第3話
もともとこのクッキーは今日の自分へのご褒美に食べようとして焼いていたものだった。
侯爵令嬢にあるまじき趣味だけれど私はお菓子を作るのが大好きだ。これは今は亡きお母様の趣味が色濃く影響された結果だと思う。
お母様は男爵家の出身なのだけれど実家は少し前に男爵となった新興貴族だ。もともとは中流階級で商家だったため、お母様は炊事や洗濯、掃除などの家事をメイドと一緒に行っていた。特に料理は得意分野で、お父様と結婚してからは料理をしなくなったけれどお菓子作りだけは趣味として続けていたのだ。
私は小さい頃にお母様からお菓子作りの基礎を教わり、それが趣味として今尚続いている。このクッキーだって私がバターと小麦粉の配合を研究して作ったものだ。
少年はじっくり味わうようにクッキーを咀嚼するとごくりと呑み込む。その表情は恍惚としていてとても幸せそうだ。
「――……美味しい」
ほうっと息を吐く少年はその後も一心不乱にクッキーへと手を伸ばす。
だけど私はその一言を聞いた途端、胸の中にあった長年の蟠りがとけていくのを感じていた。
それはずっと固く閉ざしていた蕾が咲き綻ぶように、私の中で嬉しさや喜びという感情が花開いていく。
嗚呼、と私は心の中で感嘆した。
――やっぱり、生計を立てていくならパティスリーを経営するのがいいわ。私が作ったお菓子を誰かに食べてもらって幸せそうにしている姿を見るのが大好きだから。
フィリップ様にもショートケーキを作って持って行ったことはあったけれど、彼はちっとも手をつけてくれなかったし、「おまえは俺に素人が作ったお菓子を食べろというのか?」と嫌がられた。衛生上は問題ないと何度も説明しても「食中毒になるのが怖い」の一点張り。挙げ句の果てにはしつこいと言われてショートケーキを床に落とされてしまった。
真心を込めて作ったお菓子を拒絶されたことで、私は自分自身を否定されたような気持ちになって、すっかり自信をなくしてしまっていた。
それまでは友人にプレゼントしたり、領地の豊穣祭で売りに出したりしていたのにあれ以降、誰かのためにお菓子を作ることが怖くなってしまって家族や屋敷の人間以外には食べてもらっていない。
けれど、少年の幸せそうな表情は、もう一度お菓子を通して誰かを喜ばせたい、幸せにしたいと私に思わせるには充分で……。
私は改めてパティスリーを開こうと決意した。
最後の一枚を食べ終えた少年はふうっと一息吐くとやがてこちらの視線に気づいてはにかんだ。
「お嬢様のお菓子はとっても美味しいです。僕、こんなに美味しいお菓子を食べたのはじめてでつい夢中で食べてしまったの。……遅くなっちゃったけど、クッキーをたくさんありがとう、ございます」
「お腹が空いていたんだから仕方ないわ。気にしないで。それに美味しく食べてもらえて私も嬉しい。ところであなたの名前を聞いてもいいかしら?」
少年は立ち上がるとぺこりと頭を下げて挨拶をしてくれた。
「僕はアーネルって言うの。お嬢様のお名前は?」
「私はシュゼットよ。あなたのことはネル君て呼ばせてもらうわね。それでこの森にはネル君一人だけなのかしら?」
「はい。僕一人だけ、です」
「まあ。ご両親は? というか、こんな夜遅くに森の中を一人でいるなんて危ないわ」
私はネル君の答えを聞いて眉根を寄せた。
この森には狼や野犬はいないけれど、ごく稀に物盗りや人攫いなどが出没する。少年一人だけでいるのは危険だ。
両親とはぐれたのなら街の警備隊のところへ連れて行って保護してもらった方がいいだろうし、孤児なら教会併設の孤児院へ連れて行く必要がある。だけど今から警備隊のところへ行って保護してもらうとなると手続きが完了する頃には深夜を回るからネル君がベッドに入るのはもっと遅くなるだろうし、孤児院の方はというと既に閉まっている。
弟と妹よりもさらに幼そうな彼のことを思うとこのまま置き去りになんてできない。残された選択肢は私が保護して屋敷へ連れて帰ることだけだ。私の屋敷なら移動の時間も掛からないからすぐに眠ることができる。
私はネル君を連れて帰ることを決めると彼の方を向き直った。
「ここに一人でいるのは危ないからうちに泊まっていくのはどう……って、あら? いない?」
私は目を瞬くと立ち上がって辺りを見回した。
おかしなことに目の前にいたはずのネル君はどこにもいなくて、忽然と姿を消してしまったのだった。