1. 外科医、追放
外科医、追放
阪都大学病院、第一手術室。
無影灯がスポットライトのように、術野を浮かび上がらせていた。
まるで、周囲から隔絶された、祈りを捧げる神殿のように。
ずらりと並んだモニター。患者のバイタルサインを示す緑色の波形が、生命の鼓動を刻む。
「教授、バイタル安定しています。手術支援AIロボットの動作も、問題ありません」
「ふん、当然だ。この私の手にかかればな」
執刀医、権田原教授――御年58歳、第一外科の頂点に君臨する男――は、尊大に頷いた。銀縁の眼鏡の奥で、その目は満足げに細められている。
彼の周囲には、第一外科の精鋭たちが、まるで大神官に傅くかのように、緊張した面持ちで控えていた。
今日のオペは、肝門部胆管癌ステージⅣa。神の手を持つと謳われる権田原のみが可能な、極めて難易度の高い手術だ。
「さすがは教授。そして手術支援AI。このコンビネーションは、まさに神業ですね」
側近の准教授が、わざとらしく感嘆の声を上げる。
「ふん。当然だ。AIはしょせん道具。それを使いこなす人間の技量こそが、全てを決めるのだよ」
権田原は鼻を鳴らした。
手術は、順調に進んでいるように見えた。だが、その刹那。
ほんの僅かな、しかし致命的な震えが、権田原の指先を襲った。長年のアルコール摂取が蝕んだ、権田原の末梢神経の悲鳴。高性能のロボットのモーションセンサーが、忠実にその震えを拾ってしまう。
ピッ、ピッ、ピッ、と規則的だったバイタルモニターの電子音が、けたたましいアラートに変わった。
「出血! 門脈損傷!」
「血圧低下! 80、70……! 輸液開始!」
「教授! 急いで止血を!」
助手の医師の声が、悲鳴に近い響きを帯びる。
「な、なにぃ……!」
モニター上の術野は、瞬く間に鮮血で赤く染まった。神殿に、混沌が訪れる。
「止血鉗子! サクション! 早くしろ!」
権田原の声は、明らかに狼狽していた。権田原の顔から血の気が引き、額には脂汗が滝のように流れる。
「ダメです! 出血量が多くて、損傷部位が特定できません!」
「手術支援AIロボットのナビゲーションにエラー! 視野不良です!」
「くそっ!」
神の仮面が剥がれ落ち、ただの狼狽した男の顔が覗いていた。神殿は、阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えようとしていた。
その、喧騒のただ中で。
オペ室の隅に立つ、場違いなほど若い青年だけが、凪いだ海のように冷静だった。
守屋海斗、19歳。海外で飛び級し、15歳で医大を卒業した天才。誰に指示されるでもなく、静かに歩き出した。
「守屋先生! 何をしている!」
上級医が、叱責の声を張り上げた。
海斗は、その声を無視した。清潔操作の為のカバーで覆われた、空いているコンピュータの前に立つ。迷いのない手つきでキーボードを叩き始めた。
「正気か!? 手術中に根幹プログラムを……!」
周囲の医師たちが、非難の声を上げる。
「黙っていてください」
海斗は、モニターから目を離さずに、冷たく言い放った。
「手術支援AIロボットの、エラーでしょう。教授の手の振れに、触覚センサーが反応した……それが原因です。ナビゲーションシステムを、強制的に手動介入モードに切り替えます」
「な、なにをする……?」
「出血で汚染された術野データをリアルタイムで補正する画像認識アルゴリズムを並列起動。損傷部位の特定……最適な血管吻合のシミュレーションを開始」
白い手術用手袋がキーボードの上で踊る。カタカタカタ、と高速のタイピング音が、アラートを打ち消すかのように響き渡る。
「シミュレーション完了。最適解を導きました」
海斗は、呆然とする権田原に向き直った。
「権田原教授、あなたの今の神経伝導速度では、この非常事態に対応できません」
「き、貴様……! この私に向かって、なんという口を……!」
権田原が屈辱に顔を歪める。
「替わります。手は洗ってあります」
その言葉は、有無を言わさぬ、冷徹な響きを持っていた。
権田原の返事を待たず、海斗は、神の座である術野に立つ。
ハンドルを一押しすると、手術支援AIのアームが、滑らかに、そして力強く動き出した。手術支援AIのアームが、海斗の肩と肘を支える。
