境間
砂篠丸裕也の喪主である砂篠丸時雄は、寝ずの番に至るまで、固く口元を結び、ひたすら密葬に訪れた近親者たちに上半身をかがめ続けた。
黒の喪服に身を包んだその威風は堂々としている。
眼は充ちた血のために赤くそのくまは濃い。
停電の漆黒に息子を攫われてから、枝幸町の救急病院から連絡を受け、羽田から稚内空港に入り、空港からタクシーでピンクの丸い外壁の当該病院まで乗り付け足早に霊安室まで至り、そこに横たわる幼き死肉に硬直し落涙し震えて咆哮し慟かれるように哭いてから、葬儀屋の指示の元、裕也の死亡診断書を受け取り、彼の遺体とともに東京に戻り、密葬の通夜の喪主の責を果たすに至るまで、一睡もしていなかったからである。
全てを滞りなく行いつつも、彼の眼だけは、平然であることを拒否し続けた。
通夜の前には康子が駆けつけてきて、時雄は別居中の妻に対して、罵倒の衝動、というよりも、その髪を掴んで引きずり倒し、出口の外にほうりたい衝動を覚えたが、実際は表情も言葉も無く、葬儀社員を顎で指したのみであった。
彼女への対応は他の親戚にあたるものと本質的に差がない。
それは虚無でしかない。
そしてその虚無は、叫びである。
故人に対する彼の溺愛は、親族の間でも有名だったし、我が子を喪った悲しみを纏う空気は殺気を感じさせるものがあったので、自然と彼らは時雄を会場に残して酒の席に移動した。
時雄は1人、がらんとして空虚となった会場の椅子に座り続ける。
花輪を構成する花弁の一つ一つから発せられる匂いがきつい。
それは死臭を無理につくろっている。
この虚無感の中で、時計は無意味に過ぎて行き、やがて丑三つ時を回る。
後12時間もしないうちに裕也は荼毘に付され、焼かれた骨となる。
彼は子供用の棺の中に納められている。
棺は花で満たされている。
損傷の激しい遺体は、無理やり人の形に整えられており、顔面は死に化粧すら施しようがないので、白い布がかけられている。
それでも、生きていても死んでいても、裕也は裕也である。
― なんで、今日、骨になってしまうんだ。 ―
もちろんそれが日本という国における慣習であり法律であるのだが、時雄にはそんなことは関係がなく、再びむせび泣く。
よろりと椅子から立ち上がり、愛息の横たわる白木の棺の淵に両手をかけて、その遺体を覗き込む。
男と目が合った。
棺の内側で側臥位をとっている。
裕也を長方形に囲む白木の壁に背を預ける形で、裕也に添い寝する形で、狭い寝台で愛を交わした後、女が男に添いながらその太ももの先を90度に曲げて男の太ももに上からかぶせるように、その脚を、裕也の腹部にかぶせている。
手のひらは時雄の息子の幼い髪、その死により脂分と柔らかさが失われている、その乱れを直してあげるかのように、愛おしげに撫でている。
表情はとても穏やかで、その瞳は幸福と慈愛が溢れている。
「な、にしてくれてんじゃこるあああああああああっ!!!!!」
と時雄が叫ぼうとした途端、男は
「こんばんは」
と言いいつつ、時雄の太い手首にさっと腕を伸ばし、そのまま掴むと、掴まれた彼は、プールの吸水孔
に感じるような引力を感じる。
次の刹那には、白木の箱の中にいた。
時雄もその内側で側臥位をとり、裕也をはさむ形で、男と川の字を作っている。
白い布をかけられた裕也の小さな遺体の向こうで、時雄の瞳を覗き込む男の瞳は、恍惚の光を宿している。
時雄は男よりも、自らの肉体が息子のいたいけな遺体を押して潰さないかを本能的に危ぶんだが、気づく。
裕也をはさんだ向かいの男が、時雄の肉体が遺骸を潰さないように時雄の脇の下に腕を伸ばし、滑り込ませて片手で支えている
のだ。
「貴方がどれだけ重くとも。裕也君が潰れることはありません。
私が支えていますからね。ご安心を」
男は、裕也の除雪機に砕かれた頭部を愛おしげに撫でることを止めないまま、穏やかに言う。
「てめえ! 裕也にさわるんじゃねえ……!!」
