人と魔
老人はためらうように沈黙した。
時雄は、ひどく出来の悪い怪談を聴いているような気がした。
- エアコン、効きすぎだろう。 ―
とホールに備え付けの空調に首を回してにらむと、自らのYシャツの脇が、ばかばかしいほどの汗で濡れていることに気づき、舌打ちをこらえる。
その間に、伊勢は決心して、再びしゃべりだした。
「停電が起きたら、事ははやかった。
ショートを起こしているのは施設内部の設備だからね。
まず、腕時計を外して作業用ズボンに押し込んだ。
当時のマニュアルでは、感電防止で金属品は腕から外すということになっていたんだ。
次に、机の下に用意しておいたライトと工具箱を取って立ち上がって、壁にかけているヘルメットをかぶって、予備電源で照明を回復してから、早足で向かったよ。
……長年してきた作業だからね、
体というより、指先が覚えている。
変哲のない仕事だけれど、社会を支えているという自負はあった。
仮復旧にかかる工程は9つあってね。
9つといっても、実際は8つで最後の1つはボルトをひねって
緑色のアメリカのチョコレート菓子、エムアンドセムズだっけ? あれみたいなスイッチを押す。
というそれだけのものさ。
僕は夢中で作業をしたよ。
そこにはどんな無駄も迷いもなかった。
自分でも神がかっていたと思う。
なんせ、どんなにがんばっても40分を切れなかった作業がね。
39分で8工程終わってしまったんだ。
君には分からないのも当たり前だけど、これはすごいことでね。
8工程終わって壁掛けの時計を見上げて、びっくりしたさ。
午後の8時9分。
僕は迷わず最後のボルトをひねった。
それから、エムアンドセムズを押そうとした。
けど、止まってしまったんだ。
手のひらの皮膚はスイッチの緑の塗料コーティングに触れていたし、その冷たさも伝わってきた。
けれど、押せなかった。
僕はスイッチの丸みに手のひらをあてたたま、時計を見上げた。
午後の8時10分。
1分すぎていた。
でも、まだ時間があった。
十分すぎる時間だ。
僕の平均より10分も速く終わったんだ。
境間の希望である、午後の9時00分までは50分も時間があった。
それは幸いなこと、だと思うだろう?
でも僕には、苦痛の時間の始まりだった。
そう。
あれは苦痛だったんだ。
手のひらに力をこめるだけでいい。
それだけで、選択はできる。
僕は作業を正しく完了する。
あの悪魔は僕から興味を失うだろう。
僕は人として正しくあれる。
賢太だって悲しまない。
けど、僕が、今、9つ目を完了したら
他の現場の誰かと、その周りがここと同じ目にあうんじゃないか、てね。
小学生3人の遠い先の未来より、まず、今にかかわる不幸を防ぐべきなんじゃないかって、ね。
いや、違う。
やっぱり違う。
僕は、違うんだ。
あの悪魔が言葉と形をくれた、僕の願望が、このスイッチを押したら、永遠にかなえられない。
そのことをね。
僕の無意識みたいな、もう一人の僕が拒否したんだ。
僕は雑学がすきでね。
心理学の本も読んでいたんだけれど、人の心は複雑でね。
今詳しく説明はしないけれど、気がつくことができないもう一人の人が、全ての人の中にいて罪に痛みを覚えたり、欲求に不満を覚えたりするんだけどね。
僕の願望の主は、その無意識で、押すことを拒否していた。
金縛りにあったみたいに
手の先が動かないんだ。
細かに震えてはいる。
でも、動かない。
時計を見上げると秒針は、ひどくゆっくり進んでいく。
この時計、1秒に何秒かけるんだ? と、僕は本気で腹が立ったよ。
それでも、分針は進んでいく。
50分間を越えた、つまり午後8時20分を越えたときに。
僕は境を越えてしまったと思った。
けど、90分の午後9時00分までは40分近くある。
僕は、上手く言えないのだけど、人と魔の狭間に入り込んでしまったような感覚を覚えた。
鼓膜の内側に管弦楽のような、かすかな甘い響きと
酩酊を覚えた。
これはまずい、と思ってね。
僕はスイッチを押してその狭間から出るためにね
自分自身の説得を始めた。
停電ははやく直さないと沢山の人たちが迷惑する、だとか。
査定に響く、だとかね。
踏ん切りをつけろ、情けないヤツめ、と自分を叱ったりした。
けれど、どうしても手は動いてくれないんだ。
その間にも、ゆっくりゆっくりと
時間をかけて時計の針は進んでいく。
60分間を越えた、つまり
午後8時30分を越えた。
僕はひたすら焦っている。
金縛りとかじゃない。
大学受験の数学で掛け算の答えが出てこない受験生みたいな焦り方だった。
70分間を越えた、つまり午後8時40分を越えた。
このときはもうへとへとになっていてね。
そもそも悪いのは賢太を殺した君たちだし、もう、いいんじゃないか、午後9時00分を待てば、とも思った。
80分間を越えた、つまり午後8時50分を越えた時。
それでも仕事人かと、自分を罵倒したよ。
こんなことじゃ、霊園で眠る妻の加代子にも賢太にも顔向けできない。
……胸をはって、堂々と一緒の墓にはいれないじゃないか!
