菫色の黄昏の空、薄桃色した花びらの下で、くちすいをひとうつ。
昔若い時、ちょっと小さな恋をしたわ。
その時ね、ちょっと大きな失恋もしたの。
そしてね、男という生き物に幻滅したの。
どうしようもなくなって、助けてほしいと頼んだの。お嬢様の身代わりを努めたら、妙なぼんぼんに惚れられ、旦那様がお断り下さった後にも諦めず、私が外にお使いに出ればちろちろつけ狙う。
「お願い助けて」
気になる相手にそう頼んだら。何故か見つめられた後、唇を重ねてきた奴。少し甘い時が終えると、次はしょっぱい言葉。
「うーん。助けてやりたいのは山々大山。こっちゃぁ、しがない雇われ人、あっちゃあ、変な野郎だが、お大尽のぼんぼん。玉の輿だろ?」
逃げやがった。じゃぁ何でこんなことした?と聞けば。
「そりゃ……、好きだから、その。渡したくないし……、でも俺じゃぁなぁ……」
コイツもとんだトンチキナメクジ野郎だった、私が初めて惚れた相手。
張り手一発で終わりにした。その足で町外れの小屋へと駆け込んたのは言うまでもない。
外れを目指して走った日が暮れる土手の上。そこには川辺に沿い扁桃の木がずらりと並んでいる。ひらひらと落ちる薄桃色の花びら。
甘くて苦い記憶を懐かしく思い出せるのは、それから時間が随分過ぎて周りも変わり、呪い師の家で下働きをしながら、気がつけば四十歳になったから。
「ま!ゴメン!待って!やっぱ……」
遠くで声が聞こえた気がしたけど、それを無視して駆けた春の暮。
私が産まれた季節。初めて可愛く淡い恋した季節。
私が初めて男、しかも二人の頬を張った季節。
若かったなっと思う。
☆
産まれた日。人生八十迄生きるとすると……、何か区切りの気がする、不惑とされる、四十になった私。
たまには外に出てこい!男を捕まえろと、主のオババから強制的にお休みを押し付けられ、今日は女独りでそぞろ歩きをしている真っ最中。あちこちお店を覗くだけ。無駄遣いはしない主義。
だって私はこの年で独り身なんですもの。若い時にはここを出て嫁に行けと、よくオババに言われたけれど。
変なぼんぼんとナメクジ野郎のおかげで、男に幻滅している私は、オババとの気楽な暮らしに満足していて、今の今迄ズルズルとそこに居た。
彼岸此岸にお仕着せもあり、少しばかりの給金もあり、粗末だけど寝る場所もある呪い師の下働きの暮らし。
女 四十、旦那無し、子無し、しがらみ無しの無い無い尽くしは将来が見えないが、毎日は極楽蜻蛉。そんな私にオババは言う。
「私の跡を継ぐのは良いけど、それには男を知らないとね。恋の妙薬惚れ薬、花魁姐さんストライクってさ、媚薬の注文はうちの稼ぎ頭だからね!好きな男の顔ぐらい思い出してやれ!扉が開かん!」
媚薬かぁ……、色々な薬を仕込まれたけど、おぼこな私が処方すると、それだけは全くもって効果無し。そうだろうと思う。私はすっかり男に夢を持つことは無かったから。
初めて惚れた男の顔を思い出す事もしなかった。
なので私はあの日からこれ迄、恋する気持ちもなく、そしてイイ人に出逢う為に、町中に出向くことも無く、ズルズルと生温い町外れで引きこもって暮らしていた。
☆
あちこちに植えられている、薄桃色の枝垂れ桜の花が咲いている町中は、あれから随分経っているのに、あまり変わりは無い様に感じた。
両手の指の数程年数、訪れて歩く事が無かったせいか、少し草臥れた。街路樹の下に座るのにお誂えな大きな石があるのを見つけ、座ってひと休み。春は午後の日差しが強い時がある。巾着から扇子を取り出すとハタハタ扇ぐ。
若い時なら一日中歩いても、草臥れる事などなかったのに。年を感じる。そして、我ながらケチだと思う。誕生日なのだから何処か甘味処にでも、入ってもいいのだ。だけど最近、ふと思うのよ。
町中で暮らしてみようかなって。
実のところ、怪し気なオババの跡を継ぎたいとは思ってない。本当は、溜め込んだ給金を元手にし、一文菓子屋でも開いて暮らしてみるのもいいなと思っている。
お腹がくぅ、と鳴いたので、巾着の中から小さな竹の皮の包を取り出すとその場で開いた。中には散策途中に立ち寄った神社の境内で屋台が開いていた。
そこで仕入れた三角形のお稲荷さん。取り出すとそのまま齧り付いた。通り行く人の目があるけど構わない。風が吹くと上から落ちてくる花びら。
ひとつ、ふたつ。何処の花びらが風に乗りひらひら舞う。それを目にすると、あの日の事を思い出すのは。
