10
えっ。
声とすら呼べない,吐息のような音が宇尾野の口から洩れた。
「加賀さんにアリバイがあった場合,つまり柳町さんの当初の想定では容疑者となるのはあなたのはずでした。そりゃそうですよね,立場を笠に着て普段から都合の良いように使い走りにしているわけですから,柳町さんに対する嫌がらせの一環として犯行に及んだと考えるのはそこまで不自然なことではありません。柳町さんが財布を盗まれたように偽装したしたのもそのためです」
因みに,財布が盗まれたことは柳町さんが犯人であることの傍証にもなりますが。時田さんの付け加えを,わたしはほとんど聞き流していた。わたしが教室に戻って来た時,眼鏡と宇尾野の間のやりとりを思い起こしていたからだ。
「宇尾野さんが最有力の容疑者となれば,普段の使い走りも多少は治まるかもしれません。それに疑われている宇尾野さんを庇うことで恩を売ることもできますし,柳町さんに対する周囲からの評価も上向いたでしょうね。『普段酷い扱いをされているのになんて健気なんだ』と。しかし何より,容疑者扱いされることによる精神的苦痛を宇尾野さんに与えることができます」
宇尾野が疑われた時の柳町さんの言葉を思い出した。あれは犯行時刻が2限目だと誤認させる他にも目的があったんだ。
復讐。
その二文字が冷たく頭の中に浮かび上がった。
「それでも証拠がない,と思われるかもしれませんが,必要最低限の証拠は揃っています。例えば監視カメラの映像。柳町さんが早退したとされる金曜日の昼休みに学校から出て行く姿が映っておらず,放課後になって下校する様子が映っていることが確認されました。それに決定的な証拠が指紋です」
「指紋,ですか? 犯人が触ったと思われる盗品やロッカーなどから不自然な指紋は検出されていないはずですが」
おそらく拭き取るなり手袋をするなり,身元の特定に繋がらないようそれなりの対策はなされているはずだ。指紋を残すようなミスを犯すとは考えにくいけれど。
眼鏡の疑問に対し,時田さんは鷹揚に頷いた。
「学察の動向を予測して先手を打っておいた柳町さんが,直接自分に結び付けられるような物証を野放しにしておくとは考えにくいです。さっき言った監視カメラの映像だって,別に犯行を裏付けるものではありませんし,それ単体ではどうとでも言い逃れはできますしね。ですから,検出された指紋というのは柳町さんが想定していなかった,彼女の統制下に置かれていなかった指紋のことです」
そう言うと,時田さんは唖然とした表情の宇尾野の方を向いた。
「宇尾野さん,あなたが盗まれた物は何ですか?」
「……音楽の教科書」
「それだけですか? 他に何も盗まれていませんでしたか?」
「他には,何も」
「いいえ。あなたのロッカーの中から盗み出された物は,音楽の教科書の他にもう1つありました。そしてそれを取り戻すことが,柳町さんが犯行に及んだ最大の理由です」
取り戻す?
わたしは時田さんの言葉に違和感を覚えた。宇尾野の物を盗むことが,どうして柳町さんにとって取り戻すことになるのか。それに,盗まれた宇尾野自身さえ気付いてないのに,どうして時田さんは他に盗まれたものがあると断言できるのだろう。
「学察どころか本人すら把握していない被害があって,そこから指紋が検出されたってことか? だがそんなことありえるのか?」
「示差性の効果」
熊さんに,時田さんは短く答えた。
「これも3課の課長に教えてもらったことなのですが,人がある項目群を覚える時,他の項目と比較して相対的に目立つ項目程覚えやすいことが分かっています。これを示差性効果と言います。逆に言えば目立たない,本人が重要視していない物は記憶に残りにくいということです」
「回りくどいな。その教科書以外に盗まれた物ってのは結局何なんだ?」
「宇尾野さんにとってはそもそも自分の物でなかったから存在すら忘れてしまった物,つまり柳町さんから奪い取ったミステリ研究会の冊子です」
思いがけない言葉に,わたしは一瞬何も考えられなくなった。フリーズした頭は時間をかけて時田さんの言葉を処理し,それが指し示す意味を叩き出した。
柳町さんって,ミステリ研だったんだ。
彼女自身が目立つ生徒でないせいかわたしが部室に行かなくなったせいか,全く知らなかった。
