表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

太陽は兄を愛し、月は姉を愛でる

作者: 辺夢 つむぎ

 鏡の向こうにいるのは、僕であって僕ではない誰かだ。

 普段は無造作に後ろで一つに括っている黒髪を解き放つ。腰まで届く長い髪は、生まれつき色素が薄く、手入れだけは欠かしていないため、絹糸のような艶を放っていた。

 コテを使って丁寧に巻き、緩やかなウェーブを作る。ファンデーションで覆われた肌は陶器のように白く、引かれたアイラインが切れ長の瞳を妖しく強調していた。


 相沢有紀あいざわゆうき。それが僕の名前だ。

 だが、今そこに映っているのは「ユキ」という名の架空の少女だった。


「……地毛だと、セットに時間がかかるな」


 鏡の中の唇が、艶やかに弧を描く。

 今日は、全寮制のお嬢様学校に通う双子の妹たち――玲奈れいな有紗ありさが、六年ぶりにこの家に帰ってくる日だ。

 六年。それは長い。当時小学生だった彼女たちは、もう高校生になっているはずだ。

 写真で成長は知っている。けれど、実際に会った時、男として情けない姿を見せてしまったら? 幼い頃の「大好きなお兄ちゃん」という幻想を壊してしまったら?

 その恐怖と、心の奥底で疼く「別の自分になりたい」という欲求が、僕を異性装へと走らせた。

 「ユキ」という仮面を被っている間だけ、僕は理想的な振る舞いができる。

 妹たちが帰ってくるのは夕方だ。それまでは、この仮初の安らぎに浸っていよう。そう思っていた。


 バァン!!

