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私立松羽島学園高等部において,全生徒は文科省が定める高等学校における教科の内,全科目を2年生までに修める。カリキュラムを効率良くこなしていくため授業は原則教室で実施される。だから正直,この物理学教室のような特別教室の存在理由が分からない。大体わたしは受験に関係ない上苦手だから,真面目に授業を聞いてすらいない。
その物珍しさからついつい室内を見回してしまう。壁には何らかの模式図が描かれたものや,電子機器の細部を詳しく説明しているポスターが貼られている。起きて真面目に解説を聞いていればこれが何を説明しているのか分かるのだろうけれど,物理の授業を睡眠時間と心得ているわたしには全く意味が分からない。窓際の棚の上には,幼児がビー玉を転がして遊ぶような木のおもちゃが置かれている。
その時,先を行く井上が振り向くこともなく唐突に言った。
「おもちゃではありません」
心を読まれた!
ぎょっとするわたしに構わず,井上は教室の奥の準備室へと繋がるドアをノックした。
ってあんたもノックしてるじゃん。
しかも井上は返事を待たずスタスタ準備室に入って行く。わたしは気圧されながらも,これ以上舐められるまいとすぐさま後に続いた。
準備室の中は雑然としていた。普通の教室の半分程の広さがあるはずだけど,積み重ねられたファイルや何かの薬品が入った瓶がそのほとんどを埋め尽くしている。脇に押し寄せられた棚の中にも,何語かは分からないけれど英語でないことだけは確かな外国語で書かれた学術書がぎっしり仕舞われていたり,何故か蛇の標本が置かれていたりしている。
何とか人1人が通れるくらいに見える床を踏み進んでいくと,その奥に,これまた雑然と散らかった実験台に座っている白衣の中年男性の後ろ姿が見えた。確か,物理の先生で科学部の顧問だ。えっと名前は……
「ワトソン君仕事だそうですよ」
「誰がワトソンだ」
井上の言葉にツッコミながらその中年男性,渡先生は振り返った。刈り上げられた短髪に無精髭,眠そうな目に咥えタバコ。いかにも,という雰囲気の人だ。
ってあれ?
「校内って禁煙でしたよね?」
「バレなきゃいいんだよ,バレなきゃ」
わたしの問いに,悪びれる様子もなく渡先生は言った。……我が県における教員の採用基準は穴だらけかもしれない。というか学園警察の末席を汚す身である以上,これは取り締まるべきではないだろうか。
「それはともかく渡さん。また情報収集お願いしますよ」
えっ,渡先生が井上のソース? 信じられない思いで井上の顔を盗み見るけれど,その顔からはやはり何の感情も読み取れない。一方,頼まれた渡先生も面倒そうにぼりぼりと頭を掻いているだけだ。
「ねぇ,渡先生がさっき言ってた情報源?」
「そうですよ。意外ですか? よく推理小説の探偵には非合法の情報屋がいるでしょう。ホームズにおけるレストレード警部のようなものです」
「レストレード警部って確か2人説なかったっけ。初期の方はそこまで協力的じゃなかったし譬えとしては微妙じゃない? なによりさっきワトソン呼ばわりだったじゃん」
「では天下一と大河原の関係です」
「何でガリレオの方を持ち出さなかったのか置いておくにしても,ミステリーというよりパロディ色の強い作品で譬えんな!」
それに情報屋って言うか警察と探偵の仲だし。どっちかって言うと,今のわたしとあんたの方の例えで使って欲しいくらいなんだけど。
「注文が多いですね。それでは明智小五郎と少年探偵団の関係です」
「いや逆逆っ,子供と大人逆転してるからっ!」
コナンかよっ。というかキャラ的にあんたは寧ろ怪人二十面相の方が近いだろ。
「ふむ。それでは御手洗と竹越刑事の関係ではいかがでしょう?」
「いや,だから警察と探偵の仲なんだってば。っていうかあのシリーズ基本的に警察は傲慢な考えの古臭い権威の象徴だから,学察があんたに協力依頼している時点でその譬えは成り立たないんだって!」
「それでは加部谷と赤柳の関係です」
「(自称)美少女探偵とガチの私立探偵じゃんっ。つーかよりにもよってGシリーズで譬えんな!」
S&Mとまでは求めないから,そこはせめてVシリーズだろ。
「話は変わりますが新旧問わず推理小説における探偵の情緒は何故おかしいのでしょうか。性格の破綻した探偵か捻くれた世界観のどちらかが必要となっている状況が改善されない現状から考えると既にミステリ界隈は一杯一杯のような気がします。そもそもミステリと探偵小説をごっちゃにするような状況はマニアとして非常に嘆かわしい」
「話が関係しているように見えてずれていることもあんたが読んでいるのはメジャーな作品ばかりだからあんたをマニアと呼べないことをツッコミたいのは山々だけど,まず最優先事項から突っ込ませてもらう。破綻した性格のあんたが言うな!」
大体,新旧と口を出せるほど古典に言及していないじゃない。せめてクイーンやクリスティレベルでいいから目を通せ!
