向日葵の後ろにある井戸
10歳の頃、母方の祖父母の家に行った時の話である。度々私たちは父の運転する車で祖父母の家に行き、泊まっていくことがあった。この年は田舎の山奥に移住した祖父母の元へ初めて行った年だった。夏休みだったのを覚えている。
「お婆ちゃんね、ちょっと前とは違うかも」
出発前、母は私に言った。そして、少しだけ考え込むような仕草を見せてから、更にこう付け加えた。
「ちょっと、変なこと言うかもしれないけど、気にしないでね。別に怖くないからね」
それが何を意味するのか、幼い私にも何となくわかっていたが、特に気にしてはいなかった。
祖父母の家は電波も届かないようなかなりの山奥にあり、近所に民家は2件ほどしか無かった。車で坂道を登っていく時は2頭の鹿が道を横切って行った。
祖父母は元々街に住んでいたのだが、数年前、何を思ったのかこんな不便な山奥にわざわざ移住したのだ。祖母はよく、「この場所に運命を感じた」と話していたが、今となってはその言葉の意味はわからない。
家は太い梁のある立派な古民家で、向日葵の咲く広い庭もある。畑には小川が流れ、サンショウウオが住んでいた。幼い私は美しいこの場所をとても気に入っていた。確かに夜になると真っ暗な中から獣の鳴き声が聞こえたりして怖かったが、この怖さの中に非日常的なわくわく感も感じていた。ちょっとした楽しみですらあったくらいだ。
しかし、ひとつだけ、好きになれないところがあった。それは、庭の端にひっそりと佇む井戸である。背の高い向日葵がたくさん咲いている後ろに、小さな井戸があるのだが、そこだけがどうしても好きになれなかった。理由はわからない。ただ、そこだけがこの長閑な場所から浮いているような気がしていた。祖父母も、落ちたら危ないから井戸には近付いてはいけないと繰り返し私に忠告した。
私が来て大喜びな祖母は、庭や畑から何度も私の名前を呼び、畑で取れたスイカやトマト、キュウリなどを食べさせてくれた。それらを冷やしていたのは、あの井戸の水だった。井戸の水はとても冷たく透き通っていたが、何とも言えない独特なにおいがした。そのにおいさえ私はどこか違和感を抱いていた。どこかで嗅いだことのある……しかし思い出せはしない。
あれは何日目だっただろうか。父と母が何か用があって街に出かけ、家には私と祖父母しかいなかった午後のことだ。私は1人で畑をうろつきながら遊んでいたのだが、じきに飽きて学校の宿題である絵日記を書くべく庭へ行って向日葵の絵を描こうと思った。向日葵の側には例の井戸があったため、何となく嫌な感じはしていたのだが、我慢することにした。
私が絵を描いていると、ふと、井戸の方から何かの気配を感じた。見られている。そんな感じの気配だ。だが何度顔を上げてもそこには何もおらず、向日葵の向こうにただひっそりと井戸があるだけだ。私はなんだか意地になってしまい、じっと井戸の方を睨みつけた。何だか知らないが、そこにいるのはわかってるんだぞ。と、心の中で威嚇した。
「こら!」
突然背後から祖父の大声が投げつけられ、私は肩を震わせた。振り返ると、縁側に祖父と祖母が立っていた。声色に反して怖い顔はしていなかった。祖父は振り返った私を一瞥すると、「どうして」とだけ呟いて、そのまま薄暗い部屋の奥へ消えた。残った祖母は私に家の中に入るように言い、私は大人しくそれに従った。
「ねぇ、あの井戸って……」
私が井戸を指差しながら尋ねると、祖母は穏やかに笑って言った。
「謝っておくわ」
その日の夜。時計の針が午前2時を回ったころ、私はゴソゴソとベッドから起き出して、一階にあるトイレへと向かった。トイレに向かうには階段から降りて右に曲がった廊下を真っすぐに進んでいくのだが、ふと見ると、縁側に昼間と同じようにして祖母がひとり立っていた。何をしているのだろうと思いつつ見ていると、祖母は庭に咲いた向日葵の方を向いて両手をつき、なにやらボソボソと呟いている。じっと耳を澄ませたが、聞き取れない。
そのまま物陰に隠れて見ていると、祖母は床に付いた両手を胸の前で合わせ、少しだけ声を大きくした。その時、私は祖母の言っている言葉を一言だけ聞き取ることが出来た。
「もう呼ばない」
私は庭の方に目をやった。祖母の目線の先にいる何かを確かめたかったのだ。暗闇の中、風に揺れる無数の向日葵。その後ろには井戸がある。だがそれよりも手前。向日葵の隙間に、何かの気配を感じる。闇の中から、何かが祖母を見ていて、こちらの存在にも気が付いている。そんな気がした。
しかし、私の目に何か悍ましい化け物が映ることはなかった。私に見えないものが祖母には見えているというのだろうか。
――お婆ちゃんね、ちょっと前とは違うかも。
ふと、母の言葉が思い起こされた。
私はもう一度庭を見た。やはり何の姿も見えないが、何かがそこにいるように思えてならない。私は確信していた。
井戸の中にいる何かが、外に出てきたのだろうか。そう考えていた時である。突然祖母が首を締めあげられたような呻き声をあげ、凄まじい勢いでのけ反ったのだ。
喉を掻き毟るようにしてもがき苦しむ祖母に、私は慌てて駆け寄った。
「どうしたのお婆ちゃん!」
訳も分からず、震える手で背中をさすった。
「あそこにいるのは何?」
祖母はカッと目を見開いたまま、必死に庭の方に黒目を向けている。
「ちがう。ちがう」
必死に何かを言おうとする祖母の口から、ドバっと大量の液体が噴水のように噴き出した。
一瞬、血か吐瀉物かと思った。だが、その割にはさらりとしていて、色もない。ただ、数時間前に嗅いだにおいが鼻についた。井戸水だ。祖母は、大量の井戸水を口から吐き出していた。
「やめて!」
私は大声で叫び、井戸の方へ駆け出した。その瞬間、背後で祖母の倒れる音がしたのを覚えているが、そこで記憶は途切れている。
その年、私は祖父母を失った。祖母は縁側で。祖父は布団の上で。
あの日からずっと考えている。私は気づいてはいけない何かに気付いてしまい、それが原因で2人を失うことになってしまったのではないかと。
井戸へ向かって駆け出したあの時、私は何をしたのか、どうしても思い出せない。祖父母はあの井戸のことをどこまで知っていたのかもわからない。
そしてあの日から私は、常にあの井戸水のにおいと刺すような何かの視線を感じている。今年私は20歳になるが、どこへ行っても、何をしていても、常ににおいと気配がついてくる。夜になると、溺れる夢をよく見る。溺れながら私は誰かの声を遠くに聞く。それが誰の声なのか。何と言っているのかはわからない。ただ、年々大きくなっていることは確かなのだ。怖くないと言ったら嘘になるが、私は心のどこかで、その声を聞き取ることを楽しみにしている。それが何よりも恐ろしいのだ。