「おや。可愛らしいお子さんがいればその頭を撫でたいというのは人に備わった素養です。不自然ですか?」
「そんな問題じゃねえ!! てめえが境間だな! てめえが殺したんだろうが……!! 俺の、裕也をっ!!」
境間は、きょとんとした。
それから、ぐずりだだをこねる子供に困る親のように、眉を八の字にして、言う。
「ええ。私が境間です。殺したのは除雪機ですが、裕也君を攫ったのは私ですし、私が殺したとおっしゃりたいお気持ちも分からなくもありません。が、そもそも、ですね。貴方、時雄君。貴方が賢太君を殺さなければ私は裕也君を殺すことはなかった。この子の血と苦痛は賢太君の血と苦痛の代価ですよ? まあ。こういった議論はどうしても、水掛け論になりますからね。私は水が苦手です。こういうのは、殺された本人が一番分かると思います。ですから、裕也君に訊いてみましょう。果たして誰が、裕也君を殺したのか? クックロビンではなく、貴方の息子の裕也君を、ね」
男は静かに柔らかく、そのまぶたをうすめて、裕也に残されていた黒髪を撫でつけていた手のひらを息子の頭部の下に差し込み、ぐいと、押し、裕也の顔面だったものは、ごろんと時雄を向いた。
愛息の顔面を覆っていた白い布は、はらりと下に落ちて、遺体の、激しく損傷し冷凍して解凍した後のぶよぶよに膨らんだミニトマトのようなフォルムの顔面が、目玉のくり抜かれた、くりくりと愛らしい瞳の抜け殻である暗い穴の暗黒が時雄を射貫いた。
元は瞳があった眼窩の形作る闇に、時雄は吸い込まれたような気がした。
その闇は、人と魔の狭間だった。
「さあ、存分にご歓談下さい」
境間のその声は、管弦楽のような、かすかな甘い響きを伴って
鼓膜の内側に響く。
時雄は抉りぬかれた眼窩の闇に飲まれた。
その闇には覚えがあった。
それは、35年前、賢太を雪に埋める時に、胸に覚えたのと質の同じ影だった。
35年の時を経て、その影は黒となり漆黒となり裕也を飲み込み目をえぐり、闇はそこにあり、その闇は深く濃く黒く深く濃く黒く深く濃く黒く濃く濃く濃く濃く濃く濃く深く濃く黒く深く濃く深く濃く深く濃く黒く深く深く深く黒く黒く黒く深く濃く深く濃く深く濃く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く黒く……。
時雄は絶叫した。
………
我に帰ると、会場の椅子に座っていた。
どっしりと腰をかけていた。
10秒の沈黙。
呆け、といってもいい。
― 裕也! ―
時雄は猛然と立ち上がり、白木の棺に駆け寄って、淵に両手をかけ、境間を探す。
いない。
何事もなかったかのように、裕也の顔面部分には白の布がかけられ、その遺体全体を色とりどりの花が包んでいる。
花も潰れていない。
何もかもが、通夜の初めと変わらない。
時雄は狐に包まれる。
― いや、違う。違う。奴は、いたし、今もいる。ここの何処かで、俺と裕也を笑っていやがる…!!」
時雄は人気の消えた会場を見回す。
「境間」
とぽつりと呟く。
返事はない。
「境間ああああああああああっ!!」
時雄は充血した目を大きく見開いて、咆哮する。
「でてこいやごるあああああああああああっ!!」
会場のパイプ椅子の背を、がっとつかみ振り上げて、床に叩きつける。
「境間ああああああああああっ!!」
こめかみに筋が走る。
鬼の形相。
「砂篠丸様?」
女の声に振り返る。
黒スーツの係員。
黒髪を丸くして後ろにまとめている。
キタキツネ的な野生動物を連想させる小さな顔。
一瞬、勢いを抜かれるが、時雄は彼女に説明する時間も惜しく、というより、怒りが収まらず、彼女にかまわずに再び会場、照明の暗い天井、供された花の並び、パイプ椅子の形成するオセロ模様の空間を見渡し、再び、
「境間ああああああああああっ!!」
と叫ぶ。
「貴方の招かれた因果ですのに」
黒い喪服の広い背中に声がかかった。
「あ?」
時雄は肩越しに振り返る。
