2.「今夜、『エフ』を頂きに参ります。そのコの命と一緒に」
1
すっかり外は夜色になっていた。今日のお勤めを無事に果たし、この町に来てから世話になっている民宿に戻る途中で、ヴァルヤは連れに向かって唐突に口にした。
「なぁ、ルージュ。今日 飯食った店で、お前によく似た奴 見つけたんだけど」
「私によく似た……? 女の子? 男の子?」
「女。年の頃は……十五、六……くらいかな。本当にそっくり、お前の子ども版」
ふぅん、とだけ ルージュは答えた。思い当たることがなくもない。
「その娘もバラ人だった?」
「んー、一つだけバラが咲いてたけど、肌とかは普通の東島人みたいだったな」
もしかしたら……。ある思いがルージュの中にかすめた。まだ近くにいるかもしれない。
「ヴァルヤ、少しばかり 私に付き合ってもらってもいいかな?」
「まともな用事ならな。……!?」
暗闇を睨みつけ ヴァルヤが立ち止まった。得体のしれないものが出てきそうな、そんな感じだ。
「こんばんは。やっぱりあなたに運命を感じたので、お迎えに上がりましたわ」
すぅっと浮き上がったのは、白い肌に異常なまでに赤い紅を差した デタスコの唇だった。さすがのヴァルヤも 油断ならないと警戒を強める。
「迎えに来たって、どういうことよ!」
「もう彼は、私達の仲間になることに決まったの。ご主人さまも大歓迎よ」
「ご主人さま……?」
顔をしかめるヴァルヤに、デタスコは不敵な笑みを向けた。
「そう。あなたは『リング』って、知ってる?」
「……『心揺るがすものの名を与えられた、意思を持つ無生物』……の、ことか?」
満足そうに、デタスコは頷いた。その瞳が妖しく光を放つ。
「ご主人さまは『リング』を集めてらっしゃるの。あなたも一つ、持ってるでしょ?」
そっと、ヴァルヤの左二の腕を撫ぜる。服の上からは見えないはずなのに。
「ルージュ」
ヴァルヤが困ったような声を上げた。そう、彼は『リング』の存在を知っていても、自分が身につけていることは知らないのだ。ヴァルヤに『リング』の存在を教えたのは紛れもなくルージュだ。しかしルージュは彼の着用するそれを知っていたにも関わらず、何も伝えはしなかった。ルージュの目的は 別のところにある。
「関わっちゃ駄目よ、ヴァルヤ」
二人を離すように、デタスコはヴァルヤの腕を引き寄せた。
「もう、始まってるの。逃がさないわよ」
渋々承諾したヴァルヤに、これから自分が与えられた使命のサポートをしてほしいのだと、デタスコは告げた。
――彼女の使命は、『エフ』の抹殺。
**
いつの間に紛れ込んだのだろうか、トトのリュックの中から一枚のカードが出てきた。
「今夜、『エフ』を頂きに参ります。そのコの命と一緒に」。悪戯にしては度が過ぎている。カードを握り潰すと、ルーアは借りた部屋の戸締まりをして回っていた。
宿屋に入ってからは、マグナすら傍にはいなかった。完全にルーアとトトだけだ。ならばその前に、誰か――おそらくトトの両親を殺害した呪族の女――が、これを入れたに違いない。どこで見つかったかは分からないが、ここからは自分が守ってやらなければ。
「さて、『エフ』をどこに隠したものか……」
トトが両親の形見に持つ、エフ字型の奇妙な物体を隠すには、この部屋では狭すぎる。あまり宿の人には迷惑をかけたくないが、どこか管理の厳重なところで預かってもらった方が安心がいい。しかし予告状には『今夜』とある。
「もう、夜に入るのかな」
「姉ちゃん」
振り返ると、泣きそうなトトの顔がある。そうだ、自分よりもトトのほうが怖いのだ。
「大丈夫、お姉ちゃんがトトのこと、絶対 守ってあげるから!」
トトの小さく細い体を抱き締めて、ルーアは言い切った。
その少しの沈黙は、戸が叩かれる音で中断された。トトの手を引きつつ、玄関口に出る。廊下に立っていたのは、マグナのように深くフードを被って顔を隠した人物だった。
「……どちらさま?」
トトの肩を自分に引き寄せ、鋭く問う。人物は、人差し指をぴっと 立てた。
