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「被害生徒の名前は井上円。高等部入学後学察に入り改革を断行した結果2課を新設,その初代課長を経た後学察初の女性学察長にまで上り詰め3課の創設にも関わった彼女は,私の姉です」
「「……はああぁっ!?」」
期せずして,智佳と驚嘆の声がハモってしまった。その上井上が初めて読点を打ったような気もするけれど,そんな気まずさや驚きを吹き飛ばしてしまうだけの衝撃的な発言だ。シリアスな心境に浸っている場合じゃない。
「ちょっと待って......ちょっと待て! あんたのお姉さんがその被害生徒だってことにもびっくりなんだけれど……学察初の女性学察長って聞いていないんだけど?」
「でしょうね。言ってませんから」
「でしょうねって,何で言わなかったわけ?」
「聞かれなかったからです」
「あーっもう,だからそういうことじゃなくてぇっ!」
淡々と応じる井上の態度に痺れを切らしたのか,がしがしと智佳は両手で頭を掻き毟る。わたしはというと対照的に,ようやく思考回路が平常運行に復帰すると同時に冷静さを取り戻し始めていた。
「そっか,1年生ながら課長に就任できたのも前学察長であるお姉さんからの推薦があったからなんだ」
「そうだよそれ! わたしが学察に入るきっかけはあんたら姉弟なんだけど! つーかあんたみたいなやつに憧れていたなんて認めたくねぇ!」
「そうですか? 私としては結構面白かったのですが。時田さんから加賀さんが容疑者となった昨年の事件の概要は聞いていましたし」
「ぎゃーっ,言うな止めれ! 恥ずかしいっ!」
「この人多分あの事件がきっかけで学察に入ったんだよなーとか憧れの人物の前で知らず知らずの内に稚拙な推理を披露していることを知ったらどう思うだろうとか考えながら内心ずっとにやにやしていました」
「本っ当にあんた性格悪いわね!」
耳まで真っ赤にして,智佳は井上を睨め掛いた。その表情にはさっきまでの深刻さが微塵も見受けられない。いつの間にかギャグパートに移行してしまっていたらしい。すっかり気分が白けてしまった。
それとも,この肩透かしこそを狙っていたのだろうか。焦りを覚えつつ自らを奮い立たせるため,井上を見る目に険を込める。
「被害生徒が井上君のお姉さんだってことは分かった。でも,だから何? 兄さんが庇った被害生徒が創った組織だから見逃せって言うの?」
姉がその被害生徒であったということは,井上はおそらく兄さんが自ら罪を被ったことを聞かされていたのだろう。彼が学察に入ったのもそれが理由かもしれないし,辞めた後も捜査に協力し続けているのもそうした事情があったからかもしれない。
その姉というのが何を考えて改革を断行したのかは知らないけれど,仮に井上がその理念に共感していたとしても,智佳のように学察を盲信している捜査員と然程大差があるわけでもない。罪悪感からわたしを止めようとしているのならお門違いだ。わたしは別に,庇われた挙句それを大っぴらにせず学察長にまで上り詰めたからといって井上の姉を憎む気持ちはない。許せないのはあくまでわたしのような思いを生徒にさせかねない学察の体制だ。寧ろ罪悪感や同情を覚えられていると思うとそのことに腹が立つし,そんな感情で創られた学察を一層壊したくなる。
しかし,井上は緩やかに首を振った。
「いいえ。先程も言いましたが現行の学察体制の構想を練ったのは神蔵さんで姉はそれを忠実に再現しようとしていた実行役に過ぎません。元々神蔵さんは高等部進学後姉が行った改革を実行するつもりだったようです」
「えっ……兄さんが?」
「だから言うなれば姉は高等部に進学できなかった彼の代役を務めただけです。神蔵さんが改革を通して実現したかったのは生徒に寄り添う学察でした。その核となるのが2課の創設・容疑確定後の抗弁機会の制度化・事件関係者の匿名性担保の3つでした。残念ながら姉は在学中改革を完遂することはできませんでしたが長期間に亘っての緩やかな機構再編を学園理事長に確約させています」
「嘘。そんな話,全然聞いたことない」
「でしょうね。学察でも課長以上の者にしか知らされていないトップシークレットですから。しかしながらこれらの核に裏打ちされた改変は今も進められています。例えば3課が設置されたのは客観性の高い科学的物証に基づくことで捜査の妥当性を擁立するためのものです。また捜査情報の厳格な管理も被害者はもちろん事件を起こした生徒を特定させず職員会による秘密裏の処罰を下す制度を立ち上げるための下準備です。つまり今でも神蔵さんの改革は続いている」
わたしが学察を失くすことで学察の犠牲者を出さないことを目指していたように,兄さんはより制度を拡充することで生徒を守ろうとしていた?
