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第10話



 パティスリーを開店させてから三ヶ月が過ぎた。

 売り上げは当初の予想を上回り、連日多くの女性客で賑わいを見せている。特にネル君目当てのお客様は多く、彼が出勤する時間帯はとても混雑する。

 お陰でいつも閉店時間になる頃には、ほとんどの商品が売り切れていた。

 また最近はうちの焼き菓子をお茶会に使いたいと貴族のお屋敷から注文も受けるようになった。要望を聞いたり、量をたくさん作るのは大変だけど、私はこの忙しさが心地良くて満足している。

 何ならフィリップ様のために心を砕いていたあの頃よりも今の方が生き生きしていると思う。


「ここ数年で今のお嬢様が一番幸せそうです。あのクソ男と婚約している間は常に眉間に皺を寄せていて怖かったですもん」

 客足が一段落ついたのでショーケースへケーキを補充していると隣にやって来たラナがそんなことを言い出した。

「まあっ、そんなに怖い顔をしていたの?」

 驚いた私は思わず動かしていた手を止めてラナに顔を向けた。

 四六時中怖い顔をしている私に仕えるのはさぞやりづらかっただろう。

「特に一年前、クソ男が女狐に現を抜かすようになった頃は酷かったです。まあ、ストレスが重なったことが原因だとは思いますけど」


 思い返してみると、彼との婚約中で一年前は特にやきもきさせられていたような気がする。立派な伯爵夫人になるために毎日夜遅くまで勉学に励み、その後にメイクもファッションの研究もしていた。

 大好きなお菓子作りは我慢していたし、睡眠時間もほとんどなかったような気がする。

 ――生きがいであるお菓子作りを封印して寝る間も惜しんでひたすら頑張っていたら、怖い顔にもなるわね。ラナには悪いことをしてしまったわ。

 当時のことを思い出して申し訳ない気持ちになっているとラナがくすりと笑う。

「ですが今は違います。以前のお嬢様に戻りましたし、毎日とても楽しそうなので私も嬉しいですよう」

「気苦労を掛けさせたみたいでごめんねラナ。婚約中は確かに毎日世界が灰色に見えて仕方がなかったわ。だけどフィリップ様と婚約していたお陰で経営学や経済学なんかのお店を運営していく知識が得られたから。あの数年間は無駄じゃなかったと思うわ」

「我が家のお嬢様は謙虚ですね。私だったらそんな風には絶対に思えないですよう。ところで、もうすぐネル君がお遣い先から帰ってくる頃じゃないですか?」

「本当だわ。ネル君のお茶の準備をするから後は任せても大丈夫かしら?」

「はい。お任せください! まったくもう、ネル君たら贅沢ですよう。彼ったらお嬢様の淹れるお茶じゃないとダメなんですよう」


 ラナは頬を膨らませてぷりぷりとしている。

 ある時ラナがネル君にお茶を淹れようとすると「お嬢様が淹れたお茶が飲みたいから大丈夫です」と言って断ってきたらしい。

 その話を聞いて以降、ネル君には私手ずからお茶を淹れている。

 可愛いネル君に指名されて嬉しい反面、ラナにはなんだか申し訳ない気持ちになる。

 私は肩を竦めると宥めるようにラナに言った。

「後でラナにも美味しいお茶を淹れるからね。もちろんお菓子もつけるわ」

「それは嬉しいです。お嬢様のお茶もお菓子も大好きなので楽しみにしてますね!」

 ラナはお盆を小脇に抱えるとストック分のお菓子を取りに厨房に引っ込んでしまった。



 私が店内に備え付けられた小さなキッチンでお茶の準備をしていると、厨房の扉が開いた。

「ただいま戻りました!」

 ネル君が元気に店内へやってきたので私は「お帰りなさい」と返事をする。

「商会へ材料の追加注文をしてくれてありがとう。ここからは少し遠いし、疲れたでしょう? お茶の用意ができているから飲んでね」

 ネル君をイートインスペースへ案内して私はテーブルの上にお茶を置く。

「その前にお嬢様にこれを」

 ネル君は後ろ手に組んでいた手を前に持ってくると、真っ白のデイジーの花束を差し出してくれた。


 小ぶりでまん丸なデイジーの花束を受け取って感銘を受けているとネル君が口を開く。

「商会でお花を卸している人から聞いたんだけど、デイジーの名前の由来は『太陽の目』から来ているらしいの。それでね、僕にとっての太陽はお嬢様だなって思ったからこれを贈りたくなったんだ」

「えっ?」

 私は一瞬なんと言われたのか分からずにキョトンとしてしまった。

 ワンテンポ遅れてまだ十二歳くらいの少年に口説かれたことに気づくと私は目を見開く。

 どこでそんな言葉を覚えてきたのかは分からないけれど、美少年のネル君に言われて嫌な気はしない。寧ろ告白めいた言葉に私は完敗していた。


 ――ネル君ったら早く大人になりたくてうずうずしているのね。私で練習するのは良いけど、ちょっぴりドキドキしちゃうじゃない。

 前回同様に心臓はドキリとしてしまうがこの間のような動揺は私にはなかった。だってネル君が私を本気で口説きに掛かっている訳ないことくらい火を見るより明らかだから。

 私は花束を受け取ると顔を近づけて目を細める。

「ありがとうネル君。ネル君にそんな風に言われて私は幸せだわ。このとっても可愛いお花は店内に飾らせてもらうわね」

 私が口元を緩ませているとネル君が真顔で話を続ける。

「お嬢様は僕をいつも温かく迎え入れてくれて、太陽みたいに眩しくて素敵なの。僕は本気でお嬢様のことを……」

 そこで丁度、チリンチリンとドアベルが鳴った。

「あら、お客様だわ。ネル君また後でね」

 半個室になっているイートインスペースから出るとお客様のもとに向かう。


「いらっしゃいませ。どうぞゆっくりとご覧になってください。何か気になることなどありましたら遠慮なく仰ってくださいね」

「実は今から義母に会いに行くんですけど、喜んでもらえそうなものはありますか?」

「こちらのお菓子は甘さ控えめでしつこくない味わいで――」

 ラナが厨房から戻ってくるまでの間は私がお客様の要望に応えなくては。

 たまには自分の作ったお菓子の魅力を伝えるのも悪くない。どんなお菓子を持って行ったら喜ばれるかああでもないこうでもないとお客様と話すのは楽しかった。


 話に熱中し過ぎていた私はネル君がイートインスペースから顔を出して、唇をキュッと引き結んでこちらを眺めていることにちっとも気づかなかった。



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