海斗のピンセットが、あっさりと出血点を見出す。血管をしばらく圧迫止血すると、真紅に染まっていた術野から徐々に血液が消える。
「出血点を、ピンポイントで……」
「すごい……」
助手の医師、見学の医学生たちが、息をのむ。
海斗が、血管の出血部を縫合する。
一針、また一針。
「なんだ、この動きは……迷いが、一切ない……」
数分後。縫合が終わり、アームがゆっくりと海斗から離れる。出血は、完全に止まっていた。
「……止血、完了しました。血圧、安定しています」
助手の震える声が、沈黙を破った。
「あとは、どうぞ」
海斗はまるで、少し面倒な計算問題を解き終えたかのように、小さく息を吐いた。
そして、呆然と立ち尽くす権田原を一瞥もせず、元の壁際の位置へと戻っていく。
完璧なサポートだった。
しかし、その瞬間、海斗は感じていた。
賞賛や安堵とは全く異なる、粘着質で、冷たい視線。
権田原が、彼に向けていた、嫉妬と憎悪に濡れた、蛇のような瞳。
海斗は、合理的な思考の中で理解した。
――何かが、決定的に、終わってしまったのだと。
◇
手術室の無影灯が消え、いつもの蛍光灯の白い光が戻る。神殿は、ただの殺風景な仕事場へと姿を変えた。
医局へ戻った海斗を、権田原の側近である准教授が待ち構えていた。
「教授がお呼びだ。教授室まで、来なさいと」
准教授の声には、感情が一切乗っていない。ただ、教授の命令を伝えるだけの、拡声器のような声。周囲の医師たちが、一斉にこちらを窺う視線を感じた。
「……用件は、お聞きになりましたか?」
「いや。……あまり良い話ではないことだけは、確かだろう」
准教授は、同情のかけらもない目で、そう言い捨てた。
◇
重い扉を開けると、権田原敬介は、巨大な執務机の後ろ、キングサイズの椅子に深く身を沈めていた。
「失礼します」
海斗が部屋に入ると、権田原はゆっくりと椅子を回転させ、彼と向き合った。
「……座りたまえ」
「はい」
海斗は、客用のソファに、言われるがまま腰を下ろした。
長い沈黙。権田原は、値踏みするように、海斗を頭のてっぺんから爪先まで、じろじろと眺めている。
「オペ中は、大活躍だったじゃないか」
静かな声だった。先程の准教授同様に、感情は、読めない。
「見学していた学生が言っていたよ……神業、とね。君は、今や医学生の憧れのスーパーヒーローだ」
「……俺は、論理的な手順に従っただけです。手術支援AIのシステムエラーを修正し、マニュアル通りに処置を」
「マニュアル通り、だと?」
権田原は、ふ、と鼻で笑った。
「君は、自分が何をしたのか、本当に分かっていないのかね」
「患者を救いました」
「違う!」
権田原の声が、鋭く響いた。
「君は! この私の、阪都大学病院第一外科教授、権田原の顔に、泥を塗ったのだ!」
「理解できません。医師の使命は、患者の救命です。俺の行為は、その原則に基づいています」
「私は失血点を慎重に見定めていただけだ! あと2分もすれば止血できたのだ! ……海外で飛び級した19歳の医師! 天才というから期待したのに……君はあまりに若すぎる。ここは大学病院だ。我々には、原則よりも優先すべきものがある。秩序だ! 伝統だ! そして、序列だ!」
権田原はゆっくりと立ち上がると、海斗の前に歩み寄った。
「君のような、若すぎる天才は、その秩序を乱す。君の存在そのものが、我々の世界にとって、劇薬なのだよ」
「俺の才能が、不要だとおっしゃるのですか」
「不要ではない。危険なのだ」
権田原は、海斗のすぐそばで足を止め、冷たい目で見下ろした。
「なぜ私が、君の才能を快く思わないのか。君には、一生かかっても理解できんだろうな。嫉妬? そういう安っぽい言葉で片づけてもらっては困る。これは、組織を守るための防衛なのだよ」
「……」
「君は、あまりに合理的すぎる。人の心の機微というものを、全く理解していない。君の今日の行為は、チーム医療の否定だ。許しがたい越権行為だ」
それは、理不尽な論理のすり替えのように、海斗には思えた。
「君のような協調性のない人間は、うちの大学にはいらない」
「……それは、どういう意味でしょうか」
「言葉通りの意味だ。君を、大学病院から追放する」
「では、阪都大学病院外科の医局も辞めます。アメリカにでも戻ります」
