第24話
「二人ともお待たせ。ラナがクレープと一緒にお茶を運んでくれるわ」
「それは楽しみだな」
シュゼットが席につくとエードリヒが先程の殺伐とした空気を引っ込めて和やかな雰囲気を醸し出す。二人が言葉を交わしている間にラナがワゴンでお菓子とお茶を運んでくる。
テーブルに置かれたオレンジソースが掛かったクレープは見るからに美味しそうで、エードリヒは頬を緩めた。
「相変わらず美味しそうだな」
「エードリヒ様の大好物だもの。美味しく作れないでどうするの」
たちまちネルの表情は強ばる。視線をおもむろにオレンジソース添えクレープへと落とし、今聞いた言葉を頭の中で反芻する。
エードリヒが大好物のクレープ。
彼がここに来たから作った、特別なお菓子。
たちまち、ネルの心に黒い靄のようなものが現れる。黒い靄はやがて蛇のとぐろのように渦巻いて心の中全体を蹂躙していく……。
これが嫉妬だとすぐに分かった。
――これくらいで感情を呑み込まれたらダメだ。
ネルは天井を仰ぐと息をフッと吐いた。とにかく今は誰の好物とかは脇に置いていて、シュゼットが作ってくれたお菓子を堪能したい。
気を取り直してオレンジソース添えクレープに視線を落とす。
綺麗に四つ折りにされたクレープの上にオレンジソースがかかった美味しそうな見た目。食欲そそる柑橘系の爽やかな香り。みずみずしいオレンジの隣には金口で絞られた生クリーム、その上には飾り用のミントがのっている。
ネルはナイフでクレープを一口大にカットすると、オレンジを添えてソースが零れないようフォークに刺して口へと運ぶ。
口に含めばジューシーなオレンジとほんのりと甘くてしっとりとしたクレープ生地が舌の上にのる。噛めばオレンジの果肉が弾けてさらに口の中はオレンジの甘酸っぱい味に包まれる。
――うん、やっぱりシュゼット令嬢のお菓子はどれも美味しい。
「相変わらずシュゼットの作るクレープは美味だ」
同じような感想をエードリヒも口にする。
シュゼットはエードリヒの感想を聞いてはにかんだ。
「ありがとう。エードリヒ様の大好物だから美味しいと言ってもらえて嬉しい。レシピも変えずに昔のままのものを使ったの」
「それはありがたい。改良版もさぞかし美味だろうが、昔のままの味を提供してくれたら、私は子供の頃を懐かしむことができる」
「ふふ。そう言うと思いました」
幼馴染みというだけあって二人の距離は近い。
二人の間の取り方は似ていて、それが一緒に過ごしてきた時の長さを物語っている。
ネルは二人からクレープに視線を戻すと再び食べ始める。
煮詰められたオレンジソースは甘酸っぱかったはずなのに、次に口にいれるとグレープフルーツのような苦みが広がった。
黙々と食べ続けて最後の一切れを胃に収めると、ぐっと奥歯を噛みしめる。
――シュゼット令嬢のお菓子は美味しいけど、このクレープは好きになれないかも。
ネルは口の中に広がる苦みを打ち消すためにカップのお茶を流し込む。
その間も二人は昔話に花を咲かせて楽しそうに過ごしていた。
「――それじゃあ私は失礼する」
クレープに満足したエードリヒは勝手口の前に立つと別れの挨拶をする。
「また来るぞシュゼット。……あとネル君」
エードリヒはネルに近づくと、肩にぽんと手をのせて小さな声で警告した。
「私の目が黒いうちは、シュゼットに危害を加えたらただで済まないと思え。いいな?」
エードリヒはネルから離れるといつもの朗らかな笑みを浮かべて帰っていった。
「さようなら、エードリヒ様」
ネルの隣に立つシュゼットは手を振ってエードリヒを見送った。その様子をネルは横目でちらりと盗み見る。
シュゼットが伯爵令息から婚約破棄されて三ヶ月以上経つ。当時は失恋を忘れるために仕事に邁進していたかもしれないが、そろそろ立ち直って新しい恋を探し始めてもおかしくない。
国内視察から戻ったエードリヒにとってこれは逃しがたい絶好の機会だろう。シュゼットがどう思っているのか分からないが、端から見ていると二人の雰囲気は良好だと言える。
……このままではシュゼットとエードリヒが結ばれてしまうかもしれない。
そんなの絶対に嫌だ。
俯いて悶々としているとシュゼットがうーんと伸びをしてから明るい調子で口を開く。
「エードリヒ様は相変わらず素敵な方だったわ。久しぶりに会えてとても楽しかった」
昔を懐かしむ表情をシュゼットは浮かべていたが、俯いていたネルはそれに気づかない。
言葉だけで情報を判断すればシュゼットがエードリヒに対して好感を持っているようにしか聞こえなかった。たちまち、ネルの心に不安と焦燥がずうんと重くのしかかる。
ネルは唇をきゅっと引き結ぶと切ない表情を浮かべた。
――距離を縮めようと努力したところで少年の姿をして騙している以上、僕に勝ち目がないことくらい分かってる。だけど…………諦めたくない。
眉間に皺を寄せるネルは目を閉じて長い睫毛を震わせる。
「どうしたの? 元気がないわね?」
シュゼットはネルを覗き込むようにして尋ねてきた。
「あ。いえ、別に僕は……」
どう答えるべきなのか言葉を詰まらせていると、シュゼットがぽんとネルの頭の上に手を置いてから撫でてくる。続いてやにわに口元を耳元に寄せてくると、悪戯を打ち明けるように囁いた。
「実を言うとね、クレープとは別でネル君のためにクッキーも焼いてあるのよ。今から一緒に食べましょうね」
シュゼットはネルから離れると目を細める。
「クレープの味付け、ネル君の好みとは少し違っていたの。だからきちんとあなたの好きな味で楽しんでもらいたくて」
ネルは目を瞠った。まさかわざわざクレープとは別にクッキーを焼いてくれていたなんて予想していなかった。
他の誰のためでもない自分のためだけに焼いてくれたクッキー。
それだけでネルの心に重くのしかかっていた不安も焦りも苛立ちもスーッと消えて軽くなっていく。
ネルは胸の上で手を重ねると小さく息を吐く。
「うん、一緒に食べる……食べるよ。お嬢様」
近い未来、必ず真実をシュゼットに伝えなくてはいけない。だけど、今はまだこの関係のまま側にいたい。
――これが我が儘なのは分かってる。だけど、嫌われるかもしれないその前にもっとお嬢様との時間を過ごしたいから……。
「さあ、行きましょう?」
優しい眼差しを向けるシュゼットがネルの前に手を差し出す。
ネルは小さく頷くとシュゼットの手を取って、しっかりと握り締めるのだった。




