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それから約3時間後。
上履きとリノリウムの床とが擦れて立てるきゅ,きゅという足音を気にしながら,わたしはC棟5階の廊下に踏み入った。さすがに7月に入ったからか放課後のこの時間帯といえどもかんかんと日差しが降り注ぎ,窓の向こうには高く澄みきった青空を望める。それだけでわたしは外に出る気力が削がれるのだけれど,信じられないことに陽炎の立ち昇る中学園の外周で走り込みを行っている野球部員の姿が正門の奥に見えた。
正門の手前は煉瓦張りの広場で,そこには花壇や噴水,ベンチなどが設けられている。オープンスクールの際に放送する学園の紹介ビデオは9割方この公園のような景観から始まるのだけれど,日差しを遮るものがないせいかこの時期この場所で足を止める生徒は皆無だ。寧ろ日中赤外線をたっぷりと照射された煉瓦がまるで鉄板のように放射熱を発しているから,自然ここを通り過ぎる者の足運びは忙しなくなる。
現に今ちらほら下校しているらしい生徒の影が見えるけれど,そのいずれもがうだるような暑さに俯いて肩を落としている。この距離からは確認できないけれど,きっと滴り落ちた汗が蝸牛のような彼らの足跡を残しているはずだ。
高度と温度のせいで意識が朦朧とし,宙に飛び出したくなってしまう衝動を振り払い,わたしは視線を廊下へと戻した。廊下は真っ直ぐに突き当りまで伸びると,そこから左右に渡り廊下へと展開している。左がE棟で右がD棟だ。突き当りの壁面約120cmの高さに窓があるのだけれど,風通しを良くするためか今その窓は開かれている。その向こうにもやはり恨めしくなるくらい,深く濃く蒼い空間色が広がる。
やにわに,ふわりと夕風が吹いて肩口にかかる髪が靡く。首筋に籠った熱を掠め去って行った。
あるいは,時つ風だったのかもしれない。
そんなことを考えつつわたしはこの階の中央に位置する教室の扉の前に立つ。室名札を見上げると「物理学教室」という無機質な文字が見えた。
物理学教室はこれまで同様,磨りガラスの窓も扉もまるで訪問を拒むようにぴしゃりと閉じられているため中の様子は窺えない。が,照明が点いていないようだから,おそらく今日もあの探偵は出払っているのだろう。試しに準備室の方に視線を向けてみるが,やはりそこの宿主がいないせいか同じように閉ざされた窓の向こうに黒々とカーテンが犇めき合っている。
しかし,彼らがいないことは予め織り込み済みだ。この学園では理系科目も教室で教えるため特別教室に生徒が近寄ることは滅多にないのだけれど,それでもわたしはもう一度辺りを見回してから扉を開けた。
物理学教室の空気は少しだけひんやりと涼しく感じられた。照明が点いていないとはいえ,廊下とは反対側の窓に目を向けるとカーテンは開けられその向こうには中庭の景色が臨めるくらいの光量があるため,わたしはそれに不思議を打つ。外気に晒されていたせいだろうか。
通りかかった生徒に中を覗き込まれることがないよう扉を閉め,誰もいない教室を奥の方へ進む。
一先ず,室内の様子を観察しながら教壇の方へ歩くことにした。授業から解放された生徒たちの喧騒はここまで届かないらしく,自分の足音がいやに大きく聞こえる。
わたしが昼休みに川端先生に聞き込みをしたばかりだというのに,放課後押っ取り刀でここに来たのにはもちろん理由がある。井上が事件に関して気付いていることを突き止めるためだ。
当人に接触して聞き出すのが最も確実な方法だとは思うけれど,どうにも彼は先月の事件以降わたしを避けている節がある。同じく事件を調べる立場にあるのだからわたしとしては協力関係を築きたいのだけれど,向こうにその気がないのであれば手段を選んではいられない。譬え無断でこの場所へ忍び込んででも情報を手に入れる必要がある。
今わたしが置かれている立場を考えると,悠長に構えている余裕はないのだ。
教卓の中から調べてみようか。
そんなことを考えつつ教壇の前まで進み出た時,ふと教室両端に設置されている戸棚が目に付いた。
高さは大体わたしの腰くらい。開き戸の扉が付いているため中に何が収められているのかは確認できない。材質は扉を含め多分メラミンだ。作りを見ると高校の設備にしてはしっかりしていて,ちょっとした大学の研究室にあっても不思議ではないくらい。棚の上には滑走台やら音叉,オシロスコープなどの実験器具が並んでいる。授業での利用頻度がほぼないに等しいのにこれだけの器具を揃える必要があるのか甚だ疑問であるが,コイルや分光計など見当たらないものもあり,それらは棚の中に納められているのだろうと推測できた。
だからこそ,井上がここに事件の資料を保管している可能性はないだろうか。
捜査に際し集まる情報は膨大だ。一々それら全てを記憶していたら事件解決には年単位で時間を要することになる。だから学察では,周辺情報は可能な限りデータ化し本部のパソコンで厳重に管理している。もちろん,記憶媒体による外部への持ち出しは原則禁止だ。どうしてもデータ化の難しい資料は事件担当者が鍵の掛けられる自分のデスクの引き出しで保管するか,同じく鍵の掛けられる戸棚で保管することが義務付けられている。
学園探偵にしたって,情報の管理には注意しているはずだ。機密性の高い資料は第3者が目にすることができるような形で残してはおかないだろうけれど,そうでない資料は存外彼の捜査の拠点であるこの教室で保管していた方が便利なのではないだろうか。例えば歓迎会費の未納者リストだって,事件に関係ない生徒にしてみれば何の価値もないのだ。井上が不在の時に一般生徒がここへ侵入するケースを想定していたとしても,実験器具が入っていると目されるこの戸棚に川端先生からもらったリストをそのまま入れている可能性だって全くないというわけではないだろう。
どうせ駄目で元々だ。どの道教卓の後にでも確認することになっただろうから,その順番が逆になったところで問題ない。
そう考えてわたしは戸棚へと歩み寄った。それから取っ手に手をかけて,戸棚の扉を開く。
軽い抵抗と共に何かが棚の中から弾け飛んできて,同時に「ピー」と甲高い電子音が響く。
しまったっ!