いや,とても同列に語ることはできない。学察を解体した場合,容疑を向けられることによる生徒への過剰な社会的圧力もなくすことができる。事件への対応やそれを起こした生徒への対応は職員会や生徒会に任せることになる。それは学察が存在しなかった,他の多くの学校と同じ状況に学園を戻すということだ。でもそれは,依然として冤罪が生まれる余地があることを意味する。
生徒による杜撰な捜査で容疑を確定するくらいなら,全ての対応を教員に一任することがマシだと考えていたわたしはそれでも構わなかった。実際,学察という組織を擁するこの学園が異常で,普通は経過の把握から処罰までを教員が担うものなのだから。
だけど本当に教員による裁断が妥当なのだろうか。生徒による脅迫に屈するような人間もいれば,お飾りであることを甘受して学園の現状を詳しく知ろうとはしない者もいるのに。生徒が保護されないという意味ではあまり変わりがない。
それに比べると兄さんのやり方は確かに建設的ではある。もし本当に全ての改革が成し遂げられれば,完全には冤罪を失くすことはできないだろうし,不確定な要素も多いから実際に制度を機能させてみないと分からないけれど,それでも現在の問題点を解消・改善することができるかもしれない。事件を引き起こしたことに対する過剰な圧力から,生徒を守ることができる可能性がある。
理想論だ,この改革が成し遂げられるとは限らないし新制度に転換したからこそ生じる問題もあるだろうし,その場合結局イタチごっこじゃないか。
そんな風に頭の片隅で囁く声が聞こえたけれど,一度立ち止まってしまうとそこから先には足を踏み出せそうになかった。仮にも1年半近く学察に籍を置いてきた以上,事件関係者の不安や教員の頼りなさ,容疑生徒のやるせなさと捜査員の歯痒さが身に染みて分かるからだ。中等部ながら学察のエースとしてわたし以上に多くの場数を踏み,葛藤を乗り越えてきただろう兄さんの理念を知ってしまった今,自分の計画が酷く幼稚なものに思えた。クラスに嫌いなやつがいるから学校を燃やしちゃえ。そう考える小学生のような頑是なさだ。
井上は脈絡なく,呟くように口を動かした。
「姉はある時あまりにも自分のことを気に掛ける神蔵さんを不思議に思って聞いたそうです。いくら優しくしたところで置かれた状況が改善するわけではない。根本的な解決にはならないのにどうしてそこまで自分に関わるのかと。神蔵さんは何と応えたと思います?」
唐突な問いに,戸惑いつつも頭を振った。すると井上は,ふっと柔らかく口許を綻ばせた。
「『確かに優しさで人は救われないかもしれない。でも,優しさで人の想いは報われる。そのために学察は存在すると僕は信じる』そう応えたそうです」
刹那の意識の空白の後,笑い出したい気持ちがふつふつと込み上げてくる。
全く,どこまでお人好しであれば気が済むのだろう。兄さんらしいと言えば兄さんらしい言葉ではあるけれど,少しは巻き込まれる側のことも考えてほしいものだ。
ふと,物理学教室の窓の向こうの景色が目に付く。見上げた空は高く蒼く澄んでいて,堆い入道雲がいつの間にか東へと抜けていた。その背を燦々と夏の陽光が照らしている。やはりその清爽はどこか恨めしい。
声に出さず,口だけを動かして文句を言ってみた。
好い加減にしてよ,ばか兄貴。