しかし井上はここでようやく,唇だけをふっと歪め初めて表情らしきものを見せた。
「あなたが相当なレベルの推理小説マニアであることがこれで露見しましたね」
「しまった,誘導尋問だったのか!」
肩身狭いからひた隠しにしてきたのに! まさかっ,館シリーズや学生・作家アリスシリーズを出さなかったのも割りと普及している推理小説だからか!
「ワトソンの名前が出た辺りから誘導尋問は始まっていたのかっ! 一連の掛け合いは,わたしがどれだけミステリを読み込んでいるか晒していくため……」
「ようやく気付きましたね」
犯行を暴かれた犯人の気分だった。嘘でしょ,まだ事件の概要も明かしていないのに,もう解決編なの?
「当たり前です。私はロサンゼルスBB連続殺人事件を解決した男ですよ?」
「有名所を出したくせに,やっぱり分かりにくい譬えしやがるし……」
はッ,ひょっとして渡先生とワタリもかかっているのか! ってか有名所の細かい設定知っていることで益々わたしのオタク度が上がってる! つーかあれはミステリじゃなくてサスペンスだし!
「複雑な頭脳戦繰り返した割には,死神に殺されるなんていう拍子抜けな最期を迎えるくせに……」
「あれはキラに花を持たせてあげたのですよ。私が簡単にキラを捕まえてしまうと話数が108話に足りませんしNもMも登場しないでしょう」
言ってろ,帰ったらノートに名前書きまくってやる。
「お前ら,原稿用紙4枚に渡るナード漫才はもういいから」
呆れたように渡先生がオチをつけた。というか,くすりともされないと恥ずかしいのだけど。
「そんな完成度低い漫才を見せるために態々ここまできたのか?」
「おやおや。随分偉そうな口を利きますね? あなたは私に対してそんな口を聞けないはずですが?」
ぐっと渡先生は言葉に詰まる。怪訝を覚えるわたしに構わず,井上は畳み掛けた。
「もし学校側にあのことを密告したらあなたは即座に首が飛ぶはずですよね?」
「てめぇ,俺が教師って事を忘れてんだろ」
「滅相もない。あなたが教鞭を振るっているからこうして情報収集を頼めるわけですし?」
「……碌な大人にはならねぇな」
悪態を吐いて,渡先生は立ち上がりぎゅうぎゅう詰めの棚へ向かう。この隙を逃さないようにブレザーの袖を引っ張った。
「どういうこと?」
「簡単に言うと校内で喫煙していることが些事に思えるようなほとんど犯罪とも言える違反を犯した上その件を揉み消すよう私に依頼したのです。その引き換えの条件として廃部状態だった科学部の顧問を務めることと情報収集を行うという契約を結びました」
平たく言えば,わたしはたった今脅迫の現場に立ち会ってしまったらしい。何か,さっきから学察としての職務を全うしていない気がする。