5
キッチンから帰ってきた彼女はその右手に桃を持っていた。
今日は二人で向日葵畑へ行くことになっている。
その前に腹ごしらえがしたいと言った彼女はそれを食べようとしていた。
お腹が空いていない僕は「僕の分は必要ない」と言った。
今回は本当に必要がなかった。
が、そう言ったときにどこか切ない顔をした彼女がどう思っているかは知らない。
丸々一個の桃をその手に持っていた彼女。
そんなに大きな桃でもないので、その量が問題となるわけではない。
ここにはフルーツナイツもないがどうするつもりなのだろう。
不審に思っていた僕を他所に空腹の彼女は桃を皮ごと齧った。
齧りつくことによって“ジュワっ”と耳心地のよい音が鳴る。
それとほぼ同時に、その水菓子の水分がわずかに唇から滴り落ちる。
野性味溢れる食べ方は「要らない」と言った僕の食欲を喚起させる。
しかし、大胆な食べ方をした彼女を見て少しだけ驚いてしまう。
桃は皮ごと食べられる果物だったのだろうか?
当たり前のような表情でそれをしていることからおかしなことではないはずだ。
おかしなことを目の前でしておどけているようには見えなかった。
普通そうにしている彼女の家庭ではそうやって食べるのが普通なのだろう。
知識がない僕がいるだけで、桃は皮ごと食べられるのかもしれない。
物事に詳しい自信はない。
なので、不思議に見えた彼女の行為を違う家庭の常識だと納得することにした。
実際、納得するしないに関わらずそういう物なのだと思う。
なにかよい物を記憶することができたような気持ちになった。
魅惑的な彼女が桜のような色をした果実を口にした様があまりにもよかった。
だから、細かいことは気にしないことにした。
気にしたところでなんにもならない。
腹ごしらえをしていた彼女が桃を種だけにしたのを合図に外出の準備が始まる。
いつもと同じように簡単な支度しかしない僕。
いつもと同じように前髪をスプレーで固めた彼女。
そんな二人は特になにかを話すわけでもなくすぐに夕景に出た。
会話がなかったのはそれが痛くないからだ。
痛くない沈黙とともにいつもと同じような空を見た。
トパーズのような輝きと強風がそこにはあった。
スプレーをしていた彼女の固めた前髪は無慈悲に吹く刺さるような強風で乱れる。
ちょっとした外出だからか、そこまで“ガチガチ”に固めているわけではない。
それを気にしている彼女を気にしながら、道を歩いた。
徒歩圏内にあると言ってもそれはそれなりの距離がある。
ここは時間の流れが緩やかなので時計の針の動きと感覚の時の動きが異なる。
歩いて二十分ほどしたくらいの場所にあるそこへ向かうまでの道中。
二人の思い出の中にあるそこの話をしていた。
すると、どちらもコーヒーカップに乗ったことがあるのがわかった。
他にも同じアイスを喫食し、同じお土産を買っているのがわかった。
共通している部分を共有するような話をしていた。
そんな話をしているとその公園のような施設が見えてきた。
入り口のゲートには向日葵のイラストと、施設の名前。
ここの地名と『フラワーパーク』というシンプルな名前の施設。
なんの捻りもないその命名に安心感を覚えつつも、つまらないとは思った。
不快よりはつまらない方がマシだ。
ただ、そう思っているのは退屈に耐えられる僕だけかもしれない。
みんな扇情的な物が好きなのだ。
特色のないゲートを潜り、中に入って少し歩く。
するとビックリするような向日葵畑があった。
見晴るかす大地には向日葵が立ち並んでいる。
空のオレンジと似たような色をした黄色の花々。
弱い光の中では影の中すらもハッキリと見える。
光の方向性が拡散されている。
今にも沈みそうで沈まない光の中にある向日葵たちは生きているみたいだった。
強風に揺れて波立っているようだった。
ここに生きて、哀愁を歌っていた。
何度見てもよかった。
なにか本能に訴えかけてくるものがあるのだろう。
影にある青い葉っぱは自身が生きている意味をこちらに投げかけているようだ。
この光のほとんどない世界における葉緑体の存在意義を質問してきた。
抱えているであろう苦難を見せてくれようともしない彼女とは違っていた。
必然性に迫られるようにそれを見ている彼女。
その存在はここにいる僕のことを空気だと思っている。
しかしそれは悪いことではない。
空気である僕はそれを自由に眺めることができた。
傍から見ると肝胆相照らす仲のようだがそうではない。
心を許しあっているようにも見えるがそうではない。
いつも変わらない彼女は皮裏に“ふつふつ”としたなにかを秘めているのだった。
それはきっといつでもそうだった。
その中身には触れない方がよい気がした。
なぜならば中身がある彼女は眺めている僕にそれを質問してきていないからだ。
引き延ばされた一瞬の中で自分の中にいる彼女と対面していた。
本当はなにを考えているのかなんてわからない。
そういう空間の中にいた時間はあまり長くなかった。