「その子、『エフ』を持ってる子だろ? 今日、予告状の来た」
「なんでそれを……」
「しっ! あの女はその子がこの部屋にいること知ってる。だから気付かれないように 他の部屋に『エフ』ごと連れて行った方がいい。さっきこの宿のオーナーと話をつけてきた。その子を守りたければ 少しの間、私に預けてくれないか?」
「その前に、あなたが何者か教えてもらわないと、」
「そんな暇ない!」
人物の声が厳しくなった。半ば強引にトトの手を取る。
「何するの!? 人を呼びますよ!!」
だが、あんなに怯えていたトトは、その人物に手を引かれても怖がったりしなかった。
「この人はだいじょぶだよ、姉ちゃん。姉ちゃんと同じ匂いがするもん」
「え」と聞き返すうちに、人物に手を引かれ トトの姿は見えなくなってしまった。ルーアの中に不安だけが残る。これで本当に大丈夫なのだろうか。
「……マグナ、どこ行っちゃったの……?」
守るべきものがいなくなると、途端に人は弱くなる。同じ宿に泊まるのかどうかも分からないマグナの名を呼びながら、ルーアは自分の震えを感じていた。
2
いつもなら、トトと一緒に寝てしまう時間になった。今日は不安と心配でまだまだ眠れそうにない。寝台の上で膝を抱えていると、また玄関の戸が叩かれた。
「……誰?」
「俺、マグナ。入ってもいいか?」
飛び込むように玄関に走り、勢い良くドアを開けた。ゴン、と鈍い音がする。
「痛ってぇ!!」
「あ、ゴメン マグナ! ……どこ行ってたの」
「宿泊代 負けてもらおうと、宿の調理場で皿洗ってた。……トトは? もう寝たのか?」
しばらくルーアは黙り込んだ。先にマグナを部屋に入れてから、少しして部屋に着いてからのことを伝える。その間、マグナは静かにルーアの話に聞き入っていた。
「あの人、何者だったんだろう……」
トト、大丈夫かな。あたし、何すればいいんだろう。ねぇ、マグナ。ルーアはひっきりなしに喋り続ける。その本当の意味を、マグナは分かっていた。
「大丈夫、お前には俺がついてる」
その言葉に、ルーアもトトのように泣きたくなってしまった。だけど、堪える。溢れる寸前まで涙が溜まっても、声を上げて泣くのだけはじっと堪えた。
「そうだ、頑張れ。偉いぞ」
肩に置かれたマグナの手の重みで、少しずつ気持ちが安らいでくる。
招かざる客人が現れたのは、ルーアがすっかりマグナに心を許したときだった。
「こんばんは」
中から鍵をかけたはずの窓から、冷たい風が吹き込んできた。そして客人も風とともに部屋に踏み入る。安らぎかけたルーアの心が、急速に冷えてゆく。
「……何しに来たの」
「予告状はもう 出してあるはずよ。でも もう一度、教えてあげる。『エフ』を……」
「ここにはそんな物ないよ。分かったらもう帰って」
間違いない、トトの両親を殺めた呪族の女だ。――一見、普通の島人に見えるけれど。
「あなたは?」
突然、その女はルーアに詰め寄ってきた。
「な、何? その“あなたは”っていうのは……」
「『エフ』と『リング』に引き寄せられるは『リングの主』。ちょっと調べさせてもらうわね」
言うなり、女はルーアの襟元を掴み上げた。そのまま懐からネックレスのようなものを引っ張り出す。
「これはとある人物から奪った『情欲のリング』。さ、これに触ってみて」
「『リング』……? 何、それ」
「知らないならそれでもいいわ。とにかくこれに触りなさい!」
わけが分からないままに、ルーアは恐る恐る『リング』とかいうものに触れてみた。一瞬 それは光を発し、指輪のような形に変形した。ルーアが指を離すと、また元のネックレスに戻る。どうやらルーアが触れることによって変形するようだ。
「何なの、これ」
「やっぱりあなたが『リングの主』だったみたいね」
襟元を掴んでいた手が首に回る。不釣り合いな笑顔を見せつつ、女は腕に力を込めた。
「『リングの主』は、私たちのご主人さまの他にも何人かいるの。私がご主人さまに仕え始めてからだけでも、もう五人 抹殺したわ。この世に『リングの主』は十人はいない。もうすぐ『主』は、私のご主人さまだけになるのよ」