てね。
そう思ったとき、僕の中で何かが、ごろりと動いた。
押せると思ったんだ。
実際、押そうとした。
けど、そのとき、僕が、僕を眺めているような感じがして。
ひどく冷静に、思ったんだ。
賢太も加代子ももういない。
墓で眠っているってのは、眠っていると思いたいだけだ。
顔向けとか、仕事とか、そんなものに意味はない。
賢太が生きていた時には、それが意味だったけれど、そんなものは、とうに、喪われてしまった、とね。
僕はふたたび止まってしまった。
時計もみなかった。
体感時間はめちゃくちゃだったし。
12時間以上金縛りにあっているような、そんな感じだった。
けどなぜかわからないけれど、壁の時計を見上げたら、89分間と30秒を越えていた。
つまり午後8時59分30秒を越えていた。
僕は自分でも説明のつかない迷い方を10秒間して、緑の丸いスイッチを押した。
全身の力ではない。
普通に押した。
復旧したのが分かった。
街に灯かりが戻ったのもね。
そして、僕が人と魔の境間を抜けたことも分かった。
愚かで最悪な選択をせずに済んだ、と嬉しかったというより、
ほっとして、もう一度壁の時計を見上げたら、午後8時59分30秒
でそれは止まっていた。
僕はぎょっとして、あわてて作業用ズボンから腕時計を取り出して、本当の時間を確認した。
腕時計はね。
午後9時00分15秒をさしていたよ。
……どこまでが、悪魔の仕業でどこまでが運命か分からない。
壁掛けの時計は壊れていた。
僕がね、瀬戸際にいると思って迷っていた10秒間の間にね、もう僕は狭間を越えていたんだ。
僕はもう一度腕時計を確認して『仮復旧作業完了:21時00分』
と書いて、ぽつりと言ったんだ。
『ちちんぷいぷい』
てね。
その時、後ろから視線を感じた。
振り返ると。ネズミがいた。
黒目だけの瞳がきらきらしていたよ。
そう、霊園で初めに会った、ネズミだ。
忘れもしない。
あれが僕を見上げてね、こくん、とたてに首を振ったんだ。
僕は『違う……!!』
と、悲鳴みたいなかすかな声をね、
喉の奥から搾り出して、首を横に振ったんだ。
ちちんぷいぷい、は契約の言葉で、境間との初めての約束だ。
ネズミ首をきょとんと傾げてね。
僕は『違う違う違う違う違う……!!』って、サスペンスドラマに出てくる冤罪にはまった大根役者がするみたいな大げさな首の振り方を何回もしてね。
命乞いするみたいな顔をして、その小さな一匹に近寄るとネズミはくるりと後ろに逃げ出した。
でも、逃げ方が変なんだ。
穴にはいるんじゃない。
通路をまっすぐに駆けていく。
滑るようになめらかにね。
閉じておいたはずの施設の扉は全て出口まで開いていて、後で考えたら不思議なんだけど、その晩の僕は、ネズミを追いかけることに夢中で、そんなことはお構いなしだった。
僕はその悪魔の使いを追いかけて、呼吸も忘れて一気に施設の通用門まで駆けた。
狭い扉を抜けると、カラスたちが、僕を見ていた。
施設の敷地を覆うフェンスにぎっしりひしめき合ってね。
フェンスのみならず、敷地の地面、変電コイルの隙間という隙間を埋め尽くして、それこそ、ヒッチコックの鳥って映画みたいに、無数の無感情な瞳が僕に目を凝らしていた。
