拭いきれないもの
5年前ー
ざらついたガラスは光を通さず、視界を阻む。
それは光の直行を、ガラス表面の凹凸が乱反射してしまうためなのだが、これを解消する方法は二つ存在する。
表面のガタガタを磨き整えること。
あるいは、透明な液体を塗り、凹凸を埋めて光を透過させること。
時雄の、息子の吃音に対する偏狭は、彼の罪悪と恐れに由来するものだったが、彼をその途方から救ったのは、裕也の体温の高さだった。
わが子から伝わる体温は、時雄を幸福で満たし、荒れてざらつきささくれだった父の心を、柔らかく埋めていった。
それはとても静かに。
時雄も気づかないほどに、静かに。
……裕也が4歳になって半年以上たって、北陸の冬にも春の兆しが訪れる3月の半ば。
時雄は雪の路上を歩いていた。
路肩の雪は融けかけて、滴に表面が濡れている。
彼は、空を見上げた。
3月の空の青は澄み切って、冬がまだ残っている。
、
― むきになっているのは、俺だな。裕也が、できないのではなく、俺が、裕也に適応できていない、だけだ。 ―
30年前に彼が犯した罪悪。
5年前の旧友の息子の事故。
彼が苛め殺した幼馴染。
幼馴染と同じ、息子の吃音。
因果応報。
祟り。
それらは1連なりの不気味な円環を成して、時雄の意識を責め立てていたが、そんなことに関係なく、息子は彼に幸福をくれる。
― 違う。裕也が俺に幸福をくれるんじゃない。裕也が俺の幸福なんだ。 ―
そう思った時、時雄は青空からそそぐ光が、彼の意識を透過して、視界が開けたような気がした。
それは確信とも言える感覚だった。
ありていに言えば、彼は吹っ切れたのだ。
― 妻とも、夫婦を構築しなおさないと、な。 ―
時雄は雪道を歩き出す。
その頬は穏やかで、目元も柔らかい。
……それから2週間もたつか経たないかの季節外れの大雪の朝である。
時雄は朝日も昇らぬうちに起床して、顔を洗った。
それから、寝室に一旦戻り、裕也の寝顔を確認して、息子の幼い髪の柔らかさをその手のひらで確認する。
眼差しは自然と優しくなった。
朝の外気に冷えた北陸新潟新聞の朝刊をポストから取り、居間で開く。
株価から目を通し、政治経済と確認。
文化欄に時雄の関わったプロジェクトが載っているのも確認して、
― 注文が増えるな ―
と思う。
さらに新聞をめくり、社会欄を確認し、……心臓が震えた。
『……日19時30分頃。新潟市曽野4-1の路上で仲岸純さん (会社役員40歳)の長女の仲岸美葉さん (10歳)が下校中、路肩の雪山に埋まり排雪車輛に巻き込まれ、脳挫滅により救急搬送され、死亡が確認された。予報を違えて降り続いた雪に視界は不良であり、発見が遅れた』
時雄は一字一句に、震える指先をあてて、記事を読み直す。
彼の背筋は震える。
奥歯も、膝も、小刻みに、震える。
それは寒いからではない。
……時雄は、純が喪主を務める美葉の通夜の弔問を控えた。
5年前に経験した、一悟の虚無。
だが理由はその苦さではない。
彼は、純の娘の死に、怪異を感じた。
弔問に赴けば、純に纏わりついているそれが、黒死病のように、自らにも伝染し、裕也が染まるのではないかと、恐れたからだ。
― いや、むしろ。もう、俺は罹患いる、のか。 ―
怪異への恐れは、時雄を再び蝕むが、どうしようもない。
時雄は再び焦燥する。
それは仕事への情熱へと向かったが、妻との構築には向かわなかった。
― それでも、裕也はまだ生きている。 ―
それは希望だった。
同時に絶望でもあった。
5年後の3月に、雪は降るのだろう。
そして、裕也は惨く死ぬのだ。
時が止まってくれれば、ずっと、裕也が幼い裕也のままでいれば、家に閉じ込めてしまえば、10歳を迎えなければ、……息子は喪われない。
時が、移るのを止めれば。
そんな彼の夢想も空しく北陸は春を迎え、初夏に入り、梅雨も明けた。
夏のある日、一通の葉書きが彼のもとに届いた。
差出人は、伊勢正一。
亡き賢太の父親である。