帰還
――やばいやばいやばいやばいやばいやばい。お願い、もって!
すがりつくように、タリは祈った。
震える操縦桿を握る右手の上、汚れた遮風板を経て、視線は前。けれど、注意は視界の隅に入る左の翼に、ひっきりなしにさまよい出る。
それも当然、左主翼はぼろぼろで、いつ折れてしまっても不思議ではない状態なのだった。
敵の機銃弾に撃ち抜かれた梁は、回りの布を巻き添えに飛散し、複葉の下翼後縁に大穴を開けていた。飛び抜けた弾は、翼間支柱も傷つけている。おかげで機体はしばらく前から、まったくもって嫌な具合に激しく振動していたし、それが椅子や操縦桿を通じて伝わってくる。
もしかしたら、振動の原因は壊れた下翼だけでなくて、エンジンも多少いかれているのかもしれない。そもそも機体は穴だらけ、飛行張り線や操縦索、それ以前に自分に当たらなかったのは、「めっけもの」としか言いようがないのかもしれないけれど。
もちろん、操縦席からは見えないだけで、桁まで傷ついていたら、今この瞬間にいきなり空中分解してしまうかもしれない。それとも、エンジンがぱったり止まってしまったらどうする?
――この翼は、神様がくれたものじゃない。人は、飛ぶようにはできていないんだ。知恵と、工夫と、技をひとつひとつ繋ぎ合わせて、かろうじて空の上に引っ掛かる仕組みを手に入れただけ。だから、そんなパズルの大事なピースが少し抜けたら、次の瞬間には、この“鳥”は単に布とワイヤと棒きれが絡まった塊になって、まっさかさまに落ちてしまう。
ふだんの哨戒コースからは大きく外れ、だいぶ西の山に寄ってしまっていた。
予想外の遭遇から乱戦になり、しまいには敵機2機に散々追いまくられたせいだった。逃げている時には後先考えずに無茶な機動もしたが、いざ逃れてみれば、よくそこで空中分解しないで済んだものだと思う。
相手は、明らかに損傷したタリ機を見て、墜とすよりもいたぶる格好だった。このあたりが「魔女飛行隊」の縄張りだということは、敵方にもよく知られている。そこに慢心があったのだろう、ロールを抜けた後についふらふらと前にのめった一機に一連射すると、その機は煙を噴きながら降下していった。それを見てもう一機も離れていき、ようやく、タリは永遠に続きそうