悪魔的ドミノ
老人は言葉を一旦切った。
三回目の錠剤を口に含み、茶で流し込むと、嚥下が上手くいかなかったのだろう、しばらくむせた。
喘息をこらえるかのように、呼吸を整える姿は弱く哀れだったが、時雄には介抱の気はおきなかった。
それどころではなかったからである。
現実感の喪失。
恐怖。
焦燥。
罪悪。
それらは彼の心持ちを表すのにすべて正しく、そして全て間違っていた。
とても複雑な彼の胸中は、結局は、影、という言葉に集約される。
その影はこれまでにないほど大きく時雄を浸し、彼の全ての細胞と細胞の隙間を浸していく。
間に、賢太の父親は呼吸を回復し、再び言葉をつむぎ始めた。
「その日は僕は通常どおり出勤した。
当時の交換所は、今と違って不備も多くてね。
その不備を昼勤夜勤の二交代の人海戦術でうめていたんだが。
職員はそこまで多くもなくて。
結局24時間勤務はざらだった。
僕は前の週に、7月10日の勤務を断ることができた。
せめて昼勤務だけ、とかね。
けれど、『墓場で会った悪魔みたいな男が怖いのでお休みをください』なんて言うことはできないし、別の理由を繕うこともできたけれど職場に嘘はつきたくなかった。
今考えたら、無理やりにでも休んで、それこそハワイでもサイパンにでも逃げ出せばよかったと思うよ。
でも、僕はできなかったし、実際問題。
勤務は僕だけじゃない。
昼間は何人も人がいる。
請求をかけた部品は境間の予言のとおり、届いていなかったけれど、仮復旧には要らないものだ。
請求をかけた時点で調達先から品不足なので時間がかかる、て連絡を受けていたからね。
何より、僕は昼勤であがる予定だった。
だから、つまり何かが起きても他の職員と対応できる。
つまり、境間が僕に突きつけた選択は、選択自体が成り立たない。
僕ががんばらなくても、みんなが頑張ってくれれば、90分なんかかかりようがない。
けど、その日は時計が気になった。
はやく退勤したいと思った。
それに、不謹慎だけど、停電が起きるなら、速く起きてほしいと思ったんだよ。
大学入試を迎える前の受験生みたいな気分だった。
けどね、昼間は停電は起きなかった。
代わりに、午後も3時を過ぎたら緊急の電話が次々にはいってね。
どれも同僚たちの家族が倒れたって内容だった。
その年は大腸菌が悪さをする食中毒が流行っていた。
最後にかかってきた、所長あての電話だけは奥さんが脳梗塞ということだった。
僕は職場にのこされてね。
昼間は人がいるはずの変電所が、とても奇妙に広く感じて、空調の効き方は経費節減のためにゆるいはずなのに、ひどい寒気を感じた。
僕はすぐに、夜勤予定の同僚たちに電話をかけようとしたよ。
はやくきてくれ、ではなくて、家族に何か起きないように、注意してくれってね。
つまり、偶然にしては重なりすぎだ。
境間が動いているんだと思った。
でも、黒電話の丸穴に指をかけたとたん、同僚たちの家族からたてつづけに電話が入ったよ。事故に、あった、って。
二つとも、ぴったり同じ内容だった。
僕の頭には、悪戯でもたくらむ子供のような境間の笑顔が浮かんだ。
『トラブルが起きますからね』
という台詞もね。
つまり、トラブルは、部品じゃなかったんだ。
なぜ、わからなかったんだろう。
僕は自分を責めた。
境間は僕に選択をつきつけるためだけに、仕事仲間のみんなと、みんなの家族全員を巻き込んだ。
……悪魔みたい、だろう?
僕は震えた。
けれど、震えてばかりもいられないので、マニュアルにもとづいて、応援を要請した。
できるだけ、予定外の人に来てほしい、と頼んだよ。
予定外なら境間も対応できないだろうからね。
電話の向こうからは、怪訝がつたわったけれど、僕はかまわなかった。
受話器を置いて、机に両肘をついて、指を組んで、祈るように目を閉じたよ。
応援が無事に来てほしい。
誰も、もう、傷つけないでください神様、てね。
僕は神様仏様ってのは冠婚葬祭専用の何かだって思ってたけど
人間は追い込まれると、結局神頼みになるんだってあの時わかった。
神様が願いを聴いてくれたかくれないかは
わからないけど、応援の到着の前に、停電が起こったんだ。
時間は、そう。
賢太や、大悟君、美葉ちゃんが挽かれたのと同じ、午後の7時30分だった。