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それほど大きくはないその電子音にわたしは思わず後退りする。多分戸棚を開くと留め具が外れる仕掛けになっていたんだ。詳しく確認する暇はなかったが,ちらりとドア・アラームのようなものが視界の隅に入る。
とにかくこの場を今すぐ離れなければいけない。電子音はものの5秒ほどで消えたけれど戸棚を開け放したままわたしは踵をめぐらす。
しかし反転しただけで,1歩でさえも足を前に進めることはできなかった。
「やはりあなたが犯人だったのですね」
振り返った視線の先に井上がいたのだ。
彼はいつの間にか開かれた扉の向こうに,わたしの行く手を阻むように立っている。物理学教室の明るさに順応していたわたしの目には逆光のせいでその顔が見えなかったけれど,彼がいつも通りの無表情を浮かべていることだけは声の調子で分かった。
ちくしょう……っ,ハメられた。
明順応と悪態を内心に抑え込むための時間を稼ぎながら,わたしは戦略を練る。とにかくこの場を乗り切らなければならない。一度目を閉じた後,さも誤解を払拭したいかのように手を振って見せた。
「ちょっと待って,一体何のこと? わたしは,4月の歓迎会費窃盗事件を調べている内に川端先生からリストの話を聞いて,ただそれを探していただけだよ? 確かに許可も取らないで勝手に見ようとしたことは悪いと思ったけど,でも先月の事件以降連絡の取り様がなかったから。事件について相談しようとしたんだけど,休み時間も放課後もほとんどここにも教室にもいなかったでしょ?」
「その態度を堅持することが徒労であることは良く分かっているはずです。あなたなら言われなくとも私が川端先生にリストの話をするよう頼んでいたことに気付いているのでしょう?」
端から聞く耳を持つつもりはないらしい。井上は構わず室内に入ると,実験台の合間を縫って教室の中央を縦断する。
「推理小説というジャンルにおいては誕生以来様々なトリックが編み出されてきましたが心理学的観点から見るとその多くが人間の思い込みを利用していると言えるでしょう。例えば同じ文章を繰り返し呈示することでそこを区切りとして事件の始まりあるいは終息を知らせることができると同時に語り手の安定性を暗示することができます。これは古典的条件付けにおいて対刺激の条件刺激に対する同時性ではなく予報性により条件反射が引き起こされるという現象に類似しています」
井上の垂れる講釈とそれに併せてリズムを刻む彼の足音だけが,まるで周囲から切り離されたように静かな物理学教室に聞こえる。
「しかしながらこの安定性は書き手によって明言されたものではなく読み手の推論に基づくものに過ぎません。つまり語り手に何を語らせるかはもちろん延いては誰に語らせるかということも作者に委ねられているということです。情報を文字のみを介して伝えるメディアである小説おいて1人称の語り手は信頼に足り得ないということは少しばかり推理小説を読み漁った経験のある人であれば経験的にこの原理を確立していることでしょう。特に英米文学などの学問領域ではこれを『信頼できない語り手』と呼んでいます」
学園探偵が講釈を垂れ始めた時,それがいわば推理小説における謎解きの始まりであることをわたしは知っている。一度彼のペースに引き込まれてしまうと言い逃れの芽を全て摘み取られてしまうことは重々分かっているのに,それでもわたしは抗弁することができなかった。
井上の後に続いて扉の向こうに姿を現した人物に,すっかり意識を奪われてしまったからだ。
「ある程度推理小説の読書体験が豊富な読者はこのような手法を初め確立されたトリックを熟知していますがだからといって必ずしも常に書き手の外連を看破することができるとは限りません。何故なら人がある情報を解釈する時必ず何らかの観点に立脚する必要があるからです。日常的なコミュニケーション場面において人は原則的に相手から呈示された情報を疑うことなく真実として受け入れる傾向があることが分かっています。これを真実性バイアスと言います。これは一々全ての情報を疑ってかかるより本当のことであると判断して行動した方が適応的だからだと考えられています。たった1つの欺瞞を見抜くため真実を述べている100人を疑っていては寧ろ自分の人格を疑われてしまいますからね。また確証バイアスと言って何かを疑ってかかる時その疑いに反する情報よりも支持する情報に意識が向き易いというバイアスも存在します。このようなバイアスは推理小説を読む時だけでなく日々の生活においてももちろん我々の判断に影響を及ぼしています」
扉の向こうからわたしを見る智佳は,今にも泣き出しそうな顔をしていた。
その表情に,きゅっと喉が締め付けられる。彼女をここに連れてきた井上が酷く恨めしい。こんな顔を見たくなかったから,突き放したというのに。
「こうしたバイアスが働くような一連の事件を引き起こしていた黒幕はあなたですよね。朝霧梓さん」