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不謹慎にも難問を前に喜んでいるらしい。思わず眉を顰めた時だ。
「あの,加賀先輩」
開けっ放しのドアの外から,控えめで小さな声がようやく耳に届く。振り見ると,小柄な女子生徒が台車の取っ手に手をかけ保管庫の中を覗き込んでいた。台車が1台足りないと思ったら外に運び出されていたらしい。幼げな顔立ちの彼女はわたし達の視線を集めたせいか,丸く大きな瞳を伏し目がちにする。
「えと,特集号を運び入れたいんですけど,今大丈夫ですか?」
「あ,真守ちゃん。全然良いよー。っていうかごめんね,急に押しかけた上長くかかっちゃって」
わたしは謝りながら彼女の隣に回り,台車を押す手伝いをする。
というかなんだこれ,結構重い。
その重さに思わず台の上に積まれた3つある段ボールの内一番上を覗くと,中には刷られたばかりの校内新聞が詰め込まれていた。見出しをみると,まさにこの保管庫で起きた不審火についての特集号だった。
真守ちゃん,これだけの量をよく1人でここまで運んでこられたな。
「どこに置いとくの?」
「あ,ありがとうございます。机の上です」
机の前まで台車を動かし,特集号が入った段ボールを机の上に並べる。井上はわたし達が段ボールを上げている間手伝おうとする素振りすら見せず,代わりに特集号を掠めるように1部手に取ると悠々眺め始めた。
何様だお前は? 少しは手伝いやがれ。
「あの,まだ犯人は捕まっていないんですか?」
怯えるように何度か井上に目を配らせながら,真守ちゃんはおずおずと上目使いに問う。一歳しか年は離れていないはずなのだけれど,彼女の145cmもないであろう身長と童顔のせいか,わたしは一回り以上年下の子を相手にするように誤解を解く。
「えっとね,まだこれが放火って決まったわけじゃないの。それに,何か事件を引き起こした生徒に処分を下す権限は学察にはないから,経緯を明らかにして学園に報告するのがわたし達の役割ってことになるのね」
大体,いくら新聞部の部員だからといって捜査状況を学察以外の生徒に漏洩するわけにはいかない。井上のようなケースは飽くまで例外だ。
「この記事は君が書いたのですか?」
不意に,特集号へ目を落としていた井上が記事を示しながらそう言った。真守ちゃんは誰だか分からない男子生徒から急に質問されたせいか,怯えに驚きが混じった表情を浮かべる。戸惑いを見せながら,消え入りそうな声で答えた。
「はい……事件の経緯と,ぼやを引き起こしたんじゃないかって噂されている保管庫の怨霊について書きました」
井上は聞いておきながら「へぇ」とあまり興味のなさそうな声しか返さなかった。よく見ると,井上が指した新聞の末尾には「文責:文化班一年是枝真守」の文字がある。どうやらわたしが真守ちゃんの名前を呼んだことから推測したらしい。
こいつのことだから,名字から是枝部長と彼女の関係は想像できているのだろうけれど,一応補足しておいた方が良いだろう。
「真守ちゃん,学園探偵って知ってる? こいつがその探偵の井上でわたしと同じ2年生,捜査に協力してもらってるの。で,この子は是枝真守ちゃん。是枝部長の妹で,所属は文化班だったよね」
真守ちゃんは噂に聞いたことはあるものの目にしたことのなかった変人との邂逅に,目を丸くしている。彼女がびっくりしている隙に,すかさず井上に耳打ちする。
「この子が,アリバイのない部員の内の1人」
聞こえたのか聞こえなかったのか,井上の表情に変化はない。寧ろ真守ちゃんの方が好奇心を駆られたようだ。幼げな体つきで守りたくなるくらい気弱そうな真守ちゃんだけれど,それでもやはり新聞部の端くれらしい。井上が学園探偵と知るとおどおどした態度が鳴りを潜めて,まっすぐに視線を合わせる。
「学園探偵さんが捜査に乗り出したってことは,そんなに難しい事件ということですか?」
「私が難事件を解く能力に優れているかどうかは各人に判断してもらうしかありません。けれど学察の人が皆賢いと思わない方がいいですよ。実際学察が捜査に乗り出したものの未解決の事件は意外とたくさんありますから。例えば新入生歓迎会費窃盗事件は発生から1か月経ちましたけどまだ犯人の目星はついていませんし」
暗にわたしのことを指しているのだと分かって少し腹が立つけれど,痛いところを突かれたせいで黙るしかなくなる。
学察は実績を残し信頼を勝ち得ているし能力の高い人も多いけれど,それでも解決に至らない事件は少なからずある。井上が指摘した通り,先月発生した新入生歓迎会の会費が盗まれた事件がその解決できない事例の1つだ。まだ迷宮入りしたわけではないし日々全力を挙げて担当の捜査員が解決に向けて奔走しているものの,いかんせんこの保管庫のぼやとは違い,誰にでも犯行が可能だったという状況が捜査を難航させている。
井上は特集号を片手にわたしと真守ちゃんの脇を通り,保管庫の扉を閉めてみせる。
