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向日葵畑と無明の間で“そっ”とさようなら  作者: 豚煮豚


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 今は家に一人っきりだ。

他には誰もいない、なにもない時間。

こうしている時間の方が多い。

なにかをするべきなのになにもしていない時間。

放蕩(ほうとう)的な人生を送っていることは自分にとってはいいことだ。

酒に溺れているわけではないが、いつも隣にいる彼女には溺れている。

間違いなく享楽味(きょうらくみ)を帯びているが、こういう時間が好きなのだ。

今だけの幸福や快感のために生きているような物なのだ。

しかし、こうしているとたまには不安にもなる。

とても悪い、が、もしかすると善いかもしれない物が心に去来してくる。

それはやはり胸の中を行ったり来たりするのだ。

その物は「行動せよ」と説いてくる。

「行動することが人生の全てだ」と断言してくる。

理不尽な叱責をされているような気分の僕はそれを無視する。

この胸の突っかかりは確かに存在し、思い過ごしなどではない。 

その確信の理由は寒くなる背筋だ。

行動していない自分を認識して全身が冷たくなるのだ。

冷やされていると凍ってしまいそうになる。

今後の展望は今も塞がり続けており、選択肢は一つ一つ消えていく。

それでも、不安の塊のような僕はどうせなにをしていても不安になってしまう。

だから究極的に言えばどっちでもいいのだ。

どっちにしろ不安の()(しろ)になっている僕はそれの前に居続けるのだから。

どんな道を選んでも、ずっと近くで生きていくことになるのだ。

いつものようにソファーに座っていた。

そしていつも見ている物を見ていた。

もはやいつもになった空の下で。


 泡沫(ほうまつ)的な僕と堅牢(けんろう)な彼女は向日葵畑に行く約束をした。

この近くにある、徒歩でも行ける場所の黄色いカーペットの向日葵畑。

公園のようにもなっているかなり広い敷地の一角を占めている花々。

コーヒーカップのアトラクションもあるが、そんな物は誰も乗っていない。

取って付けたようなそのアトラクションには誰も騙されない。

人の喜ぶ顔を想像していた人の悲しい背中が思い浮かぶようだ。

この世界はなんにも思い通りにはいかない。

どんなに乗ってほしかったとしても、需要がなければ誰も乗らない。

もし乗る人が居るとしたならばなにも知らない子供と、なにか知っている親だけ。

この世界の享楽と人の慈しみを知らない子供と、それらを知っている親だけだ。

本来だったらそれなりに賑わっているはずのあのフラワーパーク。

こんなことがあっては観光どころではない人も多く、今は閑散(かんさん)としているそうだ。

人混みが苦手な僕も同じく人混みが苦手な彼女もこの街の近くに生まれている。

だから、どちらも子供の頃にそこへ遊びに行ったことがあった。

つまりは、なにかを知っている親と一緒に行ったことがあった。

どんなことを思っていたのだろうか。

徒歩圏内にあるのでここに住んでからも何度か遊びに行ったこともある。

しかし、その度に人酔いをしてしまってあまり楽しめなかった。

であるならば、太陽が沈まない内に行く方がいいだろう。

人がいない内に行く方がいいだろうということで、その約束をする運びとなった。

花を見るのは好きだった。

綺麗な人間になれる気がするから。

綺麗な物が好きな人間である以上、綺麗な存在になりたかった。

ただ、それよりも重視するべきことが当然のようにあった。

それはもはや言う必要すらないようなことだ。

綺麗になる前に人間にならなければいけない。


 向日葵が太陽の方を向きながら生長する理由。

それにはサーカディアンリズムと植物ホルモンが関与している。

日本語で概日(がいじつ)リズムと呼ばれる前者は一般的な言葉にすると体内時計となる。

明暗などによってリセットされる、生体機能に備わっているリズム。

光の刺激などによって整えられるリズムであり、人間にも備わっている機能だ。

向日葵は自身の体内時計を用いて、一日の周期を把握することができる。

日中に太陽を追いかけ、最終的には西に顔を向けた向日葵。

それは体内時計によって日の出までに逆の方角である東に顔を向ける。

そもそも太陽を追いかけることができているのは植物ホルモンの影響だ。

植物ホルモンの働きによって太陽を追いかけるように背を伸ばす。

しかし、それはあくまでも生長する段階の話。

花が開けば、顔を動かすこともほとんどなくなる。

開花という確かな成功をしたあとに“ジタバタ”と動く必要などないのだ。

動かなければいけないのはそれまでの間だけだ。

つまり、成功していない人間は動かなければならないということだ。


 向日葵の茎は太陽光を浴びているとき、太陽光を浴びていない部分が伸びる。

日の光を浴びることができない向日葵の背中。

その背中から植物ホルモンが分泌されることで背中側の茎が伸びる。

それによって太陽に顔を向け続けられるようになる。

人間で考えると、背筋を伸ばすことで視線を上に上げているのと同じだ。

背筋を伸ばせば、自然と顔は上を向き、背筋を丸めれば自然と顔は下を向く。

人間と違うのは向日葵の背骨には前後の制限が少ないということだ。

さっきまで背骨だった背面が光の影響による顔の動きに合わせて正面になる。

