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学園探偵  作者: 阿久井浮衛
第2課 心を読む狗神様
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 けれど井上は狼狽えることなくつかつかと椅子の上に置いた紙袋に歩み寄ると,その中身を取り出す。中から取り出されたのは赤い懐中電灯だった。

「実は窓ガラスが割られた日に少々不思議な事態が起きています。持田さんが校内に侵入したのは午前4時半頃なのですが警備の方は中庭にいた狗神様の鳴き声を聞いていないそうです。その方は外にいましたし狗神様が既に目を覚ましていたことも確認されています。また生徒だからといって狗神様が未明に侵入した不審者を警戒しないということもありえないそうです。つまり持田さんが狗神様に吠えられていないというのは状況的におかしい」

 見過ごしていた不審な点を思い起こされ,あっと声を上げる。

 そうだ,まだその点が説明されていない。井上は取り出した懐中電灯を持って狗神様の前に戻った。

「持田さんが吠えられなかったのは予言通りに犯行がなされるようあなたが仕掛けをしておいたからです。その仕掛けとは条件付けです」

「条件付け?」

「パブロフの犬という言葉を耳にしたことはありませんか。これはパブロフという生理学者が行った有名な実験です。この実験で彼は犬に餌を与える度にベルを鳴らしました。犬の口腔内では餌を与えられると唾液が分泌されるのですがこの操作を何度も繰り返す度にベルを鳴らすだけで口腔は唾液で満たされるようになりました。このようにある刺激を呈示した時に特定の反応を引き出すよう促す操作を条件付けと言います。狗神様の読心も広義には条件付けによるものと言えるでしょうね」

 ここまで説明されればわたしにも,宗宮さんが施したという条件付けがの内容を理解できた。

「吠えないよう条件付けされていたんだ!?」

「そういうことです。それなら持田さんが吠えられなかったことにも頷けます」

「でも,事件の前日井上には吠えていたのは何で? あの後に条件付けをしたってこと?」

「いえ。条件付けには時間がかかります。私達が訪れる前から準備はしていたはずです。私に吠えて持田さんに吠えなかったのは吠えないという反応を引き出すためにこれが必要だったからですよ」

 井上は懐中電灯を軽く持ち上げて,宗宮さんに示してみせた。

「これは警備の方からお借りしてきたものです。持田さんは犯行時懐中電灯を持っていたそうですがそれはあなたが持たせたものです。懐中電灯には割った窓ガラスの枚数を正確に把握する他狗神様に吠えられないためという目的があったのです。条件付けに懐中電灯を用いたのは露見した時警備の方を見て条件付けが成立したのだと言い逃れるためです。事実あなたが2つ懐中電灯を購入したことの裏付けも取れています」

 だから,近隣のショッピングセンターで宗宮さんが懐中電灯を購入していないか調べさせたのか。

 先週の金曜日,井上が調べてほしいと言ったことの1つがそれだった。

 理解すると同時に,少しは追い付けたと思った背中が再び遠退いたように感じた。わたしから情報を聞いてすぐその可能性を思い付いた頭の回転の速さは驚異的だ。けれどそれ以上に,表面的な情報を集めて犯行を立証するのではなく,確実な物証が得られるまで調べ続ける姿勢に言葉を失う。

 こいつは筋道が見通せて尚も,先へ進もうとしていたんだ。

「ですが,持田さんがわたしに脅されていたと証言しているわけでもありませんし,犯行に使われた懐中電灯がわたしの購入したものであるとは限りませんよね」

 この期に及んで,宗宮さんはそれでも自らの犯行への関与を否定する。その言い草にわたしはかっと頭に血が昇った。

 弱みに付け込んで脅迫の事実を認めさせていないだけなのに。この子は脅され,校舎の窓さえ割った持田さんがどんな気持ちか想像できないのだろうか。

「ですから狗神様が証拠なのです。私の推理が正しければ明らかに吠えるべき質問に対してもこの懐中電灯さえ持っていれば黙ったままのはずですから」

 感情を荒げず井上がそう応えると,宗宮さんは堪え切れないとでもいうように唇を弧に歪めて立ち上がった。椅子から飛び降りる狗神様には目も呉れず,井上に対峙する。

「そういうことでしたら,どうぞ気の済むまで狗神様にお尋ねください」

 そう言うと井上の前から退く。井上は前に進み出て狗神様の目を見つめた。

 着々と宗宮さんを追い詰めているはずなのに,胸の内のざわめきが抑え切れない。

 何で,こんなにも余裕があるんだろう?

 宗宮さんの反応から,井上の推理は大筋では間違っていないはずだ。それなのに何で笑うことができる? ただの強がり? それとも推理に穴がある? でも,穴があっても大筋が合っているのなら,狗神様がこれで吠えなければ条件付けがなされている何よりの証となるはず。吠えるという確信があるから? 

