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ぱらぱらと雨粒が傘に当たり,頭上で音を立てている。花壇からは土の匂いが立ち薫る。雨雲が頭上を覆い尽くしたせいで,18時前だというのに学園内は校舎の輪郭が分からないくらい暗く,灯りの点いた教室だけがぼんやりと浮かび上がっている。
窓ガラスが割られた時は,どのくらいの明るさだったのだろう。
「井上君と一緒じゃなくていいの?」
隣を歩く梓が出し抜けに傘の下から顔を覗かせる。今朝持田汐音が犯行に及んだ時の状況に考えを巡らせていたわたしは,突拍子のない疑問に泡を食った。
「なっ,何であいつが出てくるわけ!?」
「だって智佳の話を聞く限り,井上君と張り合うために宗宮さんは今朝の事件を預言したみたいじゃない。心を読む方法だけじゃなく事件を預言した方法も分からなくて,今頃困っているんじゃないの」
特に何の下心もなさそうな顔をする梓に,思わず言葉が詰まる。そりゃ気にならないわけじゃない。只でさえ読心のトリックを明かせず落胆しているだろう時に,追い打ちをかけるように預言されていた事件が起きたのだ。いくら変人と見做されクラスで浮いていても,井上の耳にも今朝のことは届いているはず。更なる混乱に陥っていることは想像に難くない。
もっと言えば,今回の事件は正式に学察に受理され,わたしが担当する運びとなった。しかも事件を預言されるに至った経緯から,井上に協力を要請し情報を開示しても構わないと時田さんからは既に言われている。知識量と推理力だけを考えれば,今すぐにでも物理学教室へ急ぐべきだ。
警備員控室へと向かう道すがら,隣の梓に気付かれないようそっと息を吐く。
誰も気付かない内に校舎の窓が割られるというセンセーショナルな事件が起きたかと思えば,その日の内に犯行を自供する生徒が現れる始末。捜査1課は急変する事態にてんやわんやの状況だった。加えてこれから証拠固めをしなければならないと思えば,溜め息を吐かずにはいられない。
「わたしが,部室棟の窓ガラスを割りました」
A棟1階は,全て学察に関係のある部屋で埋められている。その階の,渡り廊下から数えて2番目の取調室で向かい合ったわたし達に,持田汐音は神妙そうに,改めて犯行を自供した。
時刻は今から2時間前の,15時40分。ほんの5分前に自ら出向いた持田さんに対して,事件の担当者さえ決めていなかった捜査第1課は寝耳に水の騒ぎとなった。そこで一先ず,預言の段階から事件に関与していたわたしと1課のトップである時田さんが取り調べに当たっていた。
「何故,自ら名乗り出たのですか」
やはり経験を積んでいるからだろうか,時田さんは少なくとも表面上は普段と変わらないように見える。けれど怪訝さは,自供の動機から尋ねている聴取に現れていた。
「改めて登校してから,思った以上に大きな騒ぎになっているのを見てびっくりして……今日1日その話題で持ちきりでしたし,部室棟での部活動が停止になったってことを聞いて,申し訳ないなって後悔したんです」
彼女の語る内容を書き留めながら,わたしは軽い違和感を覚える。取ってつけたような理由だ。下層階だけとはいえ校舎1棟の窓をまるまる割ってしまったのだ,大事になることは簡単に想像できるだろうに。それとも,いざ犯行を立ち返ってみるとこうも簡単に悔い改めるものなのだろうか。
「犯行の動機は?」
時田さんは根本から固めていくつもりのようだ。持田さんは1度目を伏せた後で応える。
「……うちの親,かなり厳しくて。3年前中等部の入試を受けたんですけど,落ちちゃって……公立に通っていたんですが,中学の時はずっと松校の高等部に入るよう言い聞かせられていて,それで何とか合格して1組にも入ることができたんですけど,今度は3年間1組でいられるようにしろって。また3年間,ずっと勉強漬けなのかなって思うと苦しくて……」
そのストレスから犯行に及んだということらしい。わたしは益々疑義を強く抱いた。状況は違うけれど勉強のストレスという意味では是枝先輩と動機は同じだ。そりゃ確かにうちは進学校だけど,こうも動機が重なるものなのだろうか。
「では,事件の経緯を初めから教えてもらえますか」
「……朝の4時半に,校内に侵入しました。事前に警備の方が部室棟を見回らない時間を調べていました。1階の窓は家から持ってきたかさで割って,2階のは落ちていた石を投げました」
「どのくらい時間はかかりましたか?」
「園内に忍び込んでから出て行くまで,30分もかかっていないと思います」
朝の5時となると,学外からの目撃情報も集まらない公算が大きい。証拠を集めることだけでも難しそうだと判断し,思わず下唇を噛む。そう考えたのは時田さんも同じようだった。
「その時の服装は?」
「学校のジャージです。万一人に見られても言い訳ができるようにと思って」
「傘以外に所持品はありました?」
「園内は暗いだろうと思っていたので,家から懐中電灯を持っていきました」
「色と大きさは?」
「赤色で,20cmくらいです」
