ち尽くしていると、隣からすっと美波が前に出た。 


 彼女はスミの隣にそっと腰を下ろし、スミの手を両手で優しく握った。


「そっか……。クロ大往生やったんやな。スミさんとずっと一緒におれて幸せやったと思うで。……スミさんもよう頑張ったな、今まで」


 温かい言葉に、スミの瞳から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。


「美波ちゃん……! 私、もっと何かしてやれたんじゃないか思うて……」


 スミは、美波にクロとの思い出をぽつりぽつりと語り始めた。美波はただ静かに頷きながら、その言葉を聞き続けている。


 海斗はその光景を、ただ呆然と見ていることしかできなかった。



 スミは、少しだけ元気になって帰っていった。


「美波さん、あの、ありがとうございました。……データベース、役に立ちませんでした」


「いつか役に立つ日が来るとは思うんやけど、今日のところはな」


 海斗は顔を上げた。


「俺のデータベースは、死んだ知識でした。リアルタイムの感情データが欠落している」


 海斗の素直な言葉に、美波はにっこりと笑った。


「大丈夫や。先生が頑張っとるのは、いずれ島のみんなに伝わる。人の顔見て、ちゃんと話聞けば、お互い分かってくるはずや」


 美波は海斗の肩を、ぽん、と叩いた。


「先生、ようこそこの島へ。本当の『問診』はここからやで」


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