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「だけど,よく般化が起きている可能性を思いついたね」
宗宮さんの姿が見えなくなり紙袋を拾おうと井上がこちらに歩き出した時,わたしはそう話しかけた。
譬え条件付けを施したことを見抜けても,宗宮さんがその消去を行っていることにまで考えが至ったなら大抵の場合考えるのをそこで止めて,般化が起きている可能性を検討せずに見過ごしてしまうだろう。
そう思ったのだけれど井上はぴたりと立ち止まり,わたしに懐中電灯を手渡す。
「これを持って狗神様の前に立ってください」
「え,何で?」
「いくつか質問してみます」
何を急に言い出すのだろう。さっき般化が起きていると自分で言ったのだから,狗神様が吠えないことくらい分かっているだろうに。
不審を覚えながらも,有無を言わせない態度に戸惑いつつ言われた通り狗神様の前に立つ。思えば,わたしが狗神様の正面に立つのはこれが初めてのことかもしれない。井上はわたしの少し離れた所から狗神様に質問した。
「加賀さんは私に好意を抱いていますか?」
はあっ!? 何をほざいているんだこいつは!
問い詰めようとした矢先「わんっ」と狗神様が吠えた。質問の意味と吠えられたことへの混乱がわたしの頭をフリーズさせる。硬直して動けないわたしに構わず,井上は淡々と説明する。
「この通り実際には般化は起きていないのです。確かに般化は類似の刺激に対して引き起こされますが180ルーメンと550ルーメンでは明るさにかなり違いがあります。人間にとってそうなのですから犬にとってはかなりの違いでしょう。般化勾配と言って反応を引き起こす刺激からかけ離れている程反応が引き起こされにくくなることが知られています。そもそも明るさに対して般化が起こるのか私は知りません。それに般化が起きていたとしても消去により懐中電灯を持った人物に吠えないという条件付けはやはり無効化しているはずです」
そもそもこれを放って置いたら警備に不備が出かねません。あっさりと持論をひっくり返す井上に,混乱から立ち直ると今度は自分の迂闊さに対する苛立ちが込み上げる。
そうだ,こいつこそ探偵というより詐欺師みたいな男じゃない。何でそのことを忘れちゃったんだろ。ミスリードという前科がこいつにはあるのに。
「じゃあ,あんたに吠えなかったのは何でなの?」
般化云々の話が無ければ,井上が吠えられなかったことに説明がつかない。
「簡単ですよ。狗神様が私に見慣れていたからです」
「はぁっ?」
「狗神様は懐いた人物には吠えません。現に警備の方と宗宮さんには吠えないでしょう。だったら同じように懐いてもらえばいいのです。事件を受けて私は宗宮さんがおそらく条件付けを消去すると予測しました。そうなると宗宮さんの犯行を裏付ける手立てがありません。ですから私は事件後宗宮さんの目を盗んで狗神様に餌付けしていました。放課後には宗宮さんの帰宅を確認して物理学教室に狗神様を連れ込んだことも片手では足りないくらいです」
何てこったい。
多くの情報と様々な思いが騒々しく頭の中を駆け巡り,わたしは眩暈すら覚えた。つまり条件付けだとか般化だとか小難しい話は関係なかったのだ。こいつお得意の舌先三寸に相手を煙に巻くでたらめだったということらしい。
何だろう,この肩透かし感は。
「自白してくれたから良かったけど,もしそれでも認めなかった場合解決できなかったんじゃない?」
そう問いかけると井上は,長椅子の方へ向かう。懐中電灯を取り出した紙袋を手に取ると,その中をがさがさ探った。
「私が賭けや自白なんて不確定な方法に頼る人間に見えますか」
紙袋の中から取り出したのは,ボイスレコーダーだった。井上が録音を取り止めるのを見て納得する。
そうか,懐中電灯1つを持ち運ぶのに何で態々紙袋を使っていたのかと思ったら,それを隠すためだったのか。
「条件付けを消去していたという言質さえ取れれば十分でした。上手く自白してくれるよう発言を誘導していたことは否定しませんが」
文句を言われる筋合い云々とは「口八丁に嘘八百を信じ込ませ自供させたとしてもどっちもどっち」という意味だったらしい。井上はもう十分説明したと思ったのか,そそくさともう歩き始めている。
えっ,でもちょっと待って。最後にした質問の意味は何だったの?
気持ちを落ち着けながらゆっくりその意味を考えてみる。
狗神様の条件付けが解かれていることは確かなんだよね。つまり懐中電灯の有無に関わらず狗神様は読心を行う。そして読心っていうのは,無意識の期待を反映した動きを読み取っている。ということは,狗神様が吠えることをわたしが期待していたってこと?
誰も見ていないというのに,思わずぶんぶんと頭を振った。ひとりでに熱を帯びる頬へ思わず手を添える。
ありえない。ありえないありえないありえない! だってそれじゃあ,まるで本当に……その通りみたいじゃない! そうだ,好意ってのは何もそういう意味だけじゃない。ほら,推理力とか知識量とかに対する尊敬とか! ってわたしは誰に対して言い訳してるの!? っていうか好意を抱いているってことは認めちゃってるし! 待った。質問したのは井上だから,狗神様はあいつの心を読んだんじゃないの?
動揺に翻弄されながら苦し紛れにそう思ってみるも,狗神様のこちらを向いていた視線がすぐさまそれを否定する。
っていうか,何であいつはあんな質問をしたわけ? しかもさっさと一人で戻ろうとしているし。
その可能性もそれはそれで気恥ずかしいけれど,とにかくわたしは井上の後を追った。
けれど,井上に真意を追及することは叶わなかった。先を進むその背中越しに時田さんの姿が見えたからだ。
「これはこれは時田捜査1課長。窓ガラスの件で出向いたのでしょうが真犯人はもう自首しちゃいましたよ? 自供の記録もありますから必要でしたら差し上げますよ」
「変な話し方やめろ」
追い付いてから釘を刺す。それにしても,どうして時田さんがここにいるのだろう。確かに中庭に行くことは伝えてあったけれど,時田さんが捜査員に担当を任せてしまった事件に首を突っ込むことは珍しいのに。
時田さんは井上の軽口を気にすることなくわたし達に近付いてくる。
「そうか,それなら良かった。ただ俺が出張ったのはそれとは別件でな,井上に用があるわけじゃないんだ」
そう言って立ち止まると,時田さんは真っ直ぐにわたしの目を見た。
「学園警察捜査1課加賀智佳。情報漏洩の疑いで捜査員資格を剥奪する」
えっ......?
暑くなり遠くで騒ぎ出したはずの蝉の声が,何故か頭の中で鳴り響いている気がした。額に滲む汗が,妙な存在感を遺して頬を伝う。
長い長い夏が,始まろうとしていた。