風を掴む手
その日の夜。僕は初めてベッドというものを見た。人はこの白くて四角くてふわふわした物の上で寝るのだと教えてもらった。
「一緒に寝てみる?」
彼女はまた悪戯に笑った。
僕は竜巻を起こしてしまいそうになるのをなんとか堪えて精一杯落ち着いているふうに振舞った。
「でも、僕は風だ。人間の君と違って体がないからベッドに横になることはできないよ。そもそも横という概念がないからね。」
そういうと、ルテアは呆れたような顔をしてこちらに近づいてきた。
「あーもう、そういうのいいから!こっち、早くおいでよ。」
と言いながら小さな腕で僕の左側を掴んで引っ張った。僕は心底驚いて、ガタンと音を立てて家具が揺れるほどの突風を起こしながら、身を引いてしまった。
なぜそんなにも驚いたのか。無論、触れられたことなどなかったからだ。人が、風という空気を触れて掴むなんてことできるはずがない。だって、今まで僕がどれだけ街中で人々にぶつかっても、誰もが知らない顔をして歩いていたのだから。唖然としていると、心配そうにこちらを覗く顔が見えた。
「ごめんなさい。大丈夫?あなたを傷つけるつもりはなかったの。ただ…。そう、ただの、好奇心だったの。本当にごめんなさい。」
そこには、いつものルテアでは無い、僕の知らない彼女の姿があった。不安でいっぱいだと言うように華奢な体を小さくして。それでも、透き通った雨粒のような瞳で僕を見つめていた。
僕は冷えた風をゆっくりと流した後、彼女に向き直って話した。
「大丈夫だよ。こちらこそごめん。君を怖がらせてしまったかもしれない。人に触れられるなんて、初めてのことだったから少し驚いてしまっただけなんだ。」
そう伝えても彼女は変わらず、今にも泣き出してしまいそうな顔をしている。僕はまるで、木枯らしでも起きたかのような感覚がして、思わず言葉を続けた。
「だから……そんな顔しないで。君には、笑ってて欲しいんだ。」
僕にこんな感情があったなんてと、またひとつ驚いた。人の表情を見て、僕まで苦しくなって、笑っていて欲しいと思うなんて。この気持ちは一体、僕のこの透けた体のどこから湧くんだろうか。
僕の声を聞いて、ルテアはやっと顔を上げた。それでもまだその瞳はいつも以上に水分を含んでキラキラとしていた。僕は言った。
「君はきっと、特別な人なんだろうね。僕、ずっと思ってたことがあるんだけれど。ルテア、もしかして君って人じゃなくて、神様なんじゃないかい?
だって、誰も触れないはずの、僕に触れることができるんだから。……そういえば初めからそうだった。透明な、空気である僕の姿が見えて、話をすることができているなんて。君はやっぱりすごい人だ。他の人たちとは違う、選ばれた人なんだろうね。」
そう言って前を向くと、ルテアはなぜか今までで1番、悲しそうな顔をした。悲しそうな顔をしたあと、すぐに柔らかく微笑んで僕にこう言った。
「…そうね。私はきちんと、あなたの事が見えてるし、あなたに触れることもできる人で間違いないわ。」
彼女は何かを考えてから、続けて言った。
「ねえ、リータ。そんな特別な私に免じて、今日は試しにベッドで寝ることをやってみない?すごく、すごく柔らかくて、暖かいのよ。あなたにも、感じてみて欲しいの。ベッドの上で眠る幸せを。」
それはきっと、すごくいいんだろうなと何となく思った。けれどすぐにこう思った。このベッドはルテアひとりで寝るのに丁度よさげな大きさだ。僕が一緒になって上に乗ったら、空気は体積が広いから狭くて仕方なくなってしまうのではないだろうか、と。
ルテアは、僕を見て何かを感じたのか優しく笑いながらこう言った。
「案外、ベッドって2人でも寝れるものよ。狭いなら、落ちないようにくっついて眠ったらいいだけだもの。」
「本当に?ルテアが僕に押されて落ちてしまったりしないかが心配なんだ。それにーーー。」
「それに、なぁに?」
僕は黙ってしまった。この先は、どんな言葉を使って表したらいいか分からない。けれどなんだか、不安なことがあったのだ。ルテアはまた僕の左側を強引に引っ張って言った。
「私があなたと一緒にベッドで眠りたいの!
ただ眠るだけよ。何もしないわ。……ね?いいでしょう?」
彼女はまた真珠のようにキラキラと輝くその瞳で僕を見つめた。僕はどうにもこの目に弱いらしい。この目で見つめられると僕の中の空気が熱を帯びてじっとしていられなくなってしまう。
「…わかったよ。」
小さく呟いた言葉を零すことなく聞きとった彼女は、いつものように晴れた笑顔で嬉しそうに笑っていた。
ベッドの上に横たわる彼女に手を引かれ、僕もそこへ転がりこむ。ただでさえ軽い僕の体は、ベッドの上に乗った途端、さらに軽くなったような感覚がした。体勢を変えて彼女のいる方へ向く。微かに軋む音がしたあと、部屋の空気は静まり返った。そこに聞こえるのは、ルテアの小さな呼吸音と、僕の中の熱を帯びた空気が暴れて漏れ出た細い風の音だけになった。
ふと前を向くと今にもぶつかってしまいそうなほどの距離にルテアの顔が見えた。長いまつ毛、輝く大きな瞳、白く透き通った肌に滲む頬の柔らかな赤色。そして、桃色の唇ーー。
その瞬間、ばちんと目が合った。
いつもだったらすぐに目を離してしまうのに、何故かその時は、縛られたように目を離せなくなってしまった。琥珀のような、透き通った美しい瞳。吸い込まれて、瞬きすらできない。僕の中の熱がさらに暴れて、閉じ込めておけなくなってしまいそうになる。このままでは、僕の起こす大きな青嵐に彼女を巻き込んでしまう。それはダメだ。けれど、僕の中の熱はちゃくちゃくと強くなっていく。焦るばかりで何も出来ないでいると、僕の右側に何かが触れるのを感じた。
「怖いの?」
僕に触れたのは、彼女の左手だった。僕は彼女の手に柔らかく触れて
「怖くないよ」
と言う。
本当は、すごく怖い。この熱がなんなのか、どうしたら無くなるのか、分からなくてどうしようもなくて、堪らなく怖い。けれど、それは何となく伝えるべきではないと思った。
ルテアは解けたように笑って、僕の体に腕を絡ませてその身を寄せた。
「怖い時はね、誰かに抱きしめてもらうのが1番いいのよ。」
ルテアの華奢な指先と絡まった腕から、僕の真ん中辺りに触れているルテアの体自体から、柔らかく暖かいものが伝わってくるのを感じる。
これが、「抱きしめられる」ということなのか。
「……あたたかい。」
思わず声が漏れる。それを聞いた彼女は僕に言う。
「これが、人の体温ってものなのよ。暖かくて、柔らかくて、優しくて。触れただけで守られているような気持ちになるの。もし今、あなたの心が、体が、そして息が、静かに落ち着いてきたならば。それが、人の言う安心というものなのよ。」
安心ーーー。これが……安心というものか。
風である僕に口はないけれど、何となく口元綻んだような気がした。いつの間にか、僕の中で暴れていた暴風の波も落ち着いていて…。
僕は知らぬ間に、彼女の腕の中で眠っていた。




