10
こんなことになっても雨は降るようだ。
前にふと思ったことが現実になった。
雨が降ったらどうなるのかという好奇心は満たされた。
しかし、それは望んでいたよりもかなりの大雨。
窓の外には重たい雲があり、記載できるほどの雨が降っている。
たしかに雲は前の世界と変わらずに動き続けていた。
それでも、こうして太陽がしっかりと隠されてしまうと不安になる。
そこに居たはずの幸福がどこかへ消えてしまったかのようだ。
もちろん不安な気持ちだけに占拠されているわけではない。
一部を占領しているだけのそれに振り回されるわけにもいかない。
人間の隙間に入り込んでくるかのような雨は心を潤わせた。
それによってわずかにまともへ近づいた僕がいる。
小難しいことはなにもわからない。
夕空はまだ研究中であり、なにについてもわかっていない。
そんな中でも窓の外には線のような雨が降っている。
夜雨のような景色は懐かしさを与えてくれた。
リハビリの効果もあって、夜を懐かしく思うことができていた。
このまま夜になっても絶望することはなさそうだ。
ただ、それに類することはしてしまうかもしれない。
落ち込むくらいはあるかもしれない。
どの程度沈んだかによって絶望が決まるのであれば絶望してしまうかもしれない。
やはりまともにはなれない予感がした。
それによって沈み込むように落ち込んだ。
驟雨のような雨を遠くに見ていた。
雲を葉っぱとした大樹がそこにはあるように見える。
沖の方で局所的に強い雨が降っているらしい。
「見ていた」と言っても暗闇しかないのでぼんやりとしか見えない。
それは蒸気に煙る工場のようにぼんやりとしていた。
一時的ではあるだろうが、あらゆる物を見ることができる世界ではなくなった。
幸福に指向性が復活した。
いつも通りの景色が一変して、世の中が宵のように暗くなっている。
その中で海上に一つの柱がうっすらと見える。
その柱は近くにあるであろう風車を壊そうとしているようだった。
とにかく破壊的な願望によって生かされていた木があったのだ。
あの風車は遠い海に設置されている物だ。
ちょうどあの大樹の幹がある場所に繰り返すだけの存在がある
壊そうとする目的は日常を壊すためだろう。
こんな日常に雨は興味がないのだ。
繰り返しの日常にうんざりしているのだ。
それを好んでいる僕とは正反対の思想を持っているようだ。
繰り返しているのだ。
終わりを待ちながら繰り返している。
よる辺のないようなこんな風景の中。
ここにいる人以外誰もいない景色の中。
誰かの景色になることがない景色の中で人恋しさが沸き上がる。
シフトが入っていた彼女は今日もバイトだ。
びしょ濡れになって帰ってくるであろう彼女。
そもそもこんな日に誰が居酒屋に行くのか。
と一瞬は思ったが、むしろこんな日だからこそ人が集まる気がした。
おそらくそれなりの人が変わらない日々の中で雨に慕情を抱いている。
前の空を見たような気持ちがして、雨宿りがしたくなる。
その雨音の中で家に帰りたくなくなるはずだ。
それがある以上は、こんな日であっても仕事をしなければならない人がいる。
そんな役回りを担わされている彼女。
こればっかりはどうしようもない。
そういうどうしようもなさを普通の人は抱えながら生きているのだ。
でも、普通ではない僕はそんなことなど関係ないかのようだ。
平衡感覚すら失いそうな勢いで無関係が襲いかかってくる。
その関係の無さが辛いのだ。
関係していたらしていたで辛い思いをするに決まっているのにそう思う。
天気に左右されやすい僕は感情が揺れ動く。
自分の惨めさは誰よりも自分が知っていた。
だから、辛い思いをしているであろう彼女を思うと死にたくなる。
なにかをしなければならないと苦しくなる。
それは常に感じているべき物だ。
しかし、幸福がそれを覆い隠すのだ。
幸福すぎて不幸になりたくないのだ。
不幸という原動力が必要なのに。
幸福の中に被害者などいない。
被害者になりたくない。
心に傘がない。
だから心がびしょ濡れでどうしようもない。
これから大雨の中で全身を濡らして帰ってくる彼女の前ではこんなこと言えない。
傘では防げないほどの強雨に打たれる彼女のことを考えれば無言が適切だ。
心が濡れているのがなんだという話だ。
やらなければならないことをやってきた彼女の前では黙々としているべきだ。
だが、吹きさらしの心が今すぐにでも誰かに触れたいと思っている。
お互いの傷を語り合いたい。
それをすることは自分の存在の小ささを認識することかもしれない。
それは死へ繋がっている道かもしれない。
それでもいいから話したかった。
しかし、そんなことができる相手は社会の中にいる。
避難場所だけでもいいから用意をするべきかもしれない。
それが避難だけではなくなる可能性のことを考えると恐ろしい。
新しい定住地ができたらどんな顔をして生きていけばいいのだろう。
ただ、そもそも誰にも仲良くなりたいと思われないような僕だ。
