太陽は兄を愛し、月は姉を愛でる
鏡の向こうにいるのは、僕であって僕ではない誰かだ。
普段は無造作に後ろで一つに括っている黒髪を解き放つ。腰まで届く長い髪は、生まれつき色素が薄く、手入れだけは欠かしていないため、絹糸のような艶を放っていた。
コテを使って丁寧に巻き、緩やかなウェーブを作る。ファンデーションで覆われた肌は陶器のように白く、引かれたアイラインが切れ長の瞳を妖しく強調していた。
相沢有紀。それが僕の名前だ。
だが、今そこに映っているのは「ユキ」という名の架空の少女だった。
「……地毛だと、セットに時間がかかるな」
鏡の中の唇が、艶やかに弧を描く。
今日は、全寮制のお嬢様学校に通う双子の妹たち――玲奈と有紗が、六年ぶりにこの家に帰ってくる日だ。
六年。それは長い。当時小学生だった彼女たちは、もう高校生になっているはずだ。
写真で成長は知っている。けれど、実際に会った時、男として情けない姿を見せてしまったら? 幼い頃の「大好きなお兄ちゃん」という幻想を壊してしまったら?
その恐怖と、心の奥底で疼く「別の自分になりたい」という欲求が、僕を異性装へと走らせた。
「ユキ」という仮面を被っている間だけ、僕は理想的な振る舞いができる。
妹たちが帰ってくるのは夕方だ。それまでは、この仮初の安らぎに浸っていよう。そう思っていた。
バァン!!
玄関の扉が、乱暴に開け放たれる音が響いた。
「お兄様ーーー! 会いたかったですわー!」
「……有紗。うるさい。鼓膜が破れる」
心臓が早鐘を打つ。嘘だろ、まだ昼過ぎだぞ。
逃げる間もなかった。リビングのドアが勢いよく開き、制服姿の二人の少女が飛び込んでくる。
同じ顔、同じ背丈。だが、纏う雰囲気は対照的だ。
太陽のように活発な有紗と、月のように静謐な玲奈。
成長した双子の妹たちが、僕を凝視している。
終わった。社会的な死だ。
喉が引きつり、言い訳の言葉すら出てこない。
「……貴女は?」
先に口を開いたのは、双子の姉、玲奈だった。
その瞳は、有紗のような警戒心とは違う。爬虫類が獲物を観察するような、湿度のある視線で僕の爪先から頭頂部、そして解き放たれた髪の先までをねっとりと舐めた。
六年の歳月と、プロ級のメイク技術。それが僕を救った。彼女たちの瞳に映っているのは「兄」ではない。
「……はじめまして。有紀さんの、その……お付き合いさせていただいている者です」
裏返りそうな声を必死に抑え、少し高めのトーンを作る。
双子の表情が、一斉に変化した。
「お兄様の、恋人!?」
「…………へぇ」
有紗が驚愕の声を上げる一方で、玲奈は短く息を漏らし、興味深そうに目を細めた。
一瞬の硬直の後、有紗がハッと我に返り、制服のスカートを摘んで優雅に膝を折る。
「……取り乱して申し訳ありません。お兄様の妹の、有紗と申します」
「有紗の姉の、玲奈です」
玲奈もそれに続き、流れるような動作でカーテシーを披露する。
その洗練された所作は、まさに深窓の令嬢そのものだった。僕も慌てて居住まいを正す。
「は、はじめまして。……ユキ、と言います」
挨拶が終わるや否や、有紗は値踏みするような視線を投げかけてきたが、玲奈の動きは違っていた。
彼女は挨拶を終えるなり、吸い寄せられるようにゆっくりと僕に近づいてきたのだ。
そして、遠慮も躊躇もなく、僕の髪に手を伸ばす。
「綺麗な髪……。お兄様と同じ黒髪ですけれど、手触りはまるで違いますわね。柔らかくて、繊細で……」
「あ、あの……玲奈さん?」
「ずっと、思っていたんです」
玲奈がうっとりとした瞳で見上げてくる。
「無骨な兄なんていりませんわ。私、ずっと『お姉さま』が欲しかったんです。……貴女のような、美しくて儚いお姉さまが」
ゾクリ、と背筋が震えた。
玲奈の瞳にあるのは、常軌を逸した憧憬だった。
「有紀さんは、急な用事でお出かけになられていて……」
とりあえずの危機は去った。だが、ここからが地獄だ。
兄が帰ってくるまで(帰ってくるはずがないのだが)、この二人と対峙しなければならない。
「立ち話もなんですわ。お茶をお淹れします」
僕は逃げるようにキッチンへ向かおうとしたが、有紗に腕を掴まれた。
「いいえ! お客様にそんなことさせられません! 私たちが淹れます!」
「久しぶりの帰宅と有紀さんから聞いています。旅の疲れもあるはずです。座っていてください」
自然と口をついて出た言葉だった。
妹たちを労りたいという兄としての本心と、完璧な女性を演じなければならないという強迫観念。それが奇妙に融合し、洗練された動作となって現れる。
僕は逃げるように距離を取り、キッチンへと立った。