僕は、怖い、というより圧倒されてね。
圧倒されながら、フェンスの向こうの街の明かり、夏の夜の闇に浮かぶたくさんの暖かい光の点にね。
きらめきと美しさを感じた。
その時、僕の作業靴をね。
ネズミが齧っていることに気がついて、『わっ』といって飛びのいたら、ネズミは僕を見上げて『チチンプイプイ』と言ったんだ。
僕は『違う』といって、首を横に振った。
カラス、僕の正面のフェンスにとまっていて、最初に僕と目が合った、カラスがね。
割り込むように『チチンプイプイ』と言った。
僕はやはり、『違う』といって首を横に振った。
頬に痙攣を感じた。
カラスはかまわずに『チチンプイプイ』といって、隣のカラスも『チチンプイプイ』その隣も。
あっという間に全てのカラスが
『チチンプイプイ』
『チチンプイプイ』
『チチンプイプイ』
『チチンプイプイ』
『チチンプイプイ』
『チチンプイプイ』
の大合唱を始めてね。
僕は気が狂うかと思った。
あるいは、気が狂ってしまったのか、とね。
すると例のカラスは『チチンプイプイ』をしわがれ声で叫びながら天空を見上げて、ばさっ、と羽根を広げてそのまま螺旋を描くように、7月10日の円に近い月に向かって羽ばたき始めた。
やつはリーダーなんだろうな。
他のカラスも続く。
完璧に近いカラスの螺旋が月までの夜空にできたらね、まだリーダーに続いてなかったカラスが、初めのカラスと逆の螺旋を描くようにして、やはり羽ばたき始めた。
他のカラスも続いた。
紺色の夜空に、巨大な暗黒の二重螺旋が現れて、銀色の月光に照らされていた。
あの光景を見上ると、おそらくオーロラを初めて見る人みたいな息の呑み方をしてしまうと思う。
それくらい、現実感からかけ離れた、幻みたいな美しさだった。
でも、僕はそんなことなんか関係がなくて、ずっと、『違う違う違う違う違う違う違う違う……!!』って、口走っていたよ。
その美しさは、死、をはらんでいたからだ。
カラスが全部、飛び去って遺伝子が作るような二重螺旋が銀色の月に吸い込まれ切ってからも、僕はずっと『違う違う違う違う違う違う違う違う……!!』とつぶやいていた。
応援職員が到着して、僕に声をかけるまで、ずっとね。
幸い悪魔は彼らには手を出さなかった。
けれど、停電と夕の渋滞も重なって、大分遅れた。
優秀ならもっとはやくこれたけれど、普通だったから、境間の魔からは逃れたんだろうな。
僕は彼らの声でわれに返って、ネズミを探した。
けれどもちろん、ネズミも姿を消していた。
職員は僕の様子を心配して、市立病院の時間外外来の受診を奨めてくれたけど、僕は断った。
停電の顛末書を書かなければいけないし、それに、もしかしたら、悪魔本人がやってくるかもしれない、来るならこの施設しかない、と思ったからだ。
けどね。
悪魔は来なかったよ。
夜勤の朝は来て、顛末書も出して引継ぎも終わって。
人と魔の狭間とか、使い魔のネズミとか漆黒の二重螺旋とかから現実感が戻らないまま、賢太のいない自宅に歩いていると、僕の歩く歩道と車線を隔てた向かいの歩道、登校する小学生たちの群れの中に、君をみかけた」