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学園探偵  作者: 阿久井浮衛
第2課 心を読む狗神様
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1

 朝からもくもくと遥か頭上に広がる厚い雲は,昼過ぎても変わらず黒い腹を地上に曝している。今にも雨が降り出しそうな梅雨らしい空模様だけれど,学生鞄の中でうずくまる折り畳み傘の出番が来るのはもう少しだけ先になりそう。

 ほとんど暗闇と言っても差し支えない物理学教室の中,両隣に座る2人の様子を確認する。右手に座る梓は僅かに差し込む外明かりを背に,わたしの眼差しに気付くとゆっくり頷いた。

 次に実験用の机を挟んでその反対の,左手に座る真守ちゃんに目を向ける。彼女は緊張した面持ちで机の上に置かれた一枚の紙をじっと見つめている。その目線をなぞるようにして,わたしも視点を机の上に移す。

 机の上に広げられた紙には,平仮名五十音と0から9までの数字が列挙してある。数列の上には「はい・いいえ」の文字が左右に配置されており,ちょうどその真ん中に犬の頭が描かれている。わたしはその犬の絵の上に,持っていた10円玉を置いて人差し指を添える。その動きに導かれるように,梓と真守ちゃんもそれぞれ指を重ねた。

 もう一度,わたしは2人の顔を伺う。10円玉に向けられる目には不安や緊張,そして昂揚感が浮かんでいるけれど,同時に覚悟が決まっているようにも見える。固く結ばれた唇を素早く確かめると,気持ちを落ち着けるためゆっくり大きく深呼吸する。

 もう,後戻りはできない。戸惑いの気持ちを振り払って口を開いた。

「狗神様,狗神様。わたし達をお導きください」

 わたしが口を開いたのを受けて,2人も同じ言葉を復唱する。緊張や不慣れのせいで思ったより小さい声は,机の縁を越えることなく煙のように立ち消える。先導するつもりで,気持ち少しだけ声を張った。

「狗神様,狗神様。わたし達をお導きください」

「狗神様,狗神様。わたし達をお導きください」

「狗神様,狗神様。わたし達をお導きください」

 初めこそ少しずれがあったものの,繰り返す内に3つの声は次第に1つに収斂してゆく。辺りに全く人の気配がない暗闇の中,物理学教室に灯る復唱は神秘的な雰囲気を醸し出す。

「狗神様,狗神様。わたし達をお導きください」

「狗神様,狗神様。わたし達をお導きください」

「狗神様,狗神様。わたし達をお導きください」

「狗神様,狗神様。わたし達をお導きください」

「狗神様,狗神様。わたし達をお導きください」

「狗神様,狗神様。わたし達をお導きください」


「「「狗神様,狗神様。わたし達をお導きください」」」


 その時,空気が変わった。

 寒気を覚えて,思わずぶるりと体が震える。顔や足元ではぞくぞくと鳥肌が立っているくせに,指先だけが妙に熱い。ちらりと伺うと,真守ちゃんは信じられないように青ざめて10円玉を見ているし,何かを感じ取ったのか梓の喉が嚥下して動くのが見えた。霧散しそうになる意識を掻き集め,表情を変えないよう顔の筋肉を硬くする。2人がいるから表面上は平静を装っているけれど,頭の中は動揺が駆け巡っていた。

 まさか,そんなはずがない。

 感情が今まさに起きている現象を強く否定する一方,理性はそれが強がりであることを冷淡に看過していた。頭ごなしに否定していただけにいざその起きるはずのない現象に出交してしまうと,こんこんと湧き上がる恐怖を抑えきれない。いつからか,早鐘のように脈打っている心臓のせいで胸がじんじん痛む。じっとりと,決して湿度のせいではない汗が額に浮かんだ。

 それでも,もう一歩を踏み出してしまったのだ。その予感がある以上確かめないわけにはいかない。震えそうになる声を抑えつけて,わたしは掠れる声で続ける。

「狗神様,降りられたなら,『はい』へ移動してください」

 鼓動だけが耳を打つ中,わたしはじっと10円玉を凝視する。すると,特に力が込められる感覚がなかったのに指先が動いて――

「何をしているのですか?」

「「「っきゃああああっ!?」」」

 誰もいないはずの背後から突然,無感動な声が重くのしかかる。悲鳴を上げながら,目の前の2人がはッとわたしの背後に視線を走らせるのが確認できた。だけどわたしは恐怖で振り向くことができず,叫びながらぎゅっと目を閉じる。

「ですからそう何度も悲鳴を上げられると私は変質者の汚名を着せられてしまいます」

 聞き覚えのある嘆息交じりの声にようやく振り返ると,井上が呆れた顔でわたし達を見下ろしていた。ほっとすると同時に,脅かすような話しかけ方に怒りが込み上げてくる。文句を言おうと口を開きかけた時だ。

「真守ちゃんっ!? ちょっと大丈夫?」

 梓の緊迫した声に振り替えると,真守ちゃんが机の上に突っ伏していた。顔はこちらを向いており,目は力なく閉じられている。呼吸はしているらしく背中が上下しているものの,梓の呼びかけにぴくりとも応じる様子がない。安堵した気持ちに,さっと暗い影が過る。

 呼び出しに失敗したから?

 過呼吸に陥ったり意識を失ったりしたとされる,数々の事例が思い出される。ネット上で警告のように語られていたそれらのケースにおいて,生半可な気持ちで呼び出した者は皆悲惨な末路を辿っていた。いくら捜査のためとはいえ,やはり手を出すべきではなかったのではないか。そんな後悔と不安が胸の内でとぐろを巻いた。

「真守ちゃんっ!?」

「どうやら失神してしまったようですね。呼吸はありますし顔色も然程変化していないようですから大丈夫でしょう。机の上に寝かせて脳に血流が回るようにしてください」

 けれど,驚かせた本人は酷く冷静に言った。冷静なのは結構だけれど,少しも取り乱した様子がないから全く責任を感じていないようにも見える。

 井上の態度に思うところがないわけではなかったけれど,今は真守ちゃんの容体に対処するのが先だ。わたしと梓は言われた通り机の上に彼女を載せる。真守ちゃんが小さかったおかげで,わたし達2人でもそれ程時間をかけずに済んだ。

 真守ちゃんを机の上に載せた時,パッと教室内の蛍光灯が点いた。いつの間にか,外では耐え切れなくなった雨雲がざあざあと雨粒を振り落している。

 井上は入口の,蛍光灯のスイッチがある所からこちらへ歩きつつブレザーを脱ぐ。

「用心して首元を緩めて血流を良くしてください。5分程様子を見ましょう」

 ブラウスの第1ボタンを外しながら「わ,首細っ!」と梓が驚く声を上げた。気を失い横になる真守ちゃんに,井上は脱いだ自分のブレザーを掛けてあげる。

 ちょっと待て,何だその紳士な振る舞いは。

 未だかつて自分がそんな扱いをされていないことに不服を抱えると,脇に置いていた怒りがそれに煽られて再燃し出した。

「というか,何で急に声かけたりしたわけ。灯り点ければ良かったのに」

「科学部の部員でもない人が灯りも点けずにここにいたら何をしているのだろうと不思議に思うのが当然でしょう。何か作業をしているのであれば邪魔をするのも気が咎めますから。そもそも断わりもなく居座って降霊術に勤しんでいたのはあなた方ですよね」

 くそう,正論過ぎるぜぃ。

 ぐうの音も出ないわたしに代わって,梓が不思議そうに首を傾ける。

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