そして、太陽が沈めばまた背骨の背面と正面が入れ替わり、夜明けを待つ。

東に太陽があるときは西側に背骨、西に太陽があるときは東側に背骨があるのだ。

まさしく太陽に振り回されるように生きているのが向日葵だ。


 光の刺激がなくなったことで夜を認識したその花。

夜の中で沈んだ太陽に名残惜しさを感じている植物。

そんな彼はサーカディアンリズムの働きによって東側を向く。

そして、歪んだ地上の線から太陽が昇ってくるのを待つ。

それを繰り返して花を咲かせるのだ。

花を咲かせるまでそれを繰り返すのだ。

体内時計が狂わない限り、しっかりとこのリズムの中で生活を送ることになる。

生長するために太陽光を必要としているだけだ。

そういう意味ではドライな関係性であるとも言える。

光合成をするために葉っぱを太陽に当てようとしているだけ。

伸長のための仕組み。

太陽の花は太陽のために生きているわけではない。

太陽のシンボルとしての存在という与えられた役割を全うするためなどではない。

もちろん、太陽も向日葵のために生きているわけではない。

あくまでも自分の幸福のために生きているのだ。 

自分のために生きることによって他人を助けることになるのが自然の結果なのだ。

そもそも世界をこんな空にした太陽が考えていることなんてわからないが。


 向日葵は花が咲くと茎が太くなる。

花を安定させるためにその背骨を固定しようとするのだ。

だから、その顔が太陽の方を向いているのは蕾の頃が主となる。

向日葵の花が太陽を見続けることはあまりない。

しかも、なにもこれは向日葵だけの特徴ではない。

サーカディアンリズムとホルモンによって日を向かう植物は向日葵だけではない。

他にも様々な花に備わっている特徴だった。

あくまでもそういうイメージがあるのが向日葵だけだということだ。

向日葵が太陽を向いているという文脈があるだけだった。

大人になることで失われる、なんでもない個性。

役割を終えて機能しなくなる、生長するための個性。

老化という安定を得ることができれば、もう必要がなくなるものだ。

自分という存在が確立するまでの不安定な期間に必要な個性だった。


 伸びた茎は重たい花によって腰を曲げ、向日葵の視線を上空から地平に移す。

地に居る僕たちが向日葵と目が合うのは向日葵の茎が腰を曲げているからだ。

もしもその集合体のような中心がある花がもう少し軽かったらそうはならない。

軽やかな意味を含んだ花であればチューリップのように咲くことになるだろう。

空にだけ顔を見せるように上を見て咲いていることだろう。

彼らはアイコンタクトを交わそうとしている。

その意図を掴んだ僕たちはそれを見てしまうのだ。

視線を交わすことによって共生という営みをすることを了解しあっている。

お互いの目的を尊重しあうことを約束している。

太陽に擬態することで自らの幸福を確保しようとしているのかもしれない。

それならば、人間にとっても彼らにとっても幸福だから問題もなくなる。

太陽のシンボルになりたがっているのならばそれでいいだろう。

そんなイメージによって大量に敷き詰められることになるのだ。

向日葵にとってはそれでもう幸せだろう。


 安定のために光を諦めた向日葵。

諦めたとしても太陽光は降り注ぐ。

こんな世界になっても太陽光はいつまでも降り注ぎ続けている。

降り注ぎ続けることによって乱れたリズムはどんな影響を与えるのだろう。

今よりも数年後の世界の姿を想像すると呑気(のんき)なところがある僕も現実に戻される。

これから生長しようとしている植物はどうするのだろう。

これから大人になろうとしている子供はこの空の下でどんなことを思うのだろう。

この世界はどうなってしまうのだろう。

どうせ、この世界は規定されたようにしか生きていけない。

あらゆる物が遺伝子と環境によって規定されて生きているのだ。

どちらかをなくしたらその瞬間に消えてしまうような、シャボン玉のような存在。

筋肉がない植物は歩くことができない。

歩くことができる僕たち人間は筋肉があるだけの植物だ。

結局は、なにかしらのリズムによって生かされているだけの存在。

目が回るようなリズムに囚われながら、一人で背筋を丸めた。

その視界にいつもの景色はなかった。

安定するとはそういうことだ。


 老成円熟(ろうせいえんじゅく)と言えるような人物になれそうな気配はなにもない。

首が据わることさえないような気がしている。

あまりにも未熟すぎる僕は成長さえしない気がしている。

ずっと太陽に恋慕(れんぼ)を寄せるだけだ。

このまま行くとどの世界でも中途半端な人間として生きていくことになる。

ここでも、前の世界でも、どこでも半端な僕がいる。

そんなことになったらとても中途半端だ。

そんな中途半端さが許容されるべきなのかは知らない。

が、そんなことが許容されていいわけがないような気もする。

何者にもなれないことは望ましいことではないはずだ。

とりあえずなにかしら宿を見つけ出さないといけない。

宿を拠点にして定住地を探すことにしよう。

そこに根を張って栄養を摂取するのだ。

そうすることによって立派な花を咲かせる。

花を咲かせた後は死ぬのを待つだけだ。

ひたすらに死だけを見つめて時間を過ごすのだ。


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