何を言っているのか、さっぱり分からない。ただ分かるのは、トトの命だけでなく自分の命も危機にさらされているということだけだ。怖くて思考回路も動かない。
「そんなこた知らねぇ、ルーアを放しな!」
しまった。背中に何かを押し当てられた感触で、デタスコはこの娘の連れの存在を思い出した。……いや、忘れていても構わないはずだった。
「何のためにあなたを連れてきたと思ってるのよ!」
今日から無理やり組ませた相棒に、デタスコが呼びかける。と同時に、部屋にかまいたちが放たれた。デタスコさえも巻き込んでいたるところに真空の刃を乱舞させる。
「いやあっ!!」
女の手からは逃れることができたが、さすがにこんな無差別攻撃は避けようがない。少しでも真空の刃を逃れるべくしゃがみ込む。その直後に、覆い被さるように影が差した。
(……香り草の匂いがする)
マグナのマントの中だと気づいたのは その少し後だった。マントの下の服は、何となく昼間に見た青年の格好に似て思える。予想していたよりも、マグナは細身だった。
「ルーア、これ持ってじっとしてろ!」
一枚のレリーフをルーアに押し付けると、唐突にマグナは立ち上がった。
女には目もくれず、真っ直ぐに後から参上した女の相棒に歩み寄る
「メイムを失って そこまで堕ちたか、ヴァルヤ」
マグナの言葉に驚いて ルーアも彼を見やった。肌の色、頬の刺青、変わった装飾品……間違いない、昼間のセクシーなお兄さんだ。
「何、知り合いなの?」
「俺は知ってるけど、さてヴァルヤは知ってるかどうか」
その言葉通り、ヴァルヤという青年は怪訝そうな顔をしていた。
「ヴァルヤ、心当たりは?」
興味からか、女もヴァルヤに問いかけた。しかし 声だけでは、ヴァルヤには やはり分からない。
「こんな男なんぞ知るか。貴様、何者だ!?」
その場にいる全員が注目している。それでもマグナは、名乗りを上げようとはしなかった。
「教えない」
きっぱりと、マグナは言い切った。遂に痺れを切らし、女がナイフを取り出す。
「……もういいわ。『エフ使い』は この次 始末するとして、さっさとこの娘を片付けなくちゃ。ヴァルヤはそのおじさんをお願いね」
「了解」
じり、とその手にナイフをちらつかせながら、女は近づいてくる。胸の前にレリーフを構えながら、ルーアもじりじりと後ずさった。
とん。背中が壁に当たる。じっとしていろとマグナは言ったが、このままではマズイ。頼みのマグナは、というと ヴァルヤの相手にいっぱいいっぱいだ。どちらかと言うと マグナの方も押されている。喉元に、女のナイフが滑り込んだ その時だった。
「烈破溶岩!」
ヴァルヤに組み伏せられ 自分が思いっきりピンチであるにも関わらず、ルーアたちの様子を察すると、マグナは声を張り上げた。
マグナの声に反応してレリーフが砕け、中から小規模な爆発が巻き起こる。
爆発はルーアには傷一つ付けなかったが、その正面にいた女ごと窓際の壁をぶち抜いた。
「しまった、やり過ぎちった……」
たった今できた ガラスのはまっていない巨大な丸窓に、しばらくルーアもヴァルヤも呆気にとられていた。が、先にヴァルヤが我に返る。
ヴァルヤはマグナの胸ぐらを引っ掴み、確信を持ちながらも声を潜めて問いただした。
「貴様、呪族だな!?」
「今の見りゃ分かるだろ」
ふと 鼻をかすめる香り草の匂いに気付く。ヴァルヤの中に新たな疑問が生じた。
だが、これ以上 この男を詰問している暇もない。外で爆音に叩き起こされた人々が騒ぎ始めた。乱暴に男を突き飛ばすと、余計な人間が駆けつける前に ヴァルヤはその場を後にした。この際 デタスコのことはどうでもいい。
駆けつけた宿のオーナーに 深いところは端折ったが、ありのままに話しておいた。
「ごめんなさい」
「すみません」
深々と頭を下げるルーアとマグナを、宿のオーナーは何故か咎めなかった。
