11. 医療船、出航!
医療船、出航!
日本中が注目した秋の手術から、冬と春、季節が2つ過ぎた。
夏の瀬戸内海の、爽やかな朝。瑠璃色の海面を滑るように、一隻の船が進んでいく。
かつて港の隅で海の墓標のように錆びついていた、あの船は、眩しいほど真っ白に塗り直されていた。側面には空色で『せとかぜ』という名前が誇らしげに書かれている。
権田原敬介がその半生をかけて蓄えた私財のほとんどを投じて、生まれ変わった医療船、「せとかぜ」。
それはもはや過去の遺物ではなく、海を渡る希望そのものだった。
「……了解ですー。高橋さん血圧のお薬ですね。あと鈴木さん、膝の注射の準備もしときますねー!」
船内のコンパクトなナースステーションで、美波が次の寄港地である登島の駐在看護師と、無線で打ち合わせをしていた。その声は弾んでいる。美波は今やこの船の看護師長として、頼もしい存在となっていた。
操舵室に隣接した診察室では、海斗が大型モニターに映し出された電子カルテを確認していた。海斗の服装は、Tシャツに白衣を羽織っただけのラフなスタイルだ。
『先生、こちら本島の山本です。先ほどの患者さんのエコー画像、見えますか?』
モニターの向こうから、別の島のクリニックの看護師の声がする。
「はい山本さん、鮮明に見えています。胆嚢にポリープが認められますが、大きさ形状から見て悪性の可能性は極めて低い。三ヶ月後にもう一度経過を見ましょう」
海斗は手慣れた様子で指示を出す。
最新の遠隔医療システムによってこの船は、瀬戸内の複数の離島クリニックの司令塔としても機能していた。
「先生、お疲れさん」
打ち合わせを終えた美波がコーヒーの入ったマグカップを二つ持って入ってきた。
「ありがとう、美波さん」
海斗はモニターから目を離し、柔らかな笑みを浮かべた。その表情に、かつてのような硬さはない。
「次の登島まであと十分くらいやて。着いたらまた大忙しやな」
「ええ。ですが……ワクワクします」
二人は並んで、操舵室の、大きな窓からきらめく海を眺めた。
「先生も、すっかりこの海の顔になったなあ」
美波がしみじみと言う。
「そうですか? 自分では分かりませんが」
「うん。昔みたいに眉間にシワ寄せてへんもん。あ、そうや先生。うちの最近の推し、布教まだやんな?」
「……また推し変したんですか。マルクス・アウレリウスはどうなったんです」
海斗が呆れたように言うと、美波はえへへと笑った。
「アウレリウス帝はもう殿堂入りや。今の推しはな、アインシュタインやねん」
「……また、おじいさんですか」
「ええやん。アインシュタインが言うとったんよ。『人生には、二つの道しかない。一つは、奇跡などまったく存在しないかのように生きること。もう一つは、すべてが奇跡であるかのように生きること』やって。……先生はどっち?」
その問いに、海斗は小首を傾げてみせた。
ただ穏やかに微笑み、ゆっくりと近づいてくる登島の緑豊かな稜線を見つめていた。
やがて、船が登島の小さな港に近づくと、桟橋に人影が見え始めた。
船の到着を今か今かと待ちわびていた、島の老人や子供たちだ。彼らが一生懸命に手を振っているのが見える。
その時、船の無線機から雑音と共に元気な声が飛び込んできた。
『先生! 美波ちゃん! よう来たな!』
島の漁師さんの声だ。
『待っとったぞー! 今朝ええタコが揚がっとる! 昼飯はタコ飯じゃ!』
海斗と美波は甲板に出ると、港で手を振る人々に向かって大きく手を振り返した。
潮風が、心地よく二人の頬を撫でていく。
「……美波さん」
海斗が隣の美波に静かに語りかけた。
「さっきの質問の答えですが」
「うん?」
海斗は港に集う人々の笑顔と、その向こうに広がる穏やかな海を見つめて言った。
「奇跡は簡単にあるものじゃない。……この手で起こすものだ」
海斗は自分の両手を見つめた。かつて最新のAIを操り、今はダイカイトのメスを握るその手を。
「俺たちで」
その言葉に、美波は顔を上げた。
海斗のその穏やかで、しかし誰よりも力強い横顔。
「……せやな!」
美波は最高の笑顔で頷いた。
医療船「せとかぜ」が人々の歓迎の声に迎えられ、ゆっくりと港に着岸していく。
その姿は海を渡り、島々に希望を届ける、美しい白い鳥のようだった。
◇
穏やかな秋の日。
医療船「せとかぜ」のドック入りに伴う、短い休暇のことだった。
海斗と美波は、知人から借りた小型のクルーザーで、足を伸ばして太平洋側へと出ていた。
休暇も引きこもって論文を読もうとしていた海斗を、無理やり美波が引っ張り出したのだ。『たまには広い海を見るのもええやろ?』という美波の強引な誘いだったが、海斗もまた、見渡す限りの水平線に、思考がクリアになるのを感じていた。
抜けるような青空。波一つない、鏡のような海面。
エンジンの低く心地よい振動だけが、二人を包んでいる。
「……平和ですね」
海斗は、操舵席のシートに深く背を預けた。
ここ数日間は、過酷だった。島の中心部で起きた、トンネル崩落事故。搬送されてきた重傷者のオペは、夜通し続いた。海斗の執刀と、美波のアシストがなければ、救えなかった命がいくつもあった。
ようやく全ての患者の容態が安定し始め、休んでいなかったぶんの休暇をとることになったのだ。
極限の集中力が切れた今、海斗の身体には、泥のような疲労と、心地よい達成感が混ざり合って沈殿していた。
「ほんまやなぁ……。風が、気持ちええわ」
隣のシートで、美波が猫のように目を細める。
美波の手が、コンソールパネルに伸びた。
「この辺の海域は障害物もないし、自動操縦にしとこか。少し、日向ぼっこでもしようや」
「合理的です。太陽光によるセロトニンの分泌は、脳を回復させるのに有効ですから」
海斗は、甲板に出て、ビーチチェアに横になり、瞼を閉じた。
穏やかな日差し。
規則的な波の揺らぎ。
それは、海斗の意識を、瞬く間に深い微睡みの底へと引きずり込んでいった。
隣からは、すでに美波の安らかな寝息が聞こえていた。
…………。
肌を撫でる風が、冷たく変わっていた。
海斗は、ふと意識を浮上させた。
「……ん」
重い瞼を持ち上げる。
世界の色が、変わっていた。
先ほどまでの、黄金色の太陽はどこにもない。空は、不吉な紫と群青が混ざり合った、逢魔が時の色に染まっていた。
「……美波さん。起きてください」
海斗は、隣の美波の肩を揺すった。
「ん……あれ、先生? もう夕方……?」
美波が目をこする。
海斗は、コンソールのGPSモニターに視線を走らせた。
画面には、『NO SIGNAL(シグナル無し)』の無機質な文字が点滅している。
「……位置情報が、ロストしている?」
海斗の背筋に、冷たいものが走った。
クルーザーの速度と、経過した時間。計算上、ここはもう日本の領海を越えている可能性がある。公海――どこの国の法律も及ばない、空白の海域に。
「先生、あれ……何?」
美波の震える声。
海斗が顔を上げると、薄暗い霧の向こうに、巨大な影が浮かび上がっていた。
船だ。
だが、見慣れた漁船や貨物船ではない。
塗装は剥げ落ち、船体は赤錆に覆われている。国旗も、船名すらも掲げられていない。まるで幽霊船のような、不気味な沈黙を纏った小型の船。
その船が、無音のまま、海斗たちのクルーザーの進路を塞ぐように横たわっていた。
「回避します」
海斗が舵を切ろうとした、その瞬間。
ドロドロドロ……と、重低音のエンジン音が唸りを上げ、錆びついた船が急接近してくる。
ドンッ!
鈍い衝撃と共に、クルーザーの船体が激しく揺れた。横付けされたのだ。
「な、なんなん!? 海賊!?」
直後、錆びついた船の甲板から、何者かが次々とこちらの船に飛び移ってきた。
ダン、ダン、ダン!
重い足音が甲板に響く。
夕暮れの光の中に、松明の赤い炎と共に、六つの人影が浮かび上がる。
海斗は目を凝らした。
「……なんだ、あいつらは」
異様な集団が、近づいてくる。
日に焼けた肌に、腰蓑のようなものを身につけ、手には錆びついた銛や、黒い石の槍を握りしめている。
そして、顔。
全員が、不気味な仮面をつけていた。
「え、もしかして、日本人や……ない?」
木を削り出し、獣の血で赤く塗ったような、憤怒の形相の仮面。
海斗と美波は逃げようとしたが、すぐに回り込まれた。甲板で、取り囲まれる。
ジャキッ。
乾いた音が響く。槍の先端が、一斉に海斗と美波に向けられた。
「……囲まれた」
海斗は、美波を庇うように前に出た。
敵意が、肌を刺す。
「俺たちは、怪しいものじゃない」
返事はない。日本語が通じる相手ではないのかもしれない。そもそも、ここは日本なのか。
仮面の集団が、海斗たちに槍を向け、じりじりと包囲網を狭めてくる。
絶体絶命。
その時。
集団が左右に割れた。
奥から、一際大きな、極彩色の羽飾りをつけた仮面の男が、ゆっくりと歩み出てきた。
この集団の長、だろうか。
クルーザーの上の海斗を見上げ、仮面の奥から鋭い視線を放つ。
そして。
長が、静寂を切り裂くように、口を開いた。