今日と同じ様に、薄桃色がはらひら舞う日だったからかもしれない。
☆☆
今とはまるで違う毎日だった、お屋敷仕えの若い時。まさかあんな事になるとは思いもしなかった。
その日は気の進まぬ縁談に鬱々としているお嬢様と、示し合わせた通り、朝の小鳥が鳴く前にこっそりとお屋敷を抜け出て、町外れの小屋に住む呪い師の婆さんの家に行った私。
「キヒヒ。よう来ましたね。お嬢さんからたんまり頂いておりますよ、それにしても、色の黒いちんちくりんな娘やねぇ。まっ、そうである程、化けれるけどね」
鷲鼻ギョロ目のオババがギョロギョロ私を見て言ったわ。失礼だけどそうなのだから仕方がない。
先ずはパサパサ、猫っ毛で赤毛な髪を、真っ直ぐつやつや黒髪に変えなあかんと、言うと『これで貴方もつやつや髪になれーる花油』をぶっかけられ、マジをブツブツ唱えつつ、柘植の櫛で痛いほど梳くを、何回も繰り返したの。
これだけで半日が過ぎてしまった……。とんでもない猫っ毛じゃの!追加料金取らにゃあかん!とボヤく強欲オババ。
「飯代も茶代も請求しなきゃ!」
と言いつつオババは、団子や雑炊を出してくれた。
「よし。何とか術が染み込んだ。髪は布で包んで置いとけば大丈夫。次は真っ黒の日焼けをなんとかせにゃ、そばかすもな」
そこでオババが取り出したのは、花魁も使う『お江戸の花の水』、何でも猪の爪や、香木やらを何時間も煮込んだものらしく、とろりと香りの良い代物を、顔はもちろん、うなじ胸元、くるぶしにも塗り込む、塗り込む。その上から兎のお尻のお毛々で、白粉花から取り出した白粉をパタパタ叩かれる。
顔も首も胸元も、パタパタ、パタパタ。クシュン。くしゃみをしたら怒るオババ。
「こりゃ!鼻水禁止!くしゃみをすればそれ迄だよ!ここではいいが、外でやるとたちまち、かけた術が解けるからね!覚えておおき!」
庭仕事も手伝う私は、日に焼け髪も肌もカサカサで黒い。それを『色白もっちり』にすべく、オババは頑張っていた。
「で!ちんちくりん。お前さんは別嬪な娘に化けて、何をするのか知ってるのか?」
「あ、はい。お見合い相手に、お嬢様の代わりに縁談の破棄をお願いしに行くのです」
そう、お嬢様がお見合いする為に用意された店のお茶室は私みたいな女中丸出しの見目だと、玄関先で追い払われる。お嬢様がお振袖を私に着せかけ、どうにも似合わないので、呪い師のオババを頼った訳。
「ちんちくりん!お前は男を知っとるのか?」
真面目に答えたのに、オババは目をさらにギョロギョロさせて面白そうに聞いてくるのには、少しだけムッとしたわ。
「こ!これでも一緒に、ご飯を食べる相手のひとり位はいるわ!お嬢様にどうするのかもようく教えて貰ってるし、危なくなったら逃げろと言われてます。私は逃げ足だけは速いです」
何故かこの時、同じ屋敷で働いていた、三太の顔が浮かんだの。嘘は言ってない。台所で膳をいっしょに取ることがあるもの。
その時、二人で色んな話をしてた。
その時、二人で笑って話をしてた。
その時、とっても嬉しくて楽しくて暖かかったの。
三太は少しだけ、私の中で特別な感じだった。
三太もそうなんじゃないかな?て、煎餅布団の中で甘く考えていた私。
ドキドキが始まった。頬が熱くなり、塗り込めらた水と白粉が乾いてカピカピになる気がする。手早く化粧を私に施したオババ。紅を玉虫色に光るよう幾度も繰り返し引いていた。
どれ、髪の毛は……、良い具合だよ。とオババか布を外し、高島田に結い上げながら。
「……、ちんちくりん。やめておけと言いたい。お前は見合い相手がどんな男か知っとるのか?男の事はしっかりと!調べてから、事をせなならん。何かあったらここに来なさい」
憐れむ様な言葉を私に言ったの。その時は意味が全然、分からなかった。
若かったなっと、思う。
☆☆
「……、それにしても、くしゃみで解ける様な術、チンケだと思うわ、解けさえしなかったら何とかなってたかもしれないのに、いや。ならないか」
モグモグ。じゅわりと甘い煮汁が口に広がり、酢飯がホロロと崩れるお稲荷さんを食べながら思い出す。
――、「あれれ?君は僕のお相手とは違うよね?僕は知ってるんだ、ママンにちょっと似てたから彼女。だからお見合い相手に選んだのに……、でもまっ!いいや!君の方がママンに目が似てる!ああ!ママン!」
向かい合わせに座るなり、いきなり手を取られた私!断る口上を述べる間もなく、ぼんぼんが迫る!