海斗が、医局――大学病院の診療科ごとに作られた、医師の『人事・教育・研究』を管理するグループで、大学で育てた医師を近隣の病院に医師を派遣する役割も担う――に所属したのは、大学病院で研究がしたかったからだ。研究もできない関連病院に異動させられるなら、医局ごと辞めてやる。
「我々は構わないが。ただ、そうなると、お父様は大分肩身の狭い思いをされるだろうねえ……今、当院の循環器内科にいらっしゃるんだったか。ああ、お父様に出ていって頂くのも、いいかもしれないな」
「待ってください! 父は関係ないでしょう!」
海斗の声に、焦りの色が滲んだ。天才と呼ばれる自分とは違い、努力に努力を重ねて夢だった医師になった父だ。父は、そろそろ教授選に出たいと言っていた。良い医療を届けるには組織で上に行くことも必要だから、と。父が教授選で勝つには、他科の教授の票が――権田原の一票が、必要だ。
「君には、頭を冷やす時間が必要だろう。他の病院で、本当の医療とは何か、学んでくるがいい」
権田原は、一枚の辞令を海斗の目の前のテーブルに、ひらりと置いた。
「君には、離島に行ってもらう」
海斗の視線が、辞令の文字を追った。
『赴任先:香川県 大豆郡大豆島町 大豆島クリニック』
「大豆島……? ここで、俺に何をしろと……」
「データやAIだけが医療ではない、ということを学ぶといい。教科書通りにはいかない患者と、泥臭く向き合ってみるがいい。君のその、天狗になった鼻がへし折られるには、ちょうどいい場所だろうよ」
権田原は、心底愉快そうに口の端を歪めた。
「これは、命令だ。君に拒否権はない」
◇
教授室を出た時、海斗の足取りは、まるで鉛を引きずるかのように重かった。医局に戻ると、誰もが彼を避ける。
「あの、先輩」
海斗は、一番歳の近い若手医師に声をかけた。
「……悪い、今、忙しいんだ。後にしてもらえるか」
その医師は、一度も海斗と目を合わせずに、足早に去っていった。
追放される者。その存在は、この閉鎖的な世界では、初めからいなかったことになる。
◇
いつもは23時まで仕事をしているが、今日は日が落ちる前に帰ることにした。
病院の外に出る。西に傾いた太陽の光が、ビル群のガラスに反射し、海斗の目を刺した。
「これから、どうすれば……」
無意識に、声が漏れた。
「何が、間違っていた? いや、俺は間違っていない。あの状況で、あれが唯一の正解だったはずだ」
自問自答を繰り返しながら、歩く。
「だが、結果は追放だ。非合理だ。あまりにも」
海斗の合理的な頭脳が、この矛盾した現実を受け入れられずに、悲鳴を上げていた。
夕暮れに染まるビル街を、見下ろせる高台を通る。
「……きれいだ」
皮肉なことに、追放が決まった日に見る大阪は、今までで一番美しく見えた。思わず、立ち止まる。
「だが、もう俺のいる場所じゃない」
ポケットからスマートフォンを取り出し、『大豆島』と検索する。
手延べそうめん、醤油、二十四の瞳……特産品や、観光の情報ばかりが並ぶ。
「こんな場所で……医療……?」
自嘲的な笑みが、こぼれた。
「権田原め……。俺の才能を、知識を、技術を、完全に無意味なものにするための処罰、か」
夕闇が、完全に街を覆い尽くしていく。
「終わりになんて、させてたまるか……!」
◇
海斗は、自宅アパートのドアを開けた。
センサーライトが、無機質な白い光で、がらんとしたワンルームを照らし出した。壁一面の本棚と、自作の研究スペース。それ以外には、何もない。生活感が、完全に欠落した部屋だった。
海斗は、カバンを床に放り出すと、ベッドに倒れ込んだ。
「……くそっ」
天井を見つめながら、何度も意味のない悪態をつく。
しばらくして、スマートフォンが鳴った。
表示されたのは、母親の名前。明るい声が聞こえてきた。
『海斗―? 来週あたり、そっちに行こうと思ってて』
「えっ!? いや、だめだ! 今は忙しいから!」
思わず、大きな声が出た。天才と呼ばれた自分が落ちぶれたなんて、親には知られたくない。海斗と同じ病院勤務の父を通じて、いずれ知られてしまうだろうし――もしかしたらすでに母は知っていて、知らないフリをしているのかも、しれないが。
『あら、そうなの? 残念だわ。じゃあ、また連絡するわね。体にだけは気をつけて』
「……うん。母さんも」
通話を終え、スマートフォンをベッドに放り投げる。
「……最低だ」
