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笠姫  作者: 加藤無理
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笠姫誕生

 時は江戸時代後半、年号は寛政。松平定信が改革を行った時代である。当時は浅間山が噴火したり東北で冷害が起きたりと大飢饉が起き、人の心もすさんでいた。武家であっても刀を高利貸しに売って飢えをしのぐ有様だった。その危機を脱しようと定信は政務に励んだ。


 時の将軍である家斉いえなりは政治に口を出さずに芸術に力を入れていた。家斉は元々、先代の将軍である家治の実子ではなかった。家治の実子である家基が落馬で死亡した事で一橋家の家斉が将軍になったのだ。その時に家斉の実父である治斉と田沼意次が暗躍していた。そこで家基を毒殺したのだと家斉は思い込み、心に傷を負っていた。


 家斉は政治は定信に任せて自分は子作りに励んだり芸術を磨くべきだと考えていた。実は定信も将軍候補であったが、治斉と田沼に妨害されて将軍になれなかった。幕閣も民衆も定信に期待していた。


 定信は真面目でしっかりと風紀を糺して貧困問題や飢饉や外交問題と向き合っていたが、真面目過ぎて厳しかった。民衆は田沼意次の時代を懐かしがるようになった。


 当時の帝だった光格天皇も幕府に不満を持っていた。光格天皇は親政を夢見ていた。京都の大火の時にも民政安定よりも豪華な皇居を造らせた。


 江戸の大奥もまた定信を嫌っていた。窮屈だから贅沢な暮らしでウサを晴らそうとしていた大奥にとって、厳しい質素倹約を求める定信は邪魔だった。また、定信は大奥の責任者である御年寄から同等と思われるのを心底嫌がり怒っていた。それが更に大奥から嫌われる理由にもなっていた。


 松平定信の寛政の改革は成果があったものの、結局のところ定信は失脚してしまった。その時にしなという女が江戸城に来た。御庭御目見得おにわおめみえといって若い美女が将軍と謁見えっけんするのだ。将軍に気に入られれば一夜を共にして将軍との子どもを産む事もある。


 品は商人の娘だ。士農工商の身分から考えれば低い身分だ。更に豪商の娘でもない。けれども不思議な事に家斉は品の琵琶演奏を気に入り、大奥に入れた。


 その数年後、大奥で礼儀作法や教養を身に着けた品は家斉と一夜を共に過ごした。


 寛政十二年、西暦1800年の秋に品は女の子を出産した。しかしその時に品自身は命を落としてしまった。それを憐れんだ家斉の正室である寔子ただこは乳母達にしっかりと養育させた。当時の乳母達は社会的地位が低かった。家光の乳母であるお福の方・春日局の様な女傑の再来を防ぐためである。乳母達は将軍の子ども達から懐かれないようにあやすのを禁じられていた。その事が将軍家の乳児の死亡率は高かった原因の一つと言われている。


 品の生んだ子どもはかさと名付けられた。笠はどんな乳母の乳でも拒まずに飲んだ。本能的に飢えを避けているようであった。自分が生んだ子も、側室が生んだ子もバタバタと死なれていた中、寔子は笠の生命力に感心した。


 寔子は何人も子どもを生んだが半分以上は死なれていた。生き残りの一人は四歳になる敦之助。敦之助は正室である寔子の子どもであったが、先に生まれた敏次郎が世継ぎと決まっていた。敏次郎は現在七歳だ。


 寔子は自分の子どもだけではなく、側室の子どもも自分の子どもとして可愛がっていた。将軍の正室は御台所みだいどころ。御台所として寔子は大奥に責任を持っていた。

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