12
7月24日木曜日,15時45分。
既に学園は夏期休暇に突入しているせいか,只でさえ人気の少ないB棟1階には全く喧騒が聞こえてこない。
いわゆる夏休みと雖も,授業スピードが「学察が取り締まることのできない唯一にして最悪の犯罪」と評されるこの学園では,当たり前のように全生徒を対象に補習授業という名の1学期延長戦が催される。生徒の暴動を避けるためだろうか,一応補習は1コマ50分でしかも午前中のみという良心的カリキュラムが組まれており,これを堪え凌いだ下級生の半数近くはかんかんと夏の午後の日差しに晒されながら帰宅の途に就くことができる。
しかし受験戦線で鎬を削っている3年生のほとんどは終業式以前と変わらず22時頃まで自習に明け暮れるし,部活動に所属している場合その部が強豪であればあるほど居残る頻度と時間は増加していくため,夏休みに突入したことを実感できない生徒が多勢を占める。寧ろ授業と違って一定時間が経過してもそれから解放されるということがないから,彼らにとって夏休みという響きは地獄から轟く阿鼻叫喚のようなものなのかもしれない。ここまで喧騒が聞こえてこないのは生徒の校内での移動が少ないせいか,あるいはあまりの過労で仮死状態に陥っているからだろう。
その点で言っても学察は優良な組織だ。生徒数が半減するため,当直の捜査員以外は顔を出さずに済むのだから。今本部は精々3課併せても精々10人弱が暇を持て余している程度で閑散としているに違いない。終業式直前まで折衝に追われていた分,少しくらい羽を休めても罰は当たるまい。
それも平の捜査員の話で,課長級以上はやはり休めないのだけれど。
頭の隅でそんなことを思いつつ,ようやく報告書を読み終えた俺は対面に座る人物に目を向けた。
「結局,お前の睨んだ通りだったってことか」
「私には自らの功績をひけらかす趣味はありません。あくまで大まかには予測と合致するというレベルです。多少ずれはありましたがそれも誤差範囲でしょう。その程度で済んだのも時田さんのご協力があったからですし」
と,井上はあくまでも顔色を変えないまま平坦に遜る。謙遜された方はしかし,無表情のせいでそれが本心でないことは明らかで,そこからはやはり慇懃無礼な印象しか受け取ることができない。
俺と井上がテーブルを挟んで座っている場所は応接室の手前にある会議室だ。テーブル以外には過去の事件資料とパイプ椅子くらいしか置かれていないこの部屋は,実のところほとんど使われることがない。各課における連絡・会議は本部でなされるし,課長級以上が収集される時は学察長室が利用される。もっと言えば3課の奇人連中は2階の科学分析室に閉じ籠もり階下に降りてくることは滅多にないし,1,2課にしたってデスクワークの時くらいしか本部には来ないのだけれど。
だからこそ,井上はここまで足を運んだのだと言える。夏休みに入って人気が更に少なくなった状況で,その上用心してこの場所を指定する辺りにこいつの慎重さというか,臆病さが伺える。それだけこのコネクションは重要機密だということだし,今回のように効力を発揮している以上文句を言うつもりはないが。
報告書に載せた指先の冷たさから,冷房の効きが強過ぎることを悟る。多分設定温度下げたのはあの2課の熱血野郎だ。冬でさえ体育の時ジャージを着ない主義の彼の暑苦しさは夏でこそ真価を発揮する。ここ10年で上昇した地球の平均気温の内,少なく見積もっても2%は彼に責任があるだろう。態々席を立つのが億劫だったので,少々の肌寒さは我慢することにしてそのまま疑問を投げかける。
「だけど意外だったな,お前が朝霧を庇うなんて」
ちらりと,廊下側の窓を見遣る。ここではほんの5分程前まで,捜査員という身分でありながら学察崩壊という恐るべきシナリオを実行に移していた朝霧の処遇を巡る会議が開かれていた。出席者は学察長と各課の課長のみ。本来なら井上は出席しない予定だったのだが,当事者であり一連の事件を正確に把握していることから,今回は例外として参与することとなった。
当然ながら場の意見は捜査員資格の剥奪と職員会への報告という流れに傾いた。職員会へ報告した場合,朝霧は十中八九退学処分に科せられるだろう。考えられうる限り最も重い処罰であるが,多少動機に同情の余地はあれどあまりにも引き起こした事件が悪質だったからだ。
幸い本格的に学察の基盤が揺るがない内にその根源を見つけることができたのだから,内々に処罰するのが組織運営としては定石ではある。こうした政治的な議題に普段無関心の3課の課長でさえ,夏休み中に処分を下しておくと休み明け以降の影響が少なくて済むと発言し議場をどよめかせたほどだ。
特に強硬な立場に立ったのが2課の課長だ。彼の主張は情報を悪用していた以上捜査員資格の剥奪は当然だが,動機が根深く一般生徒の立場でも学察の転覆を画策する可能性が否定できない限り退学処分もやむ得ないというものだった。あの熱血野郎は正義感が強過ぎて感情的になる嫌いがあるが,職員会への報告には反対していた俺でさえ一瞬納得しかけたくらい今回は筋が通っていた。
