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そうして,6月25日の昼休み。
この日の陽光は本格的な夏に向けて助走している模様。立っているだけでじんわりと汗が浮かぶ。そんな気温の中,わたしと井上は再び中庭を訪れた。
この気候に構う様子もなく,池の辺に腰かけ空を見上げている横顔は相変わらず端整だ。その脇では,わたし達が事件を解決すべく方々を走り回っている間もそうしていたのだろう,狗神様が鎮座している。毛並みが少し違っている気がするが,夏毛に生え変わったのだろうか。
「お久しぶりですね,井上先輩。ようやくこうして御足労頂いたということは,預言の力を信じられたということですか」
初めからわたし達の存在に気付いていたのか,まるで気温をものともしていない涼しげな顔をこちらに向ける。その口調からはやはり,井上に対する意識が読み取れた。いつもの調子を取り戻した井上は持っていた紙袋を空いている長椅子に置きながら,挑発的な視線を平坦な声で受け流す。
「いえ。狗神様はもちろんあなたにも読心や預言の力なんてありません。あなたは預言者ではなくただのペテン師です」
わたし達にトリックを見破られることはないという自信があるのか,予想に反して宗宮さんは少しも表情を変えない。寧ろ楽しげに,唇を歪め自ら切り込む。
「預言でないとすれば,どうやって事件の発生を言い当てたのですか? それに先輩の心を狗神様が読んでみせたのも,ペテンと仰るつもりですか?」
「簡単なことです。あなたはここを訪れた持田さんの弱みを握り脅迫していたのです。その弱みを公に晒されたくなかった持田さんはあなたの指示通りに窓ガラスを割りました。あなたは預言と一致するよう割るガラスの枚数を指定したり犯行に及びやすいよう情報を流したりしたはずです」
「確かに,持田さんがここを訪れていたことは否定しません。他の方と同様に占いました。ですが先輩の述べられたことは仮説に過ぎませんよね。わたしが関与したという証拠はありません」
やはり,証拠の不在を突いてきた。わたしはちらりと井上を見遣る。
どれだけ問い詰めようと,井上は読心のトリックを予め教えてはくれなかった。だからここからどうやって宗宮さんを追い詰めるのか,わたしにも全く見当がつかない。
「いいえ。証拠ならそこにいます」
と,井上は宗宮さんの隣を指差す。その先にいる狗神様は,指差した井上を見返していた。
証拠というより証人に近いですが。付け加えた井上の言葉を,宗宮さんは鼻で笑う。
「狗神様が,わたしの犯行への関与を裏付ける証人? 正気ですか? まさかわたしが関与しているかどうか聞くつもりだなんて仰いませんよね」
「そのまさかですよ」
そう言うと長椅子と池の間を歩き始めた。宗宮さんは井上の考えが分からず攻めあぐねているのか,その姿を目で追うだけで口を開こうとはしない。
わたしも狙いが分かっているわけではないけれど,不思議と不安は感じない。こいつが歩き出すということは,講釈を垂れる合図だ。それは同時に,自分の得意分野に相手を引っ張り込んでいることを意味する。
「その前にある昔話をしましょう。19世紀末から20世紀初頭にかけてドイツでハンスという名前の馬が有名になりました。飼い主であるヴィルヘルム・フォン・オーステンによるとハンスは加減乗除・日時・音階を理解し文字も読めるとのことでした。実際簡単な問題を出題するとハンスは蹄で地面を叩く回数で答えることが確認されています」
狗神様と同じだ。質問の内容や回答の方法こそ違うものの,大筋は一致する。
声にこそ出なかったものの,良く言われる目から鱗の落ちたような気分だった。どうやったのかトリックを考えるばかりで,読心に類例があるなんて考えもしなかった。
「その能力を確かめるため心理学者や獣医師からなる評議会が結成されました。主にオーステンが正答を教えている可能性が検討されましたがいくら出題者を変えても正答率は変わりませんでした。そのため評議会はハンスの能力には何のトリックもないという結論を下します。ところがこの結論に疑問を感じたオスカー・フングストという心理学者がいました。彼は実際にはハンスが出題者から問題の答えを受け取っていることを実験的に証明してみせたのです」
「どうやって証明したの?」
黙ったままの宗宮さんに代わって,思わず口挟む。井上もその方が追及には都合良いと考えたのか,宗宮さんから視線を外しこちらに向ける。
「簡単ですよ。出題者自身が解答を知り得ない形式で問題を出したのです。例えば2人の人物がハンスの耳元で囁いた数字の合計を求めるというような具合です。もしハンスが自ら計算しているのなら簡単に解ける問題でした。ですが正解率は9割から1割未満にまで落ち込んだそうです」
知っていれば答えられるけれど,知らなければ答えられない?