たまたま運命的に付き合うことになった彼女がいるだけだ。
他の誰かに好かれることなんて考えてはいけない。
人恋しさは自分一人で埋めるしかない。
いや、耐えるしかない。
社会に相応しくない僕が愛に払う犠牲は痛みだ。
愛情があることによって苦痛が発生するのだ。
この苦痛は慢性的な頭痛のように日常に溶ける。
それゆえに不意にしか直面することはない。
油断をしたその隙につけ込んで、溶けだした液体を皮膚から吹き出させる痛み。
身体全体がそれを感じて縮められているようなのだ。
もっと心が無いみたいに生きていたいとも思う。
心を冷凍睡眠して、未来に期待を託したい。
しかし、そうなってしまった僕のことを今の僕は容認したくない。
心が無くなってしまった僕の姿を想像するのはどこまでも恐ろしい。
それは他人の視線を全く気にしなくなった人間だからだ。
他人の視線とは自分の視線のことでもあった。
世間体という箱の中にいることで保てている物がある。
それが無くなってしまうということは、動物よりも動物になるということだ。
心が無くなることを願うならば死ぬことを願った方がいい。
心を無くすというのは死ぬよりも悲惨な結末だ。
心が無い僕は様々な過ちを犯すだろう。
解凍された心はそれを見て、心を自殺させる。
心の自殺とはどんなバッドエンドよりもバッドエンドだ。
寂しくて心が不安定になる。
この悲しみは今の自分でなくても存在し得た悲しみだ。
大好きな相手が遠くにいることを考えて涙が出てくる。
それは雨につられた涙だ。
どうしてこんなになんでもないようなことで泣いてしまうのだろう。
情緒が安定していない。
氷点下で個体になろうとしている液体がいる。
その個体は膨張して、周囲を圧迫する。
苦しい。
いつまでも変な僕には馴染むことがない、この世界。
浸染するように世界が液体になって空洞を抱えた僕に溶け込めばいいのに。
忘れてしまえばそれでいいはずなのに忘れられない。
なにもなかったみたいに生きればそれでいいはずなのに過去がある。
液体になって脳に染み込んでしまった過去がある。
今を生きている僕には当たり前のように過去があった。
記載されていないような無数の過去がある僕なのだ。
それは誰も知らない。
記憶を持っている僕以外は誰も知らない。
こうして生きている僕がいるのはその過程があるからなのだ。
人間の僕は今日まで必死に生きてきた。
その結果、社会に馴染めなかった。
そして、なにを求めて生きているのかもわからない。
あるとするならば幸福だけだった。
あまりにも寂しすぎる物だけを求めて生きていた。
不思議なことを思うようになる。
睡眠が浅くなったせいか、最近は前よりも夢見がちになった。
どこまでが現実で、どこまでが夢なのかが曖昧なのだ。
繰り返してそんなことを考えていることすら夢的だった。
自分の身の丈もわからないというのに、実体はさらに透明に近づく。
なにもしていない僕は、このままでも救われてしまう気がする。
なにか、人生が神様のような存在によって導かれているというような感覚。
万能感のような物に覆われていて、圧縮されそうになっている。
それがあるがゆえに、絶対的な安心をしてもいいほどの心強さが今を埋める。
霧のようなそれを、透明人間である僕は遠くから眺める。
誰にも存在さえも知られていない感情を胸裏に抱いて。
明日は天気になれ。
そんなことを頭の中で唱えてしまった。
沈み込んでいくことにはもう慣れていた。
孤独の辛さにも慣れていた。
それなのに今日はいつもよりも酷い。
こういう酷い日が時々やってくる。
厄日と言いたくなるような日が怖い。
まるで悪魔のように思えるそれはこの世界に必要がない物だ。
その一端を担っている雨は必要な物だ。
しかし、とにかく明日は天気になってくれ。
そうしてくれないと心が乾かない。
腐食する前に晴れてほしい。
結露がサッシにカビを生やす前に助けてほしい。
どこまでも自己責任なコストを払うことになる前に助けてほしい。
それにしても天気と言って晴れを差すようになったのはなぜだ。
あまりにも傲慢な気がしてならない。
でも、太陽にはその傲慢さを持てるだけの力があった。
この世界は太陽の世界だ。
太陽がないと誰も存在できない。
驕り高ぶる資格がある存在だった。
神様が居るとしたらそこにいるのだろう。
純粋で論理的ではない神様はそこにいる。
どこまでも沈んでいきそうな気持ちを元に戻すために眠ることにした。
一度最初に戻そう。
大好きな彼女がいる世界に戻そう。
そうしたら、またなんでもなかったかのように回ることができる。
なんにもなかったかのように空は夕景に戻ってくれる。
どうでもいいから、そして誰でもいいから助けてくれ。
誰よりも、世界よりも自分に殺されてしまいそうなのだ。
それを救ってくれる彼女が居ないと苦しいだけだ。
死にたいだけだ。
死にたいと思うことによって心が死にそうになるだけだ。
死ぬことよりも心が死ぬことの方が怖い。
醜態を晒しながら世界を動き回りたくなかった。




