浮気という蔑み
時雄はわが子を守るために、必要なものをまとめた。
裕也の安全にかける時間と設備、を可能とする資金。
今でも会社から十分な報酬は得ている。
3年前に両親が他界し、遺産は滞りなく相続している。
だが、足りない。
雪のない土地に引越し、水で魔を防ぎ、裕也の10歳を越えることを可能にする、設備を得るに足る資金。
ー 独立か。 -
時雄は勤め先の稼ぎ頭だった。
業界の顔役が、勤め先を通さず、直接依頼を通したいと言ってくる。
そういうパイプが何本もあり、しかもどれも、太い客である。
ー だが、足りない。
独立して見込みと違いました。
では、手詰まりだ。
まだ、増す必要がある。
客も、コネも、俺の実力も。-
もう1つ、必要なものがあった。
妻の理解と協力である。
……時雄はもうためらわなかった。
その日に長い時間をかけて、一部始終を彼は妻に打ち明けた。
康子は、賢太へのいじめについては、
「あんたなら、やるわよね」
賢太の死については、
「事故でしょ」
一悟、純の子供たちの訃報は、
「気味悪いけど、偶然でしょ。」
境間については、
「伊勢さん、脳腫瘍できてるんでしょ。痛み止めに麻薬も使うし、妄想でしょ。……て、いうか、妄想に振り回され過ぎよ! 時雄さんがこんな、臆病だって、思わなかった!!」
と最後には怒り出し、時雄は沈黙した。
- この女は、あくまでも第三者なのだな。……期待するのは止めよう。 -
彼は、自らの成せる事に専念した。
仕事で成果を出すために、以前にもまして働く。
妻には言わずに、監視カメラを自宅の内外に設置した。
帰宅すると、書斎に引きこもってカメラの録画内容をつぶさにチェックする。
特に、カラスに。
その後の時雄にはいくつかの変化があった。
裕也には怒鳴らなくなった。が、かわりに、自宅に近づく、カラスやすずめ、たまの野良猫、カモメなどを怒鳴りつけて追い払うようになったこと。
妻にもいくつかの変化があった。
野鳥に怒鳴る夫を見る視線が、冷ややかになったこと。
家事は必要最低限になり、献立も出来合いが多くなったこと。
時雄は献立の変化には、早い時点できがついたが、それについては何もいわなかった。
言う時間が惜しかったからである。
3年前ー
そんな風に2年が経った。
時雄は働き続ける。
妻は家事をして、出来合いを皿にのせる。
幸いなことに裕也は吃音以外は能力の高い子で、家事など、自らの身の回りは一通りできた。
- 裕也の手がかからなくなったのも、この女が腑抜けた原因だろうな。だが、逆よりもいい。 -
そう思いつつ、監視カメラの映像チェックをしていると、モニターの中の妻が、配達員に玄関を開く。
モニターの時刻は昼下がりである。
妻は有機野菜のダンボールを受け取り、靴箱の上において、配達員を招き入れる。
茶を出し、談笑し、魅惑的な笑い方をする。
- もうずっと、みていないな、こいつの、こういう顔は。 -
康子と配達員の男はそのまま抱擁し、唇を重ね。
しばらくのもみあいの後、妻が男に馬乗りになり、その衣服をはぐ。
- お前が上なのか。 -
時雄は笑ってしまった。
その後の彼女の姿は、時雄が一度も見たことのない姿で、彼は一部始終を不快ながらも冷静に見届けたが、ふと、その日の献立が、久しぶりの手作りで、有機野菜のシチューだったことを思い出した。
トイレに行って、便座に手をついて、胃の中の夕飯をすべて吐く。
それから口元の胃液を手の甲でぬぐって、思う。
- 今は波風のときではない。
が、映像記録は取っておこう。
裕也が大学に進んだら、離婚だ。 -
時雄は特に動じなかった。
愛情というか、夫婦関係は溝ができて久しいし、夫婦生活も
裕也が生まれてからは、数えるほどしかなかった。
今はそれよりも、仕事であり、そのため彼は妻に問いただすことはしない。
が、その後、妻が用意したものは、出来合い以外は口をつけることはなくなった。
妻は隠れた外出が多くなった。
めかしこんで出て行く。
とても分かりやすい。
だが、配達員を招き入れることはなかった。
2年前ー
裕也は8歳になった。
- そういえば、去年の今日だったな。妻の浮気を知ったのは。 -
と、複雑な胸中のまま、映像をチェックする。
その日、モニターの中の妻は、1年ぶりに恋人を招き入れていた。
- つまり、だ。今日は、妻とこの男の記念日なわけだ。てことは、来年も家にあげる予定なんだな。 -
お互いの存在を確認しあう彼らを眺めながら、
- 幸せそうだな。それに、能天気だ。 -
と思う。
1年前ー
時雄は会社から独立し、東京は世田谷区の芸術家と、屋敷の賃貸契約を結んだ。
裕也も9歳である。
10歳にいたる前に、世田谷に引っ越さねばならない。
時雄は裕也の入眠を確認してから、居間に下りて鍵をかけ、話すことにした。
この夜は丁度、妻の年一回の自宅不倫予定日の前夜だった。
その日は早めに帰宅して荷物を簡単にまとめた。
家具なりなんなりは、引越しさきで揃えればいいのだ。
「明日、東京に引っ越す。裕也も連れて行く。転校届けは出してあるし、住民票も引越し先に移してある」
「……は?」
「お前は明日、まあ明日以降も、間男と好きなだけ楽しめばいい」
「え、ちょっとなに……」