 次々に疑念は浮かぶけれど,思いつけなかった考えをすぐさま検討できる程わたしの頭の回転は速くない。懸念が拭えないまま井上の質問が始まった。

「私の名前は井上了ですか」

 前回ここに来た時と同じ質問だ。わたしはじっと,狗神様の顔を見つめる。前は,宗宮さんがどうやって狗神様に指示を出しているのか分からずただただ困惑するだけだった。さっきの不敵な笑みを思い起こし,思わず固唾を呑む。狗神様はいつ吠えるとも分からない風に口を開けて息を吐き出している。

 そうして,いつまで待っても吠えることはなかった。

「私は何日生まれですか?」

 はッと,次に発せられた言葉に顔を上げると,宗宮さんが信じられないように目を大きく開いているのが見えた。けれど変わらず,狗神様は吠えない。

「私が生まれた月は?」

 吠えない。

「私が今朝目覚めたのは何時頃?」

 吠えない。

「整数mとnが負の値でない時X=3m+5nで現すことのできない最も大きな正の整数Xは?」

 狗神様は,黙ったままじっと井上を見返している。

「嘘っ! ありえない!」

 宗宮さんは叫びながら何かを否定するように大きく首を振る。その取り乱した様子はこれまでの落ち着き払った態度からは到底想像できない。井上は冷淡な声で問いかける。

「ありえない? どうしてですか?」

「だって,ちゃんと消去したのに……」

「そうでしょうね。懐中電灯を2つ購入したのもそのためでしょう」

「待って待って,どういうこと!?」

 どうやら宗宮さんが犯行を認めかけているらしいことは分かったけれど,どうやらわたしの理解を越えた駆け引きがなされていたらしい。宗宮さんは一体何をそこまで驚いているのだろう。

「条件付けは刺激を呈示することで反応を引き出します。しかし刺激だけを呈示し続けるとその反応が引き出されなくなってしまうのです。狗神様の場合餌を与えず懐中電灯の灯りだけを見せることで条件付けを解消することができます」

 つまり,宗宮さんは事件発生から今日までの間にその条件付けを解除していたということか。

 だから,狗神様が条件付けされていることが犯行への関与を示す証拠であると言われた時,余裕を取り戻すことができたのだろう。十分に追い詰めたと思っていたのに,まさかまだ最後の一手が残っていたなんて。

 でも,だったら何で狗神様は吠えないの? 

 わたし達の疑問を察したのか,井上は自ずと解説する。

「ポイントは犬の物の見え方にあります。宗宮さんが購入した懐中電灯と警備に用いられるこの懐中電灯は明るさが違います。具体的には180ルーメンと550ルーメンの違いで警備用の方が明るいのです。そして犬の視覚は色の識別があまり得意でない代わりに明るさに対して敏感です。つまりこの2つの電灯の明るさを峻別することができます。更に狗神様の場合般化と呼ばれる現象が起きていました」

「般化?」

「条件付けられた特定の刺激だけでなく類似の刺激にまで反応を適応してしまうことを言います。狗神様は読心を自ら身に付けてしまうくらいですから宗宮さんに条件付けを受けている間にも他の刺激つまり警備用の懐中電灯に対しても吠えないよう学んでしまったのでしょう。正直に言うと般化が起きているとの確信はありませんでしたが賭けには勝ったようですね」

 一度敗北した相手への勝利宣言の割には,えらく冷静だと思った。けれど宗宮さんにとってはこの調子が響くようで,すっかり勢いをなくし反論する。

「……それでも,証明されたのは飽く迄条件付けがされていたことであって,わたしが持田さんを脅していた証拠にはならないはずです……」

「1年8組大場麻理菜」

 井上が突如発した言葉に,宗宮さんの肩がぴくりと動いた。

「2年4組真崎咲。1年5組若月裕馬。3年3組片山沙緒理。1年7組富樫藍。持田さん同様今年度になってここへ訪れるようになった方々です。これらの名前に聞き覚えがあるでしょう」

 ここ2か月で中庭へ通うようになった生徒を探し出すこと。それが井上に頼まれたもう1つの調べものだった。俯いて応えない宗宮さんに,井上は止めを刺す。

「あなたの関与を証明するためだと言ったら彼女達は脅迫の事実を認めてくれるかもしれませんね」

 譬え持田さんが脅されていたことを認めなくとも,他に脅迫されていた生徒が1人でもいれば井上の推理に信憑性を持たせることができる。読心のトリックを教えてかつ個人的な情報の保護を確約すれば,彼らが話してくれる見込みは決して低くはない。