単純な方法で回答が馬自身の理解によるものではないと証明できたことは驚きだけれど,どこかで耳にしたことのある内容への困惑が大きかった。
どこで聞いたんだっけ? この手の話は井上から聞いているはずなんだけど。
唐突に,その記憶が頭の中を駆け巡った。
「予期意向と不覚筋動ってこと!?」
「そうです。意図しない筋肉の動きと意識する前に脳内で生じる運動指令。この2つによりコックリさんで硬貨が動くメカニズムと同様ハンスの事例も説明できます。ハンスは出題者の動きに合わせて蹄を叩くことを学んだのでしょう。実際ハンスの蹄を注視するため出題者の頭の位置は一旦下がるのですが地面を叩く回数が正解に達した途端上方に僅かながら動くことが確認されました。これは正答したと判断することで緊張が一瞬緩むためでしょう。またこの頭の動きを手掛かりとしてフングスト自身正答を導き出すことに成功しています。馬の場合外敵から身を守るために他の個体の動きに敏感ですから自然と学んでしまったのでしょう。それ以降このように人の潜在的期待が微細な振る舞いにより動物に伝わることをクレバー・ハンス効果と呼ぶようになりました」
ようやく,宗宮さんの口許から涼し気な笑みが消えた。前に立つ井上の顔を睨むように見上げている。
「狗神様もそうだというのですか?」
「もちろんです。警察犬でもクレバー・ハンス効果は確認されています。聞けばこの狗神様は大変頭の良い犬らしいですね。放課後は番犬として警備の役に立っているとか。ですからおそらくここに住み着き始めた時に上手く餌にありつく方法を学習したのでしょう。どうすれば警備の方に面倒を見てもらえるか学習した結果不審者に吠えるようになった。それと同様に餌付ける生徒の気に入るよう心を読み取るようになった。中等部からの内部進学者であるあなたは狗神様の存在を耳にしたことがあったかもしれません。その頃から占いをしていたそうですがその時はまだ狗神様の読心のメカニズムを知らなかったのでしょう。ですが2年前やらせとカンニングの疑いをかけられたあなたはより露見しにくく確実な占いの手法を模索した。そして高等部進学後狗神様の読心がクレバー・ハンス効果によるものだと分かりこれまで利用していたのです」
「……仮に先輩の言う通りだとして,それが何だと言うのですか」
井上を睨み上げていた宗宮さんは,余裕を取り戻したのか酷薄な笑みを浮かべて吐き捨てるように言った。
「もしそうだとすると確かに読心は神秘的な力によるものではありません。ですがそれだけでわたしの犯行への関与を示すことはできませんよね」
その通りだ。読心を利用すれば脅迫が可能であるというだけで,物証がないことには変わりない。極論を言えば,読心がクレバー・ハンス効果によるものだろうと神秘の能力によるものだろうと,証拠がなければ状況は同じなのだ。
わたしは内心焦りを覚え始めた。読心のトリックを明かせば少しは動揺が見られるかと思ったけれど,さすがに一度井上を打ちのめしているだけあって宗宮さんは手強い。
「ですのでこれからそれを証明します」