9
「犯人にとってはそれでも良かったのでしょうけれどね。しかし今回の事件は犯人にとって最も都合の良い展開となりました。アリバイがないのが加賀さんだけという状況は犯人が意図したものではなかったんです。ただ,犯人が被害の発覚が少しでも遅れるよう期待していたことは確かです」
そう言うと,時田さんはチョークを手にして黒板に何か書き始めた。
「今回の事件,3課の課長も捜査に加わっていました。そもそも2限目前の休み時間に被害生徒が盗難に気付かなかった可能性を指摘したのは彼なのですが,その理由は心理学における「特徴統合理論」で説明できるそうです。これは人間の視覚的注意におけるモデルで,これによると人は先ずある物体を見た時自動的に形や色,大きさなどの特徴を検出します。その後心理的なマップ,つまり頭の中に地図があるのですが,その地図上に対象を区別するための位置情報を保存しておき,それを参照に特徴を統合し対象の知覚に至る,というわけです」
言葉だけでは多分分かりにくかっただろうけれど,説明しながら描かれた図のおかげで何となく理解することができた。黒板に描かれた図は3つの層からなり,一番下の層には四角く区切られたスペースの中に,様々な色の三角形や丸などの図形が点在している。その図形から一つ上の層に「形」「色」と書かれたラベルに向けて矢印が伸びている。そしてそのラベルから更に一つ上の層に向けて矢印が伸びている。一番上の層には最初の層と同じく四角く区切られたスペースがあるが,ここに図形は点在しない。代わりに,一番下の層で三角形のあった場所に矢印が伸びていた。
つまり一番下の層が目で見ている対象,真ん中の層が形や色など特徴を別々に取り出す過程,一番上の層が位置情報を基に特徴を統合する過程,ということだろう。
「今回の事件に準えて言うなら,被害生徒達は体操服を探すために頭の中で先ず体操服の特徴を思い浮かべたことでしょう。色はともかく形は教科書と体操服では大きく異なっていますから,当然教科書を見てもそれを探しているわけではないので,被害生徒達は無意識的に注意を向ける対象から教科書を除外していきます。そして思い浮かべた特徴と合致する体操服だけを意識的に取り出すということです。このように探索の目的となる対象と合致する特徴だけに注意することを選択的注意といいます。例えば街中で友達と待ち合わせをした時,余程奇抜な格好でもしていない限り周りの通行人に意識は向きませんよね」
「つまり芸術の授業の準備をするためロッカーを開けた時,そこで初めて芸術の教科書を探し始めるからそれ以前になくなっていたとしても気付けないということですか? 1限目の始まる前に数学の教材を取り出すことがあったとしても,大きさや色が異なるから芸術の教材がなくなっていることに気付かない可能性はそう低くない?」
「そういうことだね」
時田さんは梓の言葉に頷いた。具体的に説明されたことでようやく宇尾野の顔にも理解の色が見えた。
「だがちょっと待て。被害生徒の中には体育の授業後教室に戻って来ず,直接芸術の教室に向かった生徒もいたぞ。もし彼らが……いや,そういうことか。同じクラスなら普段誰が体育の後教室に戻ってこないかは分かるから,そういう生徒に対しては芸術の教材以外の物を盗めばいいだけの話か」
「さすが涌野さん。頭の回転が速いですね」
「確かに時田課長の言った通り,加賀さんだけを疑う理由はなくなりますしこのクラスの生徒が犯人である可能性が高いということになります。ですがそうなると犯行時刻が問題になりますね」
確かにそうだ。事件当日の早朝盗品を運び出したとしても,全く人の目がないわけじゃない。万が一目撃された場合印象に残ってしまうかもしれないし,何よりクラスメイトがいつ登校してくるかも分からない教室で犯行に及ぶのはリスクが大きい。
それなら登校する生徒がほとんどいないような明け方に忍び込めばいいのだが,現実的にはどうなのだろう。教室が開錠される頃には運動部が朝練を開始しているのではないだろうか。