黒スーツの係員がたたずんでいた。
その女の口角は柔らかく上げつつ、首をかしげる。
「そうでしょう?」
「……………………てめえもかごるあああああああっ!!」
時雄は彼女に突進する。
ぴったりときっちりとめられたYシャツの上の細い首を左手でつかみ、右の拳を振りかぶったその時。
「何やってんだ! 時雄さん!」
腕に親戚の男がすがりつく。
時雄は構わない。
左手の握力で、女の頸動脈、喉を潰そうとする。
奥歯に力が入る。
それは、まぎれもない、殺意。
これをとめるように別の親戚が左腕にしがみつき、また別の誰かが、左手の先から女を引きはがす。
女は、けほけほ、とむせて、声をかけられている。
時雄は襲撃しようとするが、4、5人ががりで抑えられる。
みな口々に何かを言っているが、耳に入らない。
視線だけが鬼気を帯び、狐のような女を追う。
彼女は踵を返し、去ろうとする。
― 殺してやる。お前も、境間も、殺してやる……!! ―
それは狂気に近い怒りである。
我が子を殺された、親の憤怒である。
彼女はその、彼の怒りに呼応するかのように振り返り、薄いリップの塗られた唇を半開きにする。
舌の先は下の前歯の根元に触れている。
― け ―
一度つぐむ。
― ん ―
口をたてに大きめに開く。
舌の先は下の前歯の根元に触れている。
― た ―
口をすぼめる。
舌の先は下の前歯の根元に触れている。
― く ―
口をつぐむ。
― ん ―
……けんたくん。
女は声をださずに、時雄にそう呼びかけてから、悪戯っぽくほほ笑んで。通路の向こうに消えた。
「……………………待てやごるあああああああっ!!」
父は絶叫する。
その声はすでに、正気と狂気の狭間を越えている。
「時雄さん、落ち着いて、時雄さん。」
上に覆いかぶさってきた喪服がなだめるように言う。
「……!! お前らもかあああああああああああああああああああ!!!」
時雄は喪服を投げ飛ばした。
……………
「どうですか? 時雄君は」
時雄の様子を、遠くから眺めつつ、救急車の手配を終えた女に、境間が後ろから声をかけた。
喪服に身を包んだ彼の体躯は、すらりとしている。
女は考え込んだ。
「御覧の通りですけれど、……私個人の感想ですか?」
「はい」
「そうですね。彼は、愛おしいほど滑稽で、醜悪なほど美しいですね」
「ふふ。そうですね」
境間は満面の笑みを浮かべた。
そんな彼に、彼女も微笑む。
「……この仕事は初めてで、実際取り組む前は、必殺お仕事さんかあ、みたいなテンションだったんですけれど」
「気に入りましたか。」
「はい。悦楽です」
女は微笑み、境間は満足げにうなずく。
「でしょう? 村には他にも、多種多様な業務がありますが、貴方は、これに向いていると思います。村に来ていただけますか?」
「はい。お世話になります」
女は両手のひらを鳩尾の前で重ね、深く辞儀をした。
「こちらこそ。あなたのような実力者は、村としても願ってもない人材です。……それにしても。今回は、良かった」
「何が、ですか?」
「たくさんの境間を見れました」
「?」
「私、境間のご先祖様は有名人でしてね。ハーメルンの笛吹は、ご存じですか?」
「はい」
「あれ、です。ネズミを祓い子供を連れ去った」
「ええと。あれは、つまり笛吹は、子供を連れ去る、戦争や疫病の象徴だと私は老師よりきいていましたけれど」
「いいえ。違います。笛吹きは、ね。境間ですよ。失うか喪わないか。人か魔か。正気か狂気か、のね。そして、その狭間は、動きいつの間にか、飲み込むのです。多くの場合において、ね」
「……満潮の前の波の際の時間、みたいなものですか」
「そうですねえ。そんなものです、ねえ」
……彼らが和やかに言葉を交わすその遠くで、時雄は暴れ続ける。
パイプをひっくり返し、喪服たちを投げ飛ばし、打ちのめし、襲い掛かり首を絞め、咆哮する。
その声に交じって、遠くから、サイレンが鳴り響いてくる。