もし襲われそうになったら頑張って!と教えられていたから、思わず、一発手を振り上げてしまった。狭い茶室に響く頬はつる音。
空っぽそうな頭にクワンクワン来たのか、変な事を言い出した流行りの洋装を着込んだ、ぼんぼん。
「ふぉ!何という素晴らしき平手打ち!おおう!ジンジン股間に響いて来る!嫁に来ないか」
ひー!もしやお嬢様、この人の性癖をご存知だったのかも!だから私に!お嬢様はお顔が広いからきっと知っておられたに違いない!酷い!と思いつつ、ぼんぼんに立ち向かう私。
「彼女は僕のことは知らないけどね。僕は彼女の事は何でも知ってるんだ、ママンにどっか似てたから。でも!君の方が死んだママンにそっくりだ!そうやって何時も叱ってくれたママン!」
狭い茶室でジリジリと迫ってくるぼんぼん!貞操の危機を察した私。バタバタとはしたなく畳の上で動いていたせいか、埃が立ち、くしゃみが出てしまって……、よりもよってぼんぼんの前で術が解けてしまった。
「ふおお!茶色の髪!ますますママン!ああ……ママン!ママン。僕ちんのことを、ぎゅってしてぇ」
僕ちん?ひー!気持ち悪い。そんな私の事など気にもせず、全力で迫るぼんぼん。着慣れぬお振袖の袂を掴まれたら、きっと逃げられない。なりふり構わず、間近に来たぼんぼんの顔を、遠慮なしに張り倒す。
響き渡る音!そして感動のあまり?、うっとりとし、涙を流すぼんぼんが赤くなった両頬をさすり、動けぬ内に這々の体でその場を逃げ出した。
裾を絡げて草履を手に持ち、韋駄天の様に路地裏を駆けて屋敷に戻ると、大騒ぎとなっていた。何とぼんぼんから、私を迎えに行くとの手紙が早々に届いていたから。事の顛末をバラされ旦那様と奥様に、こっぴどく怒られた、お嬢様と私。
「仕方ない。お前を養女にして嫁に出す」
ひー!旦那様!それだけはお許し下さいまし!と畳に額をこすりつけて頼んだ私。お嬢様も真珠の涙を零しつつ、共に頭を下げて下さった。何故?と奥様が聞かれたので、茶室でのママン事件を、ほんの少しだけ盛って報告をした。
「旦那様。そんな御方とのご縁はお断り下さいまし!」
奥様のお言葉で私は救われたのだけど……。ぼんぼんはしつこかった。外にお使いに出れば、つけ狙う。毎日毎日、ご機嫌伺いにやってくる。気持ち悪いしかない私。
旦那様にもご迷惑をおかけしてるし、お嬢様は胸を痛めて寝込んで仕舞われるし、皆も最初は面白そうにしてたけど、早くなんとかしろと、無言の圧を私にかけてくるし……。にっちもさっちもいかなくなって、三太に助けを求めたら。
張り手一発で初恋は、儚く敗れ去っていった。
若かったな、と思う。
☆☆☆
さあ、帰ろう。空の色が菫色に変わる頃、川辺の道をホロホロとオババの元に向かって歩く。あの日と同じ様に、薄桃色の扁桃の五弁の花が咲いている。
この道で待って!と聞こえた気がしたけど。振り返らなかった私。振り返っていたらどうなったのだろう。三太の田舎とやらに逃げて、そこで田畑を耕して暮らしていたかもしれない。
それか街道で旅人相手に、小さな茶屋を開いていたかもしれない。
振り返らなかったのは、ただ私が怒っていたから。だから、三太の事を嫌いか?と聞かれれば首を振ると思う。彼と話している時はとっても幸せだったから。
唇を重ねた時は時間が止まったら良いのに!て、念じたから。
同じ町に住んでいるというのに、お屋敷勤めの三太と町外れの呪い師の家で暮らす私と、出逢う事が全く無い。勿論、山の手から出る事がほぼ無い、ぼんぼんとお嬢様にも。
あれからぼんぼんは、別のママンに似た御令嬢を見つけたとかなんとか、そしてめでたく結婚をしたと噂で聞いた。今考えると、少しばかり腹黒かったお嬢様も良い御方と出逢い、嫁に行かれたとか。