とにかく、もてなして帰宅を待つフリをしなければ。
◇
リビングには、芳醇な紅茶の香りが漂っていた。
ティーポットからカップへ、最後の一滴――ゴールデンドロップまで丁寧に注ぎ切る。
「どうぞ」
差し出されたカップを、二人は呆気にとられたように見つめていた。
そして一口含んだ瞬間、玲奈がハッと息を呑んだ。
「……信じられない」
「お口に合いませんでしたか?」
「いいえ、逆ですわ。学園の寮でも最高級の茶葉は出ますけれど、こんなに香り高い紅茶は初めて……」
「お湯の温度、蒸らし時間、そして注ぐタイミング。すべてが計算されていますね。専属のメイドですら、ここまではできませんわ」
玲奈はカップを持ったまま、陶酔したように僕を見つめている。
その反応に、胸の奥が少しだけ温かくなる。男の姿のままだったら、こうして素直な感想を聞けただろうか。無愛想にペットボトルのお茶を出して終わりだったかもしれない。
「所作の一つ一つが絵画のように美しい。……ねえ有紗。お兄様にはもったいないと思わない?」
「ええ、そうですわね。……ええ、本当にもったいないですわ」
有紗もまた、満面の笑みを浮かべている。だが、その目は全く笑っていなかった。
彼女は僕を見ていない。僕の背後にいるはずの「兄」の幻影を見ている。
「ねえ、ユキさん。単刀直入に伺いますけれど、お兄様とはどこまで進んでらっしゃいますの?」
「え、ええと……とても大切にしていただいています。私も、片時も離れたくないくらい」
その瞬間、場の空気が凍りついた。
有紗の眉がピクリと跳ね、玲奈が目を細める。
「まあ! 素敵ですわ! ……でも、それだと困りますねぇ」
有紗が口火を切った。
「だって、お兄様は『相沢グループ』の正統な後継者。父・龍彦が一世代で築き上げたこの帝国を、将来背負って立つお方ですのよ?」
有紗の言葉が、重い楔のように打ち込まれる。
反論できない。父の威光、そして長男である僕に課せられた重圧。それは僕自身が一番よく知っている。だからこそ、この女装という逃避場所が必要だったのだ。
「その隣に立つ女性には、それ相応の『格』が求められますのよ?」
「そ、それは……」
「申し訳ありませんが、今のままでは、お兄様の経歴に泥を塗ってしまいますわ」
有紗は困ったように眉を下げ、それからポンと手を打った。
隣で玲奈も、何かを閃いたように小さく頷く。
「そうだ! 名案がありますわ!」
「名案、ですか?」
「ユキお姉さま、私たちの学園にいらっしゃいませんこと?」
思考が停止する。何を言われているのか理解できない。
「私たち、ちょうど寮での『付き人』を探していたんです。身の回りの世話をしていただきながら、私たちが貴女に『完璧なお嬢様教育』を施して差し上げます」
「えっ……私が、お嬢様学校に?」
「ええ。特別枠での編入も、我が家の寄付金額があればどうとでもなります。そこで修行をして、誰もが認める淑女になれば……」
有紗が畳み掛ける。
「学園は全寮制ですから、その間はお兄様とは会えません。でも、修行を終えて戻ってきた時、貴女は誰よりもお兄様に相応しい女性になれる」
そして、玲奈が僕のもう片方の手を取り、熱っぽい声で囁いた。
「素晴らしい案ですわ。あの無粋な兄の世話を焼くより、私たちと優雅に過ごしましょう? 貴女なら、きっと学園の誰よりも美しい『お姉さま』になれますもの」
二方向からの勧誘。
有紗は「兄のため」という大義名分を突きつけ、玲奈は「貴女自身の価値」を甘く囁く。
逃げ場はなかった。
「兄の恋人」として努力する姿勢を見せなければ、有紗に排除される。
そして何より、玲奈の純粋な憧れを拒絶することが、僕にはできなかった。
「……わかりました。私でよければ、受けさせてください」
僕が頷くと、双子は顔を見合わせ、花が咲いたように笑った。
「ふふ、嬉しい! 歓迎しますわ、お姉さま!」
二人は手続きのために席を立つ。
僕は片付けのために背を向けたが、その背後で交わされた双子の会話を聞くことはできなかった。
「……ちょろいですわね。これで邪魔者は隔離完了。お兄様の横に立つのは、泥棒猫の貴女じゃなくて、この私ですもの」
有紗が黒い笑みを浮かべて呟く。
だが、その横で玲奈もまた、恍惚とした表情で独りごちていた。
「……ええ、最高だわ。お兄様なんてどうでもいい。私、ずっと欲しかったの。私だけの、理想のお人形(お姉さま)が……」
兄を愛するがゆえに、兄(女)を排除したい妹。
姉を欲するがゆえに、兄(女)を愛玩したい姉。
二つの歪んだ欲望が交差する「鳥籠」へ、僕は自ら飛び込もうとしていた。その扉が閉まる音を、僕はまだ聞いていない。