お互いに空気を読んでそれらを“ジっ”と眺めるようなことはしなかった。
風に吹かれたのかもしれない。
風に吹かれたことで不安が生じた。
ここに居ることに対する形もなければ理由もない不安が発生した。
漠然とした不安を理由に園内を見て回ろうとした僕たちは二人で歩いていた。
そこに猛烈と表現してもいいほどの風がやってきた。
するとたくさんある向日葵の内の一本、翩々する大きな葉っぱが地面に落ちた。
低い場所から落ちたそれは遠くへ行かず、彼自身の近くで“ジっ”としている。
そんなに脆い葉ではないのに落葉したのは、やはり風が強いからだろう。
実体のない不安ゆえに自ら命を落としたのかもしれない。
いや、落とされたのではなくて、堕ちたのだ。
神様に逆らうようなことをしたかったのだ。
ここから葉脈すら見て取れそうな大きな葉。
今もまだ吹き続けているかまいたちのような存在が死を促した。
促された葉っぱは落下した。
となると結局は他人に殺されているのかもしれない。
その茎を“パキっ”と折ったのは前髪を薙ごうとしている存在と同一人物だ。
飛花落葉を加速させようとしている未来的な風を受けて二人は止まる。
常なる状態を壊そうとしている風のせいで前に進みたいのに進めなくて止まる。
瞳に砂が入ってきそうで怖くて、目をつむった。
疾風が去って、目を開けると前髪を気にする彼女は右手で額を押さえていた。
雑多な僕の髪は流されるままに流される。
なぜかとけるような幸福を感じた。
変えようとしている風のような彼女と変わらぬ太陽のような僕がいる。
もちろん、ここでいう太陽とはこの空にある太陽のことだ。
光輝く存在のことではない。
対称的な僕たちはお似合いな気がする。
くっつくのは同じ極ではなくて、違う極だ。
これだけ違っていれば離れることもないだろう。
どんな世界になったとしても一緒に居られる予感がする。
暇だった僕たちはそれなりの時間をここで過ごした。
この施設を頭に入れることなく歩いていた。
単なる散歩と一緒だった。
中身を入れることができるだけのスペースが心になかった。
全てのことが客塵的に見えたのだ。
最初の場所に戻ると、向日葵は揺れながら歌うのを止めていた。
宝石のように輝いていた空はいつのまにか暗い雲に覆われている。
その隙間から差す一条が今もまだこの世界をわずかに照らしている。
どこまでも近くに居てくれる。
これは安心するべきことのように思えた。
そして思惑通り、ここにはあまり人が遊びに来ておらず、とても快適だった。
快適であるがゆえに長居してしまったのだ。
これから先も人が来なければ嬉しい。
地元に住む僕たちだけが所有する庭であるかのようになってくれれば嬉しい。
そうすれば向日葵畑の前に居ると感じる不安も安らぐ。
命を直視することができるかもしれない。
そんな気持ちもあったが、現実はそうもいかないだろう。
それを拒むのは太陽が沈むという当たり前だけでもない。
人が来なければこの施設の規模は段々と縮小していき、最終的には潰れる。
そんなことになったら廃墟的な場所が増えているこの街にまた一つ廃墟が増える。
誰も住んでいない空き家ばかりのこの街に、さらに人が居なくなってしまう。
それを望む心が半分、それを望まない心が半分。
廃墟になっても園内に入れてくれないだろうか。
もしそうしてくれるならば今すぐにでも廃墟になってほしい。
この場所を亡霊のように彷徨うのだ。
それが生き方であると主張しながら流れる。
ワガママでしかない願望だった。
宵闇へ到達しそうで到達しない空。
今もなおどこかへ消えてしまいそうで、消えない空にある瞳。
世界に懇願するかのようにして、ここに居ようとしているその人。
下の方に光が落ちてきて、そのまま消えかける。
消えてしまうと思った僕は物悲しくなって愁いが背中を覆う。
何度も何度も沈みそうで沈まない、そんなあの人。
その人もここでもう終わりなのかと思うと、雑多な日常への回帰が見える。
回帰した先にある空は青空や夜空である。
それは地球から見ることができる宇宙の普通の光景だ。
雑多への回帰を思って、涙腺よりも奥の方から涙が出そうになる僕。
最後を覚悟するように沈んでいく君を見ていた。
が、すぐに日の出のように太陽は戻ってくるのだ。
ゆっくりと上空へ昇っていく。
その様は東の空のようだ。
その瞬間だけ日暮れの国になっていたこの場所は日の出の国になる。
西に滞在してからもう何日が経ったのか。
もはや数えてすらいない日数を西で過ごしている、目を合わせることができる瞳。
薄暮の中にある物は全てが美しく見える。
それ自体が存在価値であるかのような優美な風車。
薄い陽を白が吸って、空間をかき混ぜる。
そして、風を飲み込んで、新しい活力になる。
さっきまでここにあった風は、風車の方へと消えた。
静止した時間をプレゼントするために移動してくれた。
全てが生きているみたいに思えた。
そして、全てが自らの意味を投げかけているように思えた。
全てには平等な価値があるのかもしれない。