結局3課の課長は棄権したものの,流れとしては職員会への報告賛成派が勢いを増していた。そんな中,朝霧に最早学察崩壊を企図するだけの動機がないと主張したのが井上だったのだ。
「別に庇ったわけではありません。姉を助けていただいた借りを返しただけです」
「そうか」
無表情を堅持する井上が,却って向きになって否定する子供のように見えてしまい,俺は悟られないよう笑いを噛み殺すことに骨を折った。嘗ての井上なら「客観的な意見を述べただけです」とかなんとか言っていたはずだ。
井上が朝霧の擁護に回ったことで,職員会への密告に対する賛成派と反対派が同数となった。しかしそれはあくまで表面的に頭数だけを数えた場合の話に過ぎない。棄権した3課の課長は反対派寄りのようだし,動機がないという井上の主張には確固たる根拠がないからだ。その結果遅くとも14時には終了する予定だった会議が大きく後方へずれ込むことになったというわけだ。
「しかし,よくもまあ次から次に口から出任せを言えたもんだ」
「何のことです?」
これで毅然を装えているつもりらしい。俺は失笑しそうになるのを堪えながら報告書を捲った。問題の記述を見つけると,ページを開けたまま報告書を井上の方に向けて机の上を滑らせる。
「とぼけるなよ。容疑確定後の抗弁機会の制度化と,事件関係者の匿名性担保が神蔵先輩の発案だってことに決まってる。俺の記憶が確かなら,この2点の発案者はお前だったはずだが?」
俺は差して派手な功績を上げているわけではないけれど,中等部に入学して以降学察に身を置いている分,場数だけはそこそこ踏んでいるつもりだ。つまり,松羽島学園焚書事件の推移をリアルタイムで知っている古参の1人だということ。だから事件後神蔵先輩が辿った経緯も知っているし,その発案に基づいて井上先輩が行った改革も目の当たりにしている。
井上先輩は確かに神蔵先輩の素案を参考にしていたらしいが,実行した改革はあくまで2課の設立までだ。そもそも神蔵先輩の案に抗弁機会の制度化と事件関係者の匿名性担保は含まれていなかったし,ましてや学園理事長にこれを確約させてなどいない。先輩による急進的な改革を基盤として密かにこれらの制度化を推し進めているのは誰あらん,その弟であるこの男だ。
元々1年生ながら要職に就いた井上のことを快く思わない連中もいたのだが,その姉であり反感の原因でもある井上先輩が卒業して間もない時期だったせいか,去年の1学期反対勢力はすっかり気を緩めていたようだった。さすがにいくら大型新人と雖も,課長に就任したばかりの身で突飛な行動は仕出かさないだろうという極めて常識的な判断を下していたのだろう。
ただ,常識が通じない相手にその思考は致命的だった。確かに井上は3課がある程度実績を重ね,他の課の捜査員から信用を得るまでは大人しくしていた。機が熟すのを待ち,学察の3課への依存度が十分に高まったと判断したのがちょうど1年前。下手に混乱を拡大させないためだろう,夏休みに突入後学察長と課長達を招集して漸進的ではあるが更なる改革を提案したのだ。
当時の学察上層部は反井上姉弟勢力が主権を握っていた。学察長と1課の課長は先輩の改革に辛酸を嘗めてきたから,当然この提案には断固として反対の姿勢を示した。当時2課の課長だった俺は捜査員・一般生徒への周知を図るため完遂に最低5年以上を費やすことを条件に賛成へ回った。
数の上では賛成反対が同数であるが,やはりこの時も権力関係で言えば階級が1つ上の学察長がいる反対派の方が有利だった。しかも学察設立時からの歴史を持つ1課と,ようやく設置から2年を経た2課や運営が始まったばかりの3課とでは,前者の方が一般生徒と職員からの覚えは遥かにいい。
反対派は会議の途中までは,この提案の棄却を確信してほくそ笑んでいたかもしれない。しかし意見が出尽くした時,井上は隠し持っていた切り札を切った。生徒会や各委員会の会長から賛同を取り付けていることを明かしたのだ。
改革を提案して議場でのみ採決を取った場合,反対派が多数を占めるだろう。よしんば賛否同数となったとしても力関係から棄却されてしまう公算が大きい。それなら,学察外部に賛同者を募ればいい。
それが井上の発想だった。1学期の間見かけ上大人しくしている振りをして,水面下で賛同を取り付けるべく暗躍していたらしい。学察の過度な権力拡大は予てより内外を問わず問題視されており,井上の提案はその懸念に沿うものだったため,各会長からの賛同取り付けは難しいものではなかっただろう。加えて言えば,先輩による学察権力の拡大に強硬な反対姿勢を取っていた学察長と1課の課長は,外部組織と足並みを揃えなければ自己矛盾に陥ってしまう。
最終的に提案は受け入れられ,現在は各関係組織と改革内容を調整すると共に,学察内でその実現に向けた準備を進めている段階である。具体的な方針すら定まっていないためこの改革案を知っているのは学察では課長級以上,外部では各組織の会長のみ。
つまり,学園理事長に改革を確約させたという朝霧への説明は真っ赤な嘘。こいつお得意の舌先三寸を駆使したブラフだ。