 言わずともそのことを悟ったのだろう。暫時宗宮さんは口を堅く閉ざしていたけれど,徐に力なく呟いた。

「……わたしが,確かに持田さんに窓ガラスを割らせました。井上先輩の推理通りです。でも,わたしも脅されていたんです」

「あなたも脅されていた?」

 突如発せられた調子外れの声に,井上にとっても宗宮さんのこの発言が予想外であることが分かった。けれどわたしは驚きよりも,咄嗟にまた誰かに罪を擦り付けているんじゃないかという疑いを強く抱く。

 脅迫して人に悪事を働かせた上,それに罪悪感を覚えないような子だ。虚言を滑り込ませていないとも限らない。

 そうした疑いをかけられていることを感じ取ったのか,宗宮さんは声を荒げて訴える。

「本当です,信じてください! 新聞部部長の停学も,その脅された相手から知らされたことなんです!」

 確かに,他に脅迫されていた生徒がいないか調べた時,是枝先輩も脅されているのではないか確認を取った。けれど先輩は彼女達のように中庭へ定期的に通っているわけではなかったし,特段脅迫のネタになりそうな情報も入っていない。

 それに宗宮さんが狗神様による読心を始めたのは今年の4月からだ。高等部入学してすぐに是枝先輩を脅すことができたかといえば,時間的に少々無理がある。

 もちろんそれだけでこの発言を信用するわけにはいかないけれど,疑問が残ることは確かだ。

「どのような脅迫を受けていたのです?」

「……狗神様の読心のトリックと,中等部での占いがやらせだった証拠を握っている。これを暴かれたくなければ指示に従うように,と」

 読心のトリックとやらせの証拠を握っている? 

 宗宮さんの言葉に怪訝な顔になるのが自分でも分かった。学察すら掴めていない証拠をその脅迫した人物が握っているなんて俄かには信じ難い。

 けれどもし本当に証拠を掴まれていた場合,学園にその証拠を提出されると停学や,下手すれば退学処分すら免れない。宗宮さんの立場では,その脅しを無視することはできなかったのかもしれない。

 しかし個人で証拠を掴める人物がいるとは考えにくいけれど,宗宮さんを脅しているのは一体どんな人物なのか。

「脅迫している相手は誰なのです?」

「分からないです……」

「分からない?」

「直接会ったことがないんです。脅迫文は靴箱や机の中に,いつの間にか入れられていました。ペンケースとか私物が見当たらなくなって,落し物ボックスに脅迫文が入った状態でその失くしたものが見つかったこともありました。だから脅迫文を送ってくる相手を突き止めようにも,毎回方法が違うから突き止められないんです」

 その結果,気付いた時にはその脅迫犯の傀儡となっていた,ということか。

 もし宗宮さんが本当のことを言っているのだとすると更に事態はややこしくなる。そもそもわたし達は,是枝先輩の停学を預言したから宗宮さんを調べ始めた。

 だけど宗宮さんがただ指示に従っていただけとなると,その脅迫犯こそが停学の件に関わっていることになる。ひょっとすると,是枝先輩もその脅迫犯に脅されていたのかもしれない。だけどその正体を掴もうにも宗宮さんとの接触は最低限のようだし,特定は難しいのではないだろうか。それは是枝先輩にしたって同じだろう。

「脅迫に基づきあなたは持田さんに窓ガラスを割らせたということですね。具体的に脅迫犯からどの程度指示を受けていたのです?」

「新聞部長の停学を預言すること,そして窓ガラスを誰かに割らせてそれを預言することです。そのために,4月頃から占いに来た人達の弱みを握るよう指示されていました。先輩方が来られることも,脅迫犯から知らされたことです」

 つまり,事件の大筋はその脅迫犯が描いたものだということだ。こうなると脅迫犯というより,是枝先輩の停学から始まった一連の事件の黒幕と言う方が相応しい。

「どのような事情であれあなたが狗神様に条件付けを施し持田さんに窓を割らせたことは確かですよね」

 冷たく突き放すような声に,宗宮さんだけでなくわたしも一瞬体が強張る。わたしの前で井上が怒りを顕にするのは,これが初めてのことだった。宗宮さんに向けられる眼差しからは静かな憤りが溢れ返っている。

「そもそもあなたが自分の行動に責任を取っていたならこんな事件は起きませんでした。それなのに保身に走った結果多くの人を巻き込んでいます。脅迫に関しては確かに被害者ですが同時にあなたは加害者でもあるはずです。今のあなたには自分の仕出かしたことから逃げ回っている卑怯者だという自覚がないように見受けられます」

 口調は素朴に,けれどこれ以上ない厳粛な詰問を受けて,宗宮さんはようやく自らの罪を認めたらしい。俯いて唇を噛んだかと思うと,井上の脇を通り抜けてこちらに向かってくる。

「……持田さんに窓を割らせたことを,学察に自白しに行きます」

 通り抜け様にそれだけを言い残して,中庭を去って行った。

 狗神様は井上の脇に立ったまま,その後ろ姿をじっと見つめていた。

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