「確か,教室の開錠は午前7時半からです。それより早く教室に入る生徒は職員室に鍵を取りに行けば開錠は可能ですが,先生方に目撃されることはどうしても避けられないでしょうね。時田課長は犯人が開錠されてから犯行に及んだと考えているのですか?」
「いいえ。考えてもみてください。たまたま保健室に行っておりアリバイがなかったため学察は当初から加賀さんを有力な容疑者と見て捜査を進めていましたが,もしそうでなかったらどうなっていたでしょう? 特定の容疑者がおらず密室という状況なら,犯行時刻が2限目であるという考えが誤りであると学察はより早く気付いたかもしれません。つまりより遡って生徒のアリバイを検討していた可能性があるということです。そうなると被害が発覚した当日の早朝に盗品を運搬していた場合,即刻捜査の手が犯人に辿りついてしまいます。つまり犯人には学察がいずれクラス全員のアリバイを検討することを見越して予防線を張って置く必要があったということです」
「はあっ? それ以前となると週末ってことになるぞ? 土日は教室の鍵が開いていないだろう」
「ええ。ですからそれ以前,つまり実際の犯行時刻はその前の週の金曜日だったということです」
3日も前に犯行は完了していた。予想外の宣言に言葉を失うわたし達に,時田さんは更に驚きの言葉を畳みかけた。
「そうですね? 柳町さん」
「えっ?」
何よりも真っ先に,宇尾野の意外そうな声が聞こえた。振り返るとその声通りに呆然とした宇尾野の表情と,それとは対照的に唇をぎゅっと噛み締めた柳町さんの顔が見えた。
ハッと,狼狽したように宇尾野は口を開いた。
「待って! それだけは絶対にない!」
「絶対にない,とは?」
「だってこの子は……そう,確かあの日は昼休みには早退していたはず!」
「でしょうね。調べてみましたが,確かに記録の上では早退したことになっていました。ですがそれは万が一,金曜日のアリバイが調べられることを見越した予防線に過ぎません。実際には校内に身を潜め,犯行に及ぶ機会を窺っていたはずです。つまり放課後になって,教室から人がいなくなる機会をね」
「なるほど,放課後なら目撃されても問題ないのか。いくら人気が多かろうとただ歩いているだけなら別に注目はされないだろうし,早退したことを知っているクラスメイトには具合が良くなったから忘れ物を取りに来たとでもごまかせばいい。そもそもテスト期間でもないのに校内に居残っている生徒は少ないしな。後は盗品の運搬だが,時間はたっぷりあるんだ。バッグに入れて往復すればそれ程不審には思われないかもしれないな。少なくとも早朝に運搬するよりリスクはずっと低い」
「っでも動機がないだろ! それに証拠もないのに小春が犯人って決めつけんな!」
意外なことに,声を荒げて反論するのは柳町さん本人ではなく宇尾野だった。柳町さん自身は険しい表情をするものの取り乱す様子はなく,表面的には宇尾野自身が犯人のようだ。
それに,とわたしは時田さんの表情を盗み見る。
どういうつもりだろう。捜査関係者を集めたその目前で犯人を名指しするとは。
宇尾野まで呼んだ以上,こうなることは分かっていただろうに。わたしが,真犯人を吊し上げたいわけではないことくらい十分理解しているだろうに。
そう思ったのだけれど,盗み見た顔から明瞭な意図は読み取れなかった。
「動機については推測するしかないのですが……言っても構わないのですか?」
時田さんは柳町さんの方を向いて,気兼ねするように言った。怪訝に思うわたし達に構わず,じっと目を見続けている。まるでこの場に2人しかいないかのようだ。宇尾野など相手にされていなかったし,最早依頼人であるわたしさえ蚊帳の外だ。
けれど柳町さんは,固く閉じ合わせた唇を緩めることも,時田さんに向けた頭を振ることもしなかった。ただ,耐え忍ぶように時田さんを睨んでいるだけだ。
時田さんは,諦めたように溜息を吐いた。
「柳町さんが犯行に及んだ動機は,おそらくあなたですよ。宇尾野さん」