「この保管庫で発生したぼやは意外と限定的です。例えばこのドアを見てください。鍵穴が外側にしかありませんよね。おそらくこの部屋が専ら新聞部の過去の発行物を保管するためのものだからでしょう。つまりこの部屋に入る度に逐一鍵を開ける必要がありますが逆に中から閉じ籠もることは想定されていないということです。仮に何者かが保管庫の中に入り火をつけたとすると密室を作るため犯人は外に出て鍵を掛けたということです。しかし厄介なのは鍵穴が室内側には通じていないため例えば糸や磁石を使って外から鍵を掛けるというトリックは用いにくいでしょう。放火から発見までの時間のなさも考慮すると何らかの方法で鍵を使った可能性が高いですね」
じっくり観察している様子はなかったのに,鍵穴までちゃっかり確認済みらしい。その洞察眼には舌を巻く一方だけれど,もしその通りだとすると状況はより複雑になるのではないだろうか。
真守ちゃんも不思議そうに首を傾げた。
「え? でもそうなると犯行は難しいですよね。鍵はお兄ちゃんと佐々木先生が管理していたから,合鍵を作ることもできませんし」
「ならその2人のどちらかが火を放ったとしか考えられない」
変人はあっさりとそう言い放った。真守ちゃんは誤って指先を紙で切ってしまった時のように身を竦める。
「ちょっと井上!」
確かにその可能性が最も高いとわたし自身考えているけれど,さすがに本人や彼らに親しい人の前でそれを言う捜査員は学察にはいない。それは慮って,というより捜査に支障を来す場合がままあるからだ。けれど井上はわたしの非難を意に介す気配もなく淡々と続ける。
「そもそもアリバイが完璧過ぎるのですよ。不特定多数の者に犯行が可能であるならともかく2人にしか自由に出入りできない部屋で火の手が起こった。その2人に堅固なアリバイがある。しかも是枝部長に関しては鍵の入ったキーケースまで確認済みです。これは少々彼にとって都合が良過ぎます」
「フィクションならともかく現実にはいくつもの偶然が重なって,運よくアリバイが固まってしまう場合もあるでしょう? あんた穿ち過ぎじゃないの!?」
断定的な口調に思わず糾弾するような口調になってしまう。けれど青ざめて両腕を胸に抱き込む真守ちゃんを見れば,どうしても庇わずにはいられなかった。
「その偶然が重なり過ぎているのですよ。私が言っているのはキーケースを確認しているのが是枝部長と協力関係になりそうもない報道部の人間であるということです。こうなると敢えて部内に争いが起こるような任命を断行したとも考えられます。動機が一見不明瞭であるのも今回の事件を目眩ましに今後も事件を起こすつもりだからかもしれません」
「お兄ちゃんはそんな人じゃありません!!」
目にいっぱいの涙を湛えて,真守ちゃんが叫んだ。
一体,この小さな体のどこにそんな力があるのだろう。
懸命な反駁に,呆然とそんな感想が過る。そのくらい,大きな声だった。扉はさっき閉じられたけれど,ひょっとすると外にも漏れていたかもしれない。
けれどそんな体裁に気を配る余裕がないくらい,わたしは驚いていた。真守ちゃんに,こんなにも大きな声で叫ぶことができるとは思っていなかったからだ。それは身体的にという意味ではなく,心理面においてだ。
譬え理不尽に責められても異を唱えられず俯く。捜査を通じて話を聞いている内に彼女はそういう,か弱くて繊細でかわいらしい,守られるだけの女の子だという印象が出来上がっていた。だからこそこの懸命の叫び声に,その潤んだ瞳に振り絞った勇気を見つけてはッと息を呑む。
井上は長い間黙り込んだままだった。
さすがの変人も思いがけず年下の女の子を追い詰めて,自責の念に駆られているのだろうか。わたしがそう思った時,井上は徐に口を開いた。
「そうですね。本人に会ってもいない内に断定するようなことを言ってはいけませんね。私としたことが事件を解決するという使命感に駆られて人間らしい温かみというものを忘れていたのかもしれません」
あ?
まるで心にも思ってもいないであろう御託を,気恥ずかしがることなくぺらぺらと並べ立てやがった。というか,さっきと言っていることが180度違っている。今にも泣き出しそうだった真守ちゃんも別人のように殊勝顔をしてみせる井上に,呆気に取られている様子だ。
わたし達の反応など目も呉れず,厚顔にも井上は続ける。
「是枝顧寄部長の人格に私も触れる必要があるようですね。彼に話を聞く機会を手配してもらえますか?」
「ってわたし!?」
「当たり前でしょう。先程庇うようなことを言っていましたし何よりそのために学察から派遣されてきたのでしょう?」
いけしゃあしゃあというのはこのことか。というかひょっとして,言質を取るため態と挑発するようなことを言ったのだろうか。
人の気持ちを弄ぶような言動にわたしが怒りを覚えるよりも先に「ついでにアリバイのない他の2人とも対面できるよう手配しておいてください」と言い残すと,井上は逃げるように保管庫を出て行った。
嵐のように乱れた空気の中,真守ちゃんが困ったように呟く。
「……あの人,何を考えているんでしょうか」
……わたしも知りたいよ。