私だけがケッチン喰らい、独りで石蹴り歩いてる。
「男捕まえろって、オババ。そんなの何処にも落ちてなかったよ、三太も、もうきっと私の事なんか忘れてるんだろうな、一度も来たことないもん!知らない!あんなヤツ」
このままだとオババの家から、追い出されるかもしれない。巾着をブンブン振り回し、少しだけ薄青に菫色が入り込んだ黄昏時の空を見上げたら、仲良く家に帰る鳥の番い。
「あーあ!帰ろう、オババは多分待ってないけど!」
私は大きな声を出した。今の今迄、思い出す事が無かった好きな男の顔を思い出したせいか、ムシャクシャしていたから。
そして唐突に、出けにオババから言われた事を思い出す。
「鳥が見えたら振り返れ!今日の占に出ておる、見えなかったら終わりじゃ、クククク」
見えたら振り返る……、言われた通りに振り返ると。
扁桃の花の並木道。ホロホロと花びらが舞う。見覚えのある顔が頼りなく立っていた。年取ったな。おい。つぶやく私。
「あの、覚えてる?さ、三太だけど」
「うん、覚えてる。お互い年取ったね」
立ちのままで話す私達。
「今更来る?」
「その、あれからたまに来てたんだお屋敷から休み貰った時に、でも何故かこの先から進むことが出来なくて。引き返してた、あのときはゴメン。本当に。意気地無しだから……でもお夕の事は忘れた事は無かったよ!」
オババの言葉が頭に浮かぶ。
『好きな男の顔ぐらい思い出してやれ!扉が開かん』
「あー、私のせいか」
裏切られた気がした。
嫌いになろうと努力した。
悲しかった。寂しかった。
だから思い出さない様にしている内に。心の中に深い穴掘って、しっかりと埋めていたみたい。
少しだけ話がしたいな。と頼まれて私達は土手の上に座った。青いふぐりの花が空見上げて咲いている。上からは薄桃色の花びら。
「扁桃の花だ。お屋敷も今満開だよ」
「みんな元気?」
懐かしい毎日を思い出す。廊下を磨くのが下手と女中頭にどやしつけられたのも、いい思い出となっている。それから他愛の無い話を沢山、たくさんした。
これ迄の分を取り戻す様に、それはもういっぱい。いつしか顔を寄せ合い話をする程、二人の距離は縮まっていた。
心が恥ずかしいって、言っている。この年になって何を浮かれてるって、でも楽しくて嬉しくて、胸の中が小娘の時の気持ちが蘇り、大きく大きく膨らんで行く。
「三太は、独りなの?」
話の合間に聞いてみた。
「うん、今はね。前に一度、周りに勧められて断り切れなくて……、嫁さん来たけど、直ぐに出て行った」
「はい?何で?ママン!とか言ったの?」
そうだよね。少しだけがっかりした私。シュンと萎む恋心。
「ぼんぼんじゃあるまいし、そんな事言わない。何ていうか、他に女が居るってよく言われたな」
苦笑したあと、熱い物をいっぱいためた目で、あの時と同じ様に見つめてくる三太。
「他にいるの?」
どきどきしながら私は問いかける。急速度で膨れ上がる恋心。パンパンになるのがそれはもう、速い!
「うん。目の前に」
キザなセリフが返ってきた。どうしたらいいのかわからなくて、じっと身構えていると。
肩を引き寄せられて、そろりと唇が重なる。
空は菫色。黄昏の時。扁桃の花びらがはらひら舞い落ちる中、小さくひとうつ。私の心の蔵は跳ねて踊って駆けて、今にも止まりそう。四十路には厳しいわ。
土手の上、三太の香りと熱にとっぷり包まれて、とろける様に甘く心地よい痺れと相混ざり、身体中を走り回り私を襲っていた事は。
久しぶりに出逢った二人だけの……。
秘密。
終。