「事情は別の人から聞いていたわ。損害賠償もあなたたちが泊まる時点で受け取っているから、心配しないで。……あの男の子も、彼女と一緒にいるわよ」
「彼女!?」
マグナと全く同じタイミングで、訊き返してしまった。
「あれ、ルーアは男の人って言ってたよな?」
「んーでも分かんない。顔も格好も隠してたから。口調から男だと判断したけど……」
さらに親切に、オーナーは別の部屋を貸してくれた。『彼女』は一体、いくら払ってくれたのだろうか。こんな見ず知らずの、半バラ人一行なんかのために。
「お嬢ちゃんは先に部屋に戻ったほうがいいわ。あなたはちょっと待ってて」
ルーアだけを別の部屋に案内し、オーナーはマグナをそこに残らせた。ルーアの前では何も言われなかったが、やはり保護者ということで お叱りを受けるのだろうか。
しかしマグナの予想は見事に外れ、オーナーと入れ替わるよう登場したのは ルーアによく似た一人のバラ人だった。しかもマグナは、彼女を知っている。
「あの子を助けてくれてありがとう。お礼、足りなければ もっと用意します」
「ルージュ!?」
突然名前を呼ばれ、ルージュは目を丸くした。
「え、え、あの、どちらさま?」
「俺だよ俺! マグナ!! ……忘れちったか? まだ五年しか経ってねーぞ」
少し辺りを見回し 人の群れがすっかり引いたのを確認してから、マグナはフードと襟巻きを外して素顔を見せた。ここでようやく ルージュも相手を思い出す。
「え、うそ、マグナ!? 全然 分からなかった! どこの親爺だっぺと思ってた」
「お、親爺だっぺ……とな」
けらけらと笑ってから、ルージュは「ところで」と切り出した。
「ところでマグナ。どういう経緯でルーアと一緒に歩くようになったの?」
「いや、今日 会ったばかりだよ。ただ、あんまりアイツがルージュに似てるから、もしかして、とは思ってたけど」
もうずいぶん前になる。まだ呪族の集落にいた頃、ルージュの口から聞いた。娘は東島に置いてきてしまったのだと。
「マグナ、頼みがあるんだ。……あの子を、引き取ってもらいたい」
すぐにはマグナは答えなかった。
「ルーアがおとなしく家にいないで こんな所まで来ているということは、家にいられない何らかの事情があるはず。それが一段落するまでの間でいい。その後でルーアのこれからについては、私が自分で何とかするから」
最後に、本当は自分が傍にいてやりたいのだと、ルージュは言っていた。
マグナが返事をしたのは、それからだった。
「……分かった。ルーアは俺が 面倒見る」
新規に借りた部屋では、ルーアとトトの 安心しきった寝顔が並んでいた。
**
宿屋の庭に植えられた木に引っ掛かり、デタスコは何とか助かっていた。
「やっぱり『エフ』に呼び寄せられた『リングの主』は、一筋縄じゃあいかないわね……」
「悪い、途中で切り上げた」
いつの間にか、木の下にヴァルヤが立っていた。
「いいのよ、ヴァルヤ! チャンスはいくらでもあるんだから!」
やってしまった! ヴァルヤの下手くそなサポートをボロクソに叱るつもりだったのに!!
顔を見てしまったのが悪かったのだろうか。タイプの男に甘い自分が情けない。
そんなデタスコの思いなどつゆ知らず、ヴァルヤは珍しく自分から喋りだした。
「デタスコ。俺、あの男を始末するのに専念していいか?」
「おっけー!」
ああっ、またやってしまった!! 自分が先に指示を出さねばならなかったのに!!
どうも声を聞くだけでも調子が狂うらしい。しかし、ヴァルヤがやる気になったのは喜ばしいことだ。一体どうして 突然やる気になったのだろうか。
「何か 気になることでもあったの?」
「ああ。……あの呪族の男、香り草の匂いがした」
それ以上、ヴァルヤが続けることはなかった。宿の明かりの中から人影が駆け寄ってくるのを、見つけたせいもある。「ヴァルヤ、どこ行ってたの?」やはりルージュだ。
「お前こそ どこ行ってたんだよ」
ルージュはにこにこして見せただけで、そのことについて一切 触れなかった。