 玄関の扉が、乱暴に開け放たれる音が響いた。


「お兄様ーーー! 会いたかったですわー!」

「……有紗。うるさい。鼓膜が破れる」


 心臓が早鐘を打つ。嘘だろ、まだ昼過ぎだぞ。

 逃げる間もなかった。リビングのドアが勢いよく開き、制服姿の二人の少女が飛び込んでくる。

 同じ顔、同じ背丈。だが、纏う雰囲気は対照的だ。

 太陽のように活発な有紗と、月のように静謐な玲奈。

 成長した双子の妹たちが、僕を凝視している。

 終わった。社会的な死だ。

 喉が引きつり、言い訳の言葉すら出てこない。


「……貴女は?」


 先に口を開いたのは、双子の姉、玲奈だった。

 その瞳は、有紗のような警戒心とは違う。爬虫類が獲物を観察するような、湿度のある視線で僕の爪先から頭頂部、そして解き放たれた髪の先までをねっとりと舐めた。


 六年の歳月と、プロ級のメイク技術。それが僕を救った。彼女たちの瞳に映っているのは「兄」ではない。


「……はじめまして。有紀さんの、その……お付き合いさせていただいている者です」


 裏返りそうな声を必死に抑え、少し高めのトーンを作る。

 双子の表情が、一斉に変化した。


「お兄様の、恋人!?」

「…………へぇ」


 有紗が驚愕の声を上げる一方で、玲奈は短く息を漏らし、興味深そうに目を細めた。

 一瞬の硬直の後、有紗がハッと我に返り、制服のスカートを摘んで優雅に膝を折る。


「……取り乱して申し訳ありません。お兄様の妹の、有紗ありさと申します」

「有紗の姉の、玲奈れいなです」


 玲奈もそれに続き、流れるような動作でカーテシーを披露する。

 その洗練された所作は、まさに深窓の令嬢そのものだった。僕も慌てて居住まいを正す。


「は、はじめまして。……ユキ、と言います」


 挨拶が終わるや否や、有紗は値踏みするような視線を投げかけてきたが、玲奈の動きは違っていた。

 彼女は挨拶を終えるなり、吸い寄せられるようにゆっくりと僕に近づいてきたのだ。

 そして、遠慮も躊躇もなく、僕の髪に手を伸ばす。


「綺麗な髪……。お兄様と同じ黒髪ですけれど、手触りはまるで違いますわね。柔らかくて、繊細で……」

「あ、あの……玲奈さん?」

「ずっと、思っていたんです」


 玲奈がうっとりとした瞳で見上げてくる。


「無骨な兄なんていりませんわ。私、ずっと『お姉さま』が欲しかったんです。……貴女のような、美しくて儚いお姉さまが」


 ゾクリ、と背筋が震えた。

 玲奈の瞳にあるのは、常軌を逸した憧憬だった。


「有紀さんは、急な用事でお出かけになられていて……」


 とりあえずの危機は去った。だが、ここからが地獄だ。

 兄が帰ってくるまで(帰ってくるはずがないのだが)、この二人と対峙しなければならない。


「立ち話もなんですわ。お茶をお淹れします」


 僕は逃げるようにキッチンへ向かおうとしたが、有紗に腕を掴まれた。


「いいえ! お客様にそんなことさせられません! 私たちが淹れます!」

「久しぶりの帰宅と有紀さんから聞いています。旅の疲れもあるはずです。座っていてください」


 自然と口をついて出た言葉だった。

 妹たちを労りたいという兄としての本心と、完璧な女性を演じなければならないという強迫観念。それが奇妙に融合し、洗練された動作となって現れる。


 僕は逃げるように距離を取り、キッチンへと立った。

 とにかく、もてなして帰宅を待つフリをしなければ。


                ◇


 リビングには、芳醇な紅茶の香りが漂っていた。

 ティーポットからカップへ、最後の一滴――ゴールデンドロップまで丁寧に注ぎ切る。


「どうぞ」


 差し出されたカップを、二人は呆気にとられたように見つめていた。

 そして一口含んだ瞬間、玲奈がハッと息を呑んだ。


「……信じられない」

「お口に合いませんでしたか?」

「いいえ、逆ですわ。学園の寮でも最高級の茶葉は出ますけれど、こんなに香り高い紅茶は初めて……」

「お湯の温度、蒸らし時間、そして注ぐタイミング。すべてが計算されていますね。専属のメイドですら、ここまではできませんわ」


 玲奈はカップを持ったまま、陶酔したように僕を見つめている。

 その反応に、胸の奥が少しだけ温かくなる。男の姿のままだったら、こうして素直な感想を聞けただろうか。無愛想にペットボトルのお茶を出して終わりだったかもしれない。


「所作の一つ一つが絵画のように美しい。……ねえ有紗。お兄様にはもったいないと思わない?」

「ええ、そうですわね。……ええ、本当にもったいないですわ」


 有紗もまた、満面の笑みを浮かべている。だが、その目は全く笑っていなかった。

 彼女はユキを見ていない。僕の背後にいるはずの「兄」の幻影を見ている。


「ねえ、ユキさん。単刀直入に伺いますけれど、お兄様とはどこまで進んでらっしゃいますの?」

「え、ええと……とても大切にしていただいています。私も、片時も離れたくないくらい」


 その瞬間、場の空気が凍りついた。

 有紗の眉がピクリと跳ね、玲奈が目を細める。


「まあ! 素敵ですわ! ……でも、それだと困りますねぇ」


 有紗が口火を切った。


「だって、お兄様は『相沢グループ』の正統な後継者。父・龍彦が一世代で築き上げたこの帝国を、将来背負って立つお方ですのよ?」


 有紗の言葉が、重い楔のように打ち込まれる。

 反論できない。父の威光、そして長男である僕に課せられた重圧。それは僕自身が一番よく知っている。だからこそ、この女装という逃避場所が必要だったのだ。


「その隣に立つ女性には、それ相応の『格』が求められますのよ?」

「そ、それは……」

「申し訳ありませんが、今のままでは、お兄様の経歴に泥を塗ってしまいますわ」


 有紗は困ったように眉を下げ、それからポンと手を打った。

 隣で玲奈も、何かを閃いたように小さく頷く。


「そうだ! 名案がありますわ!」

「名案、ですか?」

「ユキお姉さま、私たちの学園にいらっしゃいませんこと?」


 思考が停止する。何を言われているのか理解できない。


「私たち、ちょうど寮での『付き人』を探していたんです。身の回りの世話をしていただきながら、私たちが貴女に『完璧なお嬢様教育』を施して差し上げます」

「えっ……私が、お嬢様学校に?」

「ええ。特別枠での編入も、我が家の寄付金額があればどうとでもなります。そこで修行をして、誰もが認める淑女になれば……」


 有紗が畳み掛ける。


「学園は全寮制ですから、その間はお兄様とは会えません。でも、修行を終えて戻ってきた時、貴女は誰よりもお兄様に相応しい女性になれる」


 そして、玲奈が僕のもう片方の手を取り、熱っぽい声で囁いた。


「素晴らしい案ですわ。あの無粋な兄の世話を焼くより、私たちと優雅に過ごしましょう? 貴女なら、きっと学園の誰よりも美しい『お姉さま』になれますもの」


 二方向からの勧誘。

 有紗は「兄のため」という大義名分を突きつけ、玲奈は「貴女自身の価値」を甘く囁く。

 逃げ場はなかった。

 「兄の恋人」として努力する姿勢を見せなければ、有紗に排除される。

 そして何より、玲奈の純粋な憧れを拒絶することが、僕にはできなかった。


「……わかりました。私でよければ、受けさせてください」


 僕が頷くと、双子は顔を見合わせ、花が咲いたように笑った。


「ふふ、嬉しい! 歓迎しますわ、お姉さま!」


 二人は手続きのために席を立つ。

 僕は片付けのために背を向けたが、その背後で交わされた双子の会話を聞くことはできなかった。


「……ちょろいですわね。これで邪魔者は隔離完了。お兄様の横に立つのは、泥棒猫の貴女じゃなくて、この私ですもの」


 有紗が黒い笑みを浮かべて呟く。

 だが、その横で玲奈もまた、恍惚とした表情で独りごちていた。


「……ええ、最高だわ。お兄様なんてどうでもいい。私、ずっと欲しかったの。私だけの、理想のお人形(お姉さま)が……」


 兄を愛するがゆえに、兄(女)を排除したい妹。

 姉を欲するがゆえに、兄(女)を愛玩したい姉。


 二つの歪んだ欲望が交差する「鳥籠」へ、僕は自ら飛び込もうとしていた。その扉が閉まる音を、僕はまだ聞いていない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