持田さんは手で「このくらいかな」と大きさを示す。結構大きめだ。人目を引きそうではあるけれど,果たして早朝の暗がりでそれを目撃して覚えていられる人がいるだろうか。
事情聴取の結果,どうやら目撃情報が少なく証拠固めは難しそうであることが分かった。可能な限りの情報を集めるため,こうして辺りが暗くなってしまった放課後に警備の方へ話を聞きに行っているというわけだ。
わたしと梓は誰もいない広場の,噴水の脇を通り抜ける。雨が降り出したおかげで運動部は外で練習ができないし,事件を受けて部室棟での活動が停止されたので,そもそも校内に残っている生徒の数は少ないのだろう。
ふとした拍子に上げた視線だけれど,事件のことが頭の中を過るとたちまち雨粒の滲み込んだ煉瓦の上に落ちていく。今頃,他の捜査員も担当の事件を一先ず脇に置いて聞き込みをしてくれているはずだ。だから本来,担当を任されたわたしは溜息を吐いている場合ではない。
おそらく,持田さんの供述の裏付け自体は困難ながらもそれ相応に上手くいくだろう。けれど,この事件はそんなに単純なものだろうか。暗い雨音に包まれて考えあぐねる。もし持田さんの語った犯行動機が本心でないとしたら。もし宗宮さんの読心に何らかのトリックが用いられているとしたら。
宗宮さんは,持田さんを脅しているのではないだろうか。
この思いついた可能性は,1度頭に浮かぶと中々居座って腰を上げようとはしなかった。そう考えれば全てがうまく説明できるからだ。
例えば持田さんと宗宮さんに面識があるとすれば,読心により弱みを握られた持田さんはそのことを言い触らさないことと引き換えに犯行に及んだのではないか。是枝先輩の自白を預言できたのも同じ理由からではないだろうか。
こう考えると筋道は通るけれど,今度は立証が難しくなる。一体どうすれば,脅しの証拠を掴むことができるのだろう。当事者はもちろん口を割らないだろうけれど,読心で握られた弱みを,いくら聞き込めば知ることができるというのか。そもそも,読心のトリックも暴かなければならない。
この大胆な仮説を時田さんは否定こそしなかったものの,渋面を崩すこともなかった。「確かに筋は通っているが,物証がない限りそれだけで方針は動かせないな」と至極冷静な感想の後,こう続けた。
「窓ガラスを実際に持田汐音が割った証拠を集めるのは時間との勝負だ。だから先にその方面で情報を集めるのが無難だろうな。だがこの件の担当はもう任せたんだ,その後で自分の考えた可能性を検討すればいい」
思えばぼんやりとではあるけれどこの時既に,わたしの中で井上を極力頼らないという決意は固まりかけていたのだろう。それは何も,落ち込んでいるだろうあいつを慮ってというわけではなく,戦略的な意味合いが強い。
宗宮さんが持田さんを脅していたという考えが正しかったとしても,それを示す直接的証拠は得られまい。このシナリオを宗宮さんに突き付けるためにはどうしても読心のトリックと,預言が脅しに基づくものであるという間接証拠の2つが欠かせない。前者は知識と推理力のある井上でなければ解き明かせないかもしれないけれど,後者はわたしでも証拠は集められる。つまり各々の不得手をカバーする,いわばチームプレイを取ろうということだ。
それに,とわたしは正門から少し離れた所に見えてきた,警備員控室の灯りを見遣る。
宗宮さんから預言を託された時,わたしは何も思わなかった。彼女が学園探偵として名高い井上を警戒することを当然のことと思うだけならまだしも,わたしを全く眼中に置いていないことに対してさえ何の感慨も湧かなかったのだ。しかもそのことに気付いたのは,今朝窓ガラスが割られているのを直接目撃した時。利用されていたことに気付いて初めて慄然とした。
何で,わたしは焦りも悔しさも感じていないの?
学察に入ってからというもの誰かを補佐してばかりで,いつの間にか,自ら事件を解決するという意欲を失っているのではないか。使い走りの立場に甘んじて,責任を負うことから逃げているのではないか。
それを否定できる根拠は,いくら心の隅を突いても見つからない。
これじゃあ,何のために学察に入ったのか分からない。情けなさがぶり返して思わず歯噛みする。
「警備の人いるみたいだね」
という梓の思い出したような声に呼び戻されて,弱気な自分を叱咤する。
自信を持て。わたしは学察捜査1課の一員なんだ。
「警備員控室って今まであまり注目したことなかったけど,意外としっかりした造りなんだねー」
梓は控室の入り口の前に立って,見上げるように傘を傾ける。
確かに,想像していた控室のイメージと実物は幾分異なっていた。
わたしは控室というと8畳程の広さで人が2,3人ようやく寛げるくらいのプレハブ小屋を思い浮かべていたのだけれど,実際にはコンビニの店舗程の大きさだった。外観としてはコンクリートの白い壁に窓と扉のついた質素なものだけれど,耐久性は良さそうだ。
学園の敷地内にこんなものをぽんと置けるのは私立ならではのことなのかもしれない。警備員も法人として雇っているとなれば尚更だ。ブラインドの下がる窓からは,人がいるらしく明かりが零れる。
「それじゃあ,入ろうか」