第36話
執事は私に対して慇懃な礼をした。
「お久しぶりです。キュール侯爵令嬢」
「ええ、久しぶり。プラクトス伯爵家の執事であるあなたがどうしてパティスリーの厨房まで来たの? 私がそちらと関わることはもうないわ。用件があるなら侯爵家を通して」
随分冷たい声が出てしまって自分でも内心驚く。だが、相手はあのフィリップ様に仕える執事だ。こちらが塩対応するくらいは予想できているだろう。
執事は顔色一つ変えることなく身体を捻ると侍従に前へ出るようにと指示を飛ばした。
侍従はおずおずと頷くと銀の盆を両手に持って私の方へとやって来る。その上には一通の招待状があった。
「本日は明日開かれるフィリップ様の婚約パーティーの招待状を届けに参りました」
「はあ? 何ですって?」
私はぴくりと片眉を動かした。
どうして婚約破棄してきた男の婚約パーティーに私が出席しなくてはいけないのか。まったく意味が分からない。
私はフィリップ様のあまりの図太さに辟易とした。開催日も明日だなんて急すぎる。
「当然のことだけど私は欠席させてもらうわ。予定だってあるし、急に参加しろと言われても困るの。早急に返事を書くから少しここで待っていて」
「いいえ、キュール侯爵令嬢は欠席することなどできません。できるはずないのですよ」
執事の表情が一瞬だけ曇るのを見逃さなかった。
私は胸騒ぎを覚えた。
「まさか……」
招待状を手にすると封蝋を切って中の書面を開く。
文面を見ると開催場所は私が婚約破棄された伯爵家の庭園で開催日時は明日の午前十時、受付は九時半開始となっている。特に変わった部分は見当たらないと内心安堵したのも束の間。
最後に爆弾投下にも匹敵する内容が綴られていた。
驚くべきことに『今話題のパティスリーを経営しているキュール侯爵令嬢が、私たちのためにいちごがたっぷりのエンゲージケーキを用意してくれています!』という内容が添えられていたのだ。
目を剥いた私は勢いよく顔を上げる。
「何なんのこれはっ!?」
思わず素っ頓狂な声を上げた私に、執事が淡々と、そして静かに言った。
「文面の通りでございます。令嬢には大変申し訳ないと思っておりますがパーティーの目玉であるエンゲージケーキは必ずご準備ください。それでは当日お待ちしておりますのでよろしくお願いいたします」
「私はプラクトス伯爵からケーキの依頼なんて受けてな……って、ちょっと待ちなさい!」
執事は私の制止を振り切って侍従を連れて帰っていった。
「こんなの急すぎるわよ!」
私は頭を抱えながら嘆いた。
明日といえば、王妃殿下のバザーの打ち合わせもある。打ち合わせの時間が午後二時開始であることが唯一の救いだけれど、移動時間も含めると余裕のないスケジュールになりそうだ。
「あのクソ男はどこまでうちのお嬢様を振り回せば気が済むんですかあ!?」
店内にいたはずのラナは丁度この場に居合わせていたらしい。フィリップ様の理不尽な依頼に対して酷く憤り、地団駄を踏んでいる。
私はラナに落ち着くよう窘めると改めて招待状に視線を落とす。
「完全にフィリップ様からの嫌がらせね。でなければわざわざ二日前に招待状なんて届けさせないわ」
「嫌がらせと分かっておりますし、こちらも対抗して取り合わなければよろしいのでは?」
個人的には賛同したい意見だったけれど私は首を横に振った。
「私が欠席してエンゲージケーキを持っていかなければもちろん婚約パーティーは台なしになるでしょうね。だけどその場合、お客様を私情で選ぶような店だと言いふらされるわ。その話が広まればお店の売り上げにも響くだろうし、私自身も貴族たちから狭量な人間だと後ろ指を指されかねない。……ここは無難にエンゲージケーキを準備してパーティーに出席するのが得策よ。泰然と構えて侯爵令嬢としての威厳を見せつけないといけないわ」
説明を聞いたラナはなるほどっと手のひらの上にぽんと拳を乗せる。しかし、すぐに不安そうに私を見つめてきた。
「ですがお嬢様、招待状にはいちごがたっぷりのエンゲージケーキと書かれていましたよう。ケーキを作るにしても材料は大丈夫ですか?」
「残念ながらいちごはもうないわ」
「では商会へ行っていちごを仕入れてきますね」
ラナは私の返事を待たずに商会へと出かけていった。
私は溜め息を吐くと作業台の端に招待状を投げ置いた。
「あの。お嬢様、本当に大丈夫ですか?」
ネル君が気遣わしげに声を掛けてくる。
「大丈夫よ。急な注文でも対応できる自信はあるわ」
「いや、ケーキの心配じゃなくて……」
何かを言いたそうにするネル君だったけれどグッと何かを呑み込むようにそのまま口を噤んでしまった。
「ラナはいちごを買いに行ったし。急ピッチでエンゲージケーキを完成させなくちゃいけないから、お店は閉めてしまいましょう。……折角手伝いにきてくれたのにごめんね」
今日ネル君に手伝ってもらえることはなさそうだ。
眉尻を下げて謝れば、ネル君が指をもじもじとさせながら作業台に視線をやった。
「僕もこのお店の一員だからエンゲージケーキの手伝いをさせてもらえませんか?」
「え、だけど」
「邪魔になることは絶対にしないって約束します。僕だってこのお店の一員だから……。ラナさんのように何かしたいんです」
「……っ」
可愛いネル君に切実な表情で訴えられては断れるはずがない。それに猫の手も借りたいくらい切羽詰まった状況になっているので彼の申し出はありがたいことこの上ない。
私はネル君と同じ目線になるよう前屈みになった。
「材料や調理器具がどこにあるか分かるかしら?」
「もちろんです! 休日に何度も調理器具のお手入れや厨房のお掃除も手伝ったのでどこに何があるのか分かってます」
その答えを聞いて私は「よし」と小さく頷いた。
「ネル君もこのお店の一員だものね。今からケーキづくりを進めるからサポートをお願いするわ」
「はいっ! それじゃあまずはお店のプレートをひっくり返してきますね」
元気よく手を挙げたネル君は、くるりと身を翻して店内へと駆けていく。
覗き窓から店内を確認すると、タイミングが良いことにお客様は一人もいない。
店内入り口に掛かっているプレートを裏返し、ロールカーテンを下ろしているネル君の姿を確認した私は作業台に戻ってケーキ作りに取り掛かる。
オーブンを温めている間に生地を作り、お店にある一番大きくて四角い型の中に流し込む。スポンジに穴が空かないよう空気抜きをしてから、温まったオーブンの中に入れた。
オーブンの蓋を閉めて焼き上がり時間を確認していると、慌ただしい足音とともにラナが血相を変えて戻ってきた。
「大変ですよう! いちごがっ、いちごがどこにもありません!!」




