第4話
婚約破棄騒動から三ヶ月後。
首都・アウラにある商業地区の大通りから一本それた通りのミューズハウスにて、私は念願のパティスリーをオープンさせた。
ひっそりと建つ小さなミューズハウスは今は亡きお祖父様が密かに購入していたもので、お父様はその存在を知らなかった。
ミューズハウスを所有していると知ったきっかけは、私が物置部屋へ足を運んだ時。借金返済のために売れるものはないかと高価な物を探していると引き出しの置くからミューズハウスの権利書が出てきた。
本当だったら借金返済の足しにするためにすぐにでも権利書をお父様のところへ持って行かなくてはいけないのだけれど、何故かそれを躊躇ってしまった。
いけないことだと頭の中では分かっていたものの、私はそれを持ち出して自室の引き出しに隠した。当時からパティスリーを開きたいという気持ちが心の奥底にあったのかもしれない。
そして今回婚約破棄されたことでミューズハウスを最大限に活かす時が来た。これを足がかりにすれば低予算でお店を始めることができる。
長年思い描いていた夢をやっと叶えられると思うと私の心は躍った。
しかし、お店を始めるに当たって最大の関門はお父様を説得させることだった。
黙って隠し持っていた権利書のことを話さなくてはいけないし、謝罪した上でお店を開いてもいいか許可を取る必要がある。
私はドキドキする胸を押さえながら書斎にいるお父様に話をしに行った。
由緒正しいキュール家の当主であり、王室長官を務めているお父様はどちらかと言えば保守的な人間だ。令嬢にあるまじき願いを私から聞かされて必ず難色を示すはずだ。
否定されることも承知の上で今後の人生計画をお父様に説明すると、意外にもあっさり許可してくださった。
『私が先代プラクトス伯爵と結婚について書面に残していなかったばかりにシュゼットには酷い目に遭わせてしまった。先代は真面目だったのに息子の方はとんだ道楽者だった。シュゼットの若い頃の貴重な時間を無駄にさせてしまって本当に申し訳ないと思っている。だからこれからはおまえの好きにしなさい』
お父様は私が権利書を黙って隠していたことを咎めなかった上、最後は背中を押してくれた。そればかりか改装費用を捻出してくれた。
お陰で短期間で準備を整えてお店を開くことができた。
長年閉めきっていたミューズハウスは最初こそかび臭く、湿っぽくて仕方がなかったけれど隅々まで掃除をして換気することで随分ましになった。
改装には目いっぱいお金を掛けることはできなかったけれど、壁紙とカーテンを変えてパティスリーらしい雰囲気を演出することはできた。
店内は水色を基調とした爽やかな装いでショーケースやいくつかの棚、そしてちょっとしたイートインスペースを設けている。イートインスペースは人目をはばからず、ゆったりとした時間を過ごせるよう間仕切りを立てて半個室にした。
「今日という日が遂に来たのね」
エプロン姿の私は腰に手を当てると、もう何度目か分からない店内をぐるりと見回した。
ショーケースの中にはフルーツやクリームをたっぷりと使ったケーキやタルトが並び、棚には日持ちしやすい焼き菓子を中心にフィナンシェやクッキーを置いている。ショーウィンドウはお店の顔なので可愛らしいリボンやレースの飾り付けに気合いを入れた。
心が浮き立ち始めてスカートの前で指をもじもじさせていると後ろにある厨房から声を掛けられた。
「いよいよですね、お嬢様」
そう言って店内にやって来たのはメイドのラナだ。
焦げ茶色の髪を低い位置でシニヨンにしてまとめていて、爽やかな水色のブラウスと黒のフレアスカートを着ている。くりくりとした瞳は金柑色で鼻に散っているそばかすがチャームポイントの可愛らしい顔立ちだ。
ラナは彼女の祖母の代から侯爵家のメイドとして働いていて、幼い頃は年も近いことから私の遊び相手として一緒に育った。年頃になるとそのままメイドとして働くようになり現在に至る。
キュール家の家計が火の車になってからは大勢の使用人が辞めていってしまったけれど、ラナは最後まで残ると言ってくれた数少ない使用人のうちの一人だ。
私にとってラナはメイドというよりも家族の一員であり、幼馴染みであり、親友に近い存在だ。残ると言ってもらえた時はとても嬉しかった。
「準備を手伝ってくれてありがとう」
「いいえ。お嬢様のためならどこへだって付いて行きますよう」
ラナは背筋をすっと伸ばすと拳で胸をとんと叩いた。
因みにラナは普段から「です」「ます」を使って喋るよう彼女のお祖母様から教育されているため、私と二人きりの時でも人前で喋る時と変わらない物言いをする。
「それにしても、旦那様があっさりお店の許可を出してくださって良かったですよう。恐らくはお嬢様の婚約があんなことになって申し訳ないと思っていたのでしょうね」
「そうね。お父様も今回のことは予想外だったみたい。婚約破棄された私に対して後ろめたさがあるんだと思うわ。だけど、あのままフィリップ様と結婚するより却って良かった。きっと幸せにはなれなかっただろうから。まあ、念願のお店を開くことができたっていう点だけで見れば、彼には感謝しなくてはいけないわね」
するとラナがキッと目を吊り上げた。
「あんなクソ男にお嬢様が感謝の念を抱くなんてもったいないですよう! 私、毎日寝る前に奴の頭部が禿げてピッカピカになることを世界樹に祈ってますから」
「クソ男って。……先代の頭部を思い出すに、それはかなりの確率であり得るわね。って、そんなことは祈らなくていいから!!」
私はラナに突っ込みを入れると苦笑する。
その真剣さからフィリップ様の頭部が禿げることを本気で願っていることが伝わってくるが、そんなことのためにラナの貴重な時間を奪ってしまうのは申し訳ない。
「では将来中年太りで痩せられなくなってどうしようもない体たらくになることを祈ります!!」
「それも先代の体型と一致しているからかなりの確率であり得るでしょうね。……ありがとうラナ。気持ちだけはしっかり受け取っておくから祈るのはやめなさい」
「ううっ。お嬢様がそう仰るのであれば承知しました」
ラナが不服そうにしつつも頷いてくれたところで、私は壁掛け時計を確認する。
丁度、短い針がオープンの時間を指している。
私は気を引き締めると眉を上げてラナに言った。