嘘をついた自己嫌悪で、吐き気がした。
海斗は、ゆっくりと身体を起こすと、研究スペースの椅子に座った。コンピューターの電源を入れる。静かな起動音が響き、モニターに、見慣れたデスクトップ画面が映し出された。
画面の真ん中には、海斗が開発していた、次世代型AI診断サポートシステムのプロジェクトフォルダがある。クリックすると、膨大な データと、未完成のソースコードが表示された。 それは、CTやMRIの画像データから、人間の目では見逃してしまうような、微細な病気の兆候を、99.999%の精度で検出するための、画期的なシステムだった。
権田原に提出した研究計画書は、当初一笑に付された。「手術ならともかく、診断までAIに頼るなど、外科医の怠慢だ」と。 だが、海斗は諦めなかった。徹夜を重ね、プライベートの時間など全く持たずにこつこつと、説得と開発を続けて……ようやく、実用化まであと一歩のところまでこぎ着けていた。
権田原も、AIの進歩に感じ入るところがあったのか、最近は協力的だった。むしろAI活用を推進していた。
実用化すれば、世界中の人々を救える――はずだった。
しかしこれは、この阪都大学病院の、豊富な患者のデータがあればこそ完成する、夢のシステム。
「『天才』なんて、簡単に言いやがって! ……もう、これも……意味がない」
呟きは、誰に聞かれることもなく、静かな部屋に吸い込まれていった。
このシステムを完成させるには、膨大な症例データが必要不可欠だ。離島のクリニックに、そんなデータが存在するはずもない。 海斗の夢は、才能は、その根幹を支える土壌を、完全に奪われてしまった。 まるで、根を断ち切られた、美しい花のように。あとは、枯れていくだけの運命。
海斗は、力なくコンピューターの電源を落とした。 部屋が再び、静寂と闇に包まれる。 クローゼットを開けた。中には、同じデザインの襟付きシャツとTシャツとチノパンが数枚、そして、数着の白衣とスクラブが、ハンガーにかかっているだけ。
荷造りは、一時間もかからずに終わってしまった。荷物など、一つのバックパックに収まった。
本はすべて実家に送った。内容は、ほぼ覚えている。
夜が明け、窓から、朝日が差し込んできた。
鏡に映った海斗の顔は、ひどく青白く、目の下には濃い隈が刻まれていた。
「さよならだ」
小さな呟きと共に、ドアを閉めた。
◇
新幹線で岡山に着き、バスに乗り換えて新岡山港へ。
沈む海斗の心とは対称的に、目の前には、穏やかな春の瀬戸内海が広がっていた。
「大豆島、坂手港行き……これか」
フェリーに乗り込む。ゴオォォ、という重いエンジン音と共に、船はゆっくりと岸を離れた。
デッキの手すりに寄りかかって、波の煌めきを眺める。
苛立つほどに美しい、エメラルドグリーンの海。
海上に点在する大小様々な島々は、淡い水墨画のようなグラデーションを描きながら、重なり合い、遠く水平線の彼方へと溶け込んでいる。
大豆島が、近づいてくる。
海から急角度で隆起した山肌は、目が覚めるような翡翠色に覆われていた。
その斜面には、段々畑が幾重にも刻まれている。
空は高く、どこまでも透き通っている。
雲ひとつないその空から降り注ぐ光は、海斗の抱える鬱屈を許さないかのように、あまりにも明るい。
ふと、隣に立っていたおじいさんが、気さくに話しかけてきた。
「兄ちゃん、観光かい?」
「いえ、仕事です」
「ほう、仕事で島にか。珍しいなあ。何の仕事なされとるん?」
「……医者です」
「医者! そりゃあ、ありがたいこっちゃ! 島は、医者が少のうて、みんな難儀しとるんよ。頑張ってくだされや」
おじいさんは、しわくちゃの顔で笑うと、船室に戻っていった。
「……医者が、少ない」
その言葉が、海斗の胸に、小さく引っかかった。大学病院には、何十人、何百人の医者がいただろう。その中でも自分は優秀だと、信じていたのに。
強くなった潮風が、眼球を叩いた。
なぜ、俺が。 俺は、間違ったことなど、何もしていない。 ただ、人を救いたかっただけだ。 より完璧に。より確実に。 そのために、持てる力の全てを、注いできただけだ。
なぜ、あの無能な老人の、ちっぽけなプライドのために、俺の未来が、奪われなければならない。
涙が、頬を伝った。 19年間、一度も流したことのない涙だった。