「聞けばミステリ研究会は部員数が少なく活動費も限られているそうです。そのため原則発行した冊子は配布することはなく,全て部内で管理することになっているとか。部員であれば借りることはできるらしいですが柳町さん,あなたは5月に冊子を持ち出して失くしてしまったと他の部員に話していますね。しかし最近になってその冊子が見つかり返却しています。これは宇尾野さんのロッカーから取り返したからではありませんか」
日常的に繰り返される横暴にただ耐えるだけの人なんているはずない。表面的には大人しく従っているように見えても,心の中では密かに激情を抱え込んでいるのかもしれない。
その直観は正しかったんだ。おそらく柳町さんは宇尾野に指図されてロッカーを開けた時,偶然奪われた冊子を見つけたのだろう。譬え使い走りされることには堪えられても,見つけてしまった以上冊子だけは取り返さずにはいられなかった。
「……でも,わたしの指紋が出るのは当たり前ですよね」
ようやく発せられた柳町さんの声は,いつもの震えるか細いそれではなかった。表情こそ窮地に立たされ苦悶に歪んでいるけれど,はっきりとした声だ。
弱いだけの人なんて,存在しない。
ふと見ると,険しい視線を向けられているはずの時田さんは優しい笑みを浮かべていた。
「検出された指紋が柳町さんのものであるとは一言も言ってません。確認できたのは宇尾野さんの指紋ですよ」
「嘘だ! だって,ちゃんと拭き取ったのに……」
ハッ,と柳町さんは自分の失言に気付き口を手で覆う。それに構わず,飽く迄落ち着き払って時田さんは続けた。
「でしょうね。表紙からは検出されませんでした。宇尾野さんの指紋が確認されたのは中のページからです」
「え……?」
柳町さんの表情は初めて驚きで彩られた。
「柳町さん,あなたはこう思っていませんか。宇尾野さんは資産家の両親に甘やかされて育った結果,周りの人の気持ちや考えを軽視するわがままなお嬢様だと。自分が使い走りされるのは全く宇尾野さんの都合で,自分は迷惑しか被っていないと」
「なにを,何を言っているんですか……」
「宇尾野さんがあなたを理解しようとしていることに,あなたは気が付いていないのではないですか」
「そんなわけないじゃないですか!」
その叫び声には,傍目に見ても明らかに動揺が滲んでいた。柳町さんは懸命に,懸念を振り払うように首を横に振る。
「そんなわけないです! 今までわたしが何をされてきたか分からないくせに,知った風な口を利かないでください! 鈴夏ちゃんはずっと,最初に会った時からわたしの都合なんて考えずに,ずっとずっと勝手なことばかり言って,わたしは振り回されてきたんです!」
「振り回されただけですか? 宇尾野さんのおかげで,クラスで孤立せずに済んだという側面はありませんか。あなたが窮地に立たされた時,宇尾野さんは手を拱いているだけでしたか。引っ張ってもらうことで,それまで経験することのなかったことを体験できませんでしたか。宇尾野さんが,あなた方の両親の関係について直接言及したことはありますか。どうして宇尾野さんはあなたを振り回すようなことをしたのでしょうか」
「それは……勝手な理屈です! そうしてほしいと頼んだ覚えはないです!」
「そう言い訳して,宇尾野さんと正面から向き合うことをあなたはずっと避けてきたのではないですか? 宇尾野さんだけじゃない,あなたは被害者の振りをして自分からも逃げてきた。身勝手と思う反面確かに庇護を受けているという事実からも目を背けてきたんです」
「やめてください! 勝手に決めつけないでください!」
「では,冊子に指紋が付着していた理由をどう説明しますか? 宇尾野さんが冊子に目を通していたのは,あなたが興味のあることを知ろうとしていたからではないのですか? 確かに褒められるやり方ではありませんが,宇尾野さんはあなたを理解しようとしていたのではありませんか?」
時田さんの問いかけに,柳町さんは言い返せなかった。言葉に詰まり,彼女は隣にいる宇尾野を一瞥する。
宇尾野は泣いていた。
両目からはぼろぼろと大粒の涙が零れ落ち,嗚咽を漏らさないようにか,その口は手で覆われている。言葉を失う柳町さんに,宇尾野は彼女らしくない小さな声で言った。
「……小春,ごめん。ごめんね」
ごめんね,ごめんね。子供のように,泣きじゃくりながら謝り続ける宇尾野に,柳町さんは震える声で,ようやく一言だけ言った。
「……謝らないでよ……」
その頬を,つうと一筋の涙が伝った。