返事をまたずに、時雄は居間の照明を消して、業務用のプロジェクターを作動させた。
暗闇に染まった居間の壁に白く大きな長方形が浮かび上がる。
縦横の比率は16:9、ヴィスタサイズだ。
つないでおいたPCの動画の再生ボタンをクリックする。
妻が、あっけにとられた半開きの口で映像に見入る横で、時雄は
- 我ながら良く編集できている。俺は編集の才能もあるな。 -
と思う。
上映が終わり、点灯して妻に向き直り
「スマホを出せ」
と言い、渋る妻をにらみつけ、しぶしぶ出すのを取り上げる。
ロックがかかっていた。
康子の生年月日を入力。
……解けない。
裕也の生年月日。
……解けない。
明日の自宅不倫予定日の日付。
……解けた。
- まあ、俺の誕生日ではないのは分かっていたが、よりによって、明日、か。 -
時雄はため息をつき、トーク件数の一番多いラインをざっとチェックする。
目星がついたトークの始まりは、伊勢との面談、妻への告白の日から一ヵ月後だった。
- ……強迫性妄想障害、妄想に精神を病む夫に不安な妻が、見知らぬ誰かに相談した。その誰かは若い男で、親身に妻の話を聞き、夫とのかかわり方について助言をするていで不倫に持ち込んだ。……ははは、俺は一貫して康子とこいつに哀れまれているな。-
時雄は笑ってしまった。
ため息をついて、男のラインに電話をかける。
コールは三回。
「ああ。出てくれてありがとうよ。俺は康子の旦那だ。明日出て行く。この家は俺名義だが、康子がまだ住むか出て行くかは勝手だ。通帳は分けている。こいつにもう収入はない。あんたが養ってくれ。じゃあな」
一気にまくしたてて、通話を切り、康子に差し出すと、彼女は震える手で受け取ったので、時雄は彼女に、本当に久しぶりに、優しく微笑みかけた。
「裕也が大学に入るまで、お前とは離婚しないよ。……長い間、世話をかけたな」
その晩、康子は実家に戻った。
翌日、時雄は祐也を起こし、東京に越すぞ、と言って、ランドクルーザーに乗り込ませる。
車輌は低い音をたてて、雪の地を出発した。
「おとう、さん」
「ん?」
「おかあ、さん、は?」
「康子は来ない。しばらく、そうだな……3年位は会えないだろう」
「……」
祐也は俯いた。
時雄は目のはしのわが子の様子に、ため息をこらえる。
「どこにいても、何をしていても。康子はお前の母さんだってことは変わらない。当たり前だろ? 一生会えないってわけじゃないんだ。ただ、さ。康子には康子の事情がある。……だから、そんな顔すんな」
時雄はハンドルを握りつつ、眼の端でうつむく裕也に、できるだけぶっきらぼうに言い放った。
甘やかしても、こびてもいけない。
父親としての威厳を崩してはならない。
確かにこれは逃避行だ。
康子の犯した不倫。
原因としての夫婦生活の破綻。
何より、賢太の父親の告白によって醸された恐れ。
そう、これは恐れからの逃げだ。
だが悟られてはならない。
幸い仕事はうまくいっているし、独立前より明らかに羽振りはいい。
だから、、この旅は敗走ではない。
それこそ、アメリカのロードムービー的な自由とロマンを息子に演出してやることだってできる。
― そう、大切なのは演出だ。 ―
時雄は胸中で呟きつつ、車窓の外を後方に溶けていく景色から、雪の厚みが消えていくことに
安堵を感じた。
時雄と裕也を乗せたランドクルーザーは新潟と首都を結ぶ高速道を一路南下している。
いくつかのバイパスや長いトンネルを抜けて、ハイウエイの先から差し込んでくる夥しい光線に顔をしかめる。
その度に、父親は、『許しの洗礼』を受けている気がした。
が、別に許されたいわけではなかった。
そんなものは、酷く無駄で無意味な希望に過ぎない。
助手席でシートベルトの灰色をくねりまわす幼い指の主、裕也を守るためなら、どういう絶望にせよ
願ったりかなったりである。
それは、いくらでも。
一悟も純も『子供を守れなかった親』だが俺は違う、と時雄は思う。
祐也は生きているし、悪魔の襲来までは1年ある。
金も力も、賢太の父親がくれた知識もある。
暴力だって、ためらいはしない……!
「腹、減ったか?」
「う、ん」
「返事は、うん、でも、はい、でもいいが言葉を噛むな」
「ごめ、んなさい」
「ごめんなさいでも、あいや失礼でもなんでもいいが、言葉は最後まではっきり言え。どもるな」
「ごめんな、さい」
裕也の頬が青い。
時雄はため息をつきかけるが、こらえる。
悪い癖だ。
ため息も、余計な威圧も、これから直していかなければならない。
「……気にするな。大したことじゃない。それより、サイドボードそこの蓋、開けてくれ」
時雄は進路から目を離さずに息子に言いつけ、息子はうなずいて目の前のボードを開く。
と、中からチョコレートバーやら板チョコやらポッキーの太いのやら細いのやらアポロやら、とにかく大量の菓子箱が、せきをきったように雪崩落ちる。
「…!」
裕也は口を大きく開けて、目をしぱしぱさせる。
眼の端の息子の様子に笑みが浮かぶ口の端を、堅くこらえながら、時雄はぶっきらぼうに言った。
「食べていいぞ。甘いものは虫歯になるけどな。歯磨きをちゃんとすれば大丈夫だ。好きなだけ食べろ。あと、父ちゃんに一個くれ。」
― そう、大切なのは演出だ。俺はうまくやれる。 ―




