因果
7年前ー
裕也は3歳になっても彼の意思疎通手段に、日本語を使用しなかった。
せいぜいが、身振り手振りというボディランゲージで、時雄は息子の発育の遅さに苛立ちを覚えた。
裕也は懸命に、時雄に紅葉のような幼い手をぱたぱたとして、口元もぱくぱくして、何かを伝えようとする。
こちらからの簡単な言葉、父ちゃん、とかそういうものが、通じているのは分かった。
が、裕也は言葉を発しない。
「あー」
とか
「うー」
とかしか言わない。
このことに、時雄は非常な不満を覚えた。
― あー、とか、うー、とか、北京原人かよ。―
たまりかねて彼は息子を新潟の大病院の小児科に連れて行き、検査を受けさせた。
結果に時雄は括目する。
IQは高い。
特に画像の情報処理、描画処理がかなりの高水準を記した。
一方、言語の方も、高いは高いが、標準に近い高さだった。
脳内の情報処理に差が生じているので、吃音が発現する可能性がある。
吃音自体も、解消されるものと、固定化され、生涯苦しめるものがある。
どちらにせよ、発言をせかさない方がいい。
育児は余裕をもって、見守るように。
……という趣旨の見解を、医師から伝えられた時、時雄は患者用の丸椅子に腰かけて、膝の上にのせた裕也のつむじに視線を落としながら、彼は著しい現実感の消失を感じた。
……息子のくりくりと可愛らしい瞳は妻ゆずりで、その他は時雄譲りである。
画像処理というか絵の才能も、時雄譲りのぴかイチだ。
裕也は、まぎれもない、時雄の血である。
が、吃音。
34歳にもなってそこまで本意でなかったにせよ、授かった我が子が、吃音。
それは賢太にかかっていたと同じ呪いだった。
時雄が彼を苛め抜いた原因の1つでもあった。
― 賢太の霊が、息子に取りついているのか?―
小児科の帰途、ランドクルーザーのハンドルを堅く握りつつ、時雄は隣の妻を見ずに言う。
「お祓いに行くぞ。予約先をしらべないとな」
「はあ? 何言ってんの? まずは七五三でしょ?」
「違う。七五三とか、下らない話ではない。裕也の人生の問題、だ。」
年下の妻は、あからさまにその眉をひそめ、沈黙したが、夫は構わなかった。
― とにかく、祓わないといけない。賢太の因果を。―
翌月、彼らは高速道を南下し、関東三大大師、西新井、川崎、観福寺の大師堂を行脚し、祓いを受ける。
3つの大師を回ったという安心もつかの間、4歳になってすぐに、日本語でのコミュニケーションを取り始めた息子に、吃音が発現した。
彼は言葉につまる。
特に、
「つ」
が言えない。
「っ」
になってしまう。
正確な発音を頑張りすぎると
「ちゅ」
になる。
― 賢太の生き写し、か。馬鹿野郎が。 ―
もちろんそんな感情を、なるたけ態度に出さないよう、時雄は努めた。
威圧をあたえるよりも、例えば、たまにではあるけれど歌にでものせたりすれば、裕也は
「つ」
を言えるのだ。
ただし時雄を途方に暮れさせたのは、息子は父と視線を合わせるともれなく、どもったことである。
それは彼がふさいでいても笑っていても、お構いなしに起こる。
どもりの、10回に9回は、時雄はかすかに眉をひそめるだけで事を納め、息子は緊張に頬を赤くしてうつむく。これだけで終わるのだが、残りの1回は怒鳴ってしまう。
「ちゃんと話せ!! 俺の息子だろう?」
間を置かず妻が飛んでくる。
わめきたてる。
甘っちょろい教育論を、さも自分が発見とか研究とかしたかのようにひけらかす。
延々とだ。
― とても下らない。それは、俺もか ―
時雄は、主に彼自身に途方に暮れる。
朝に怒鳴ると、仕事に猛然と打ち込むのだが、これはいい。
問題は、夜だ。
酒に浸るようになった。
妻との溝がくっきりとしすぎてきたのは、この頃からかもしれない。
いや、愛情というか、具体的に惹かれる何か
おそらくフェロモンのような誘発物質は、康子が破水の時に、羊水と共に流れ去ってしまった気がする。
彼女は裕也に吃音が発現すると、完全に雌ではなく母として、時雄に立ちはだかるようになってしまった。
彼女が開いた両手は、常に裕也をかばっている。
― 何故、俺の気持ちが解らないんだ。 ―
その問いかけは理不尽だった。
時雄は、康子に賢太の事は告白できなかったのだ。
もし告白を敢行したら、彼女は衝撃を受けるだろう。
その衝撃は妻を越えて、無邪気である息子に及ぶ。
その矛盾も、時雄をせめたて、いつの間にか時雄は妻に手を上げるようになっていた。
俗にいうDVである。
彼が妻の頬を平手打ちすると、彼女はもれなくすすり泣くので、その間に夫は、妻に寝かしつけられた裕也の寝室に向かい、彼を起こす。
「裕也、ゆうや」
「とう、ちゃん?」
「お前の名前を言ってみろ。頼むから、焦らずに」
「ゆうや」
時雄は破顔し、水色のパジャマ姿の息子を抱きしめつつ、彼自身に言い聞かせるように言う。
「ちゃんと言えるな、名前は。……そうだ。お前は俺の息子の、裕也だ」
腕の中のわが子の体温は高く、その温かさに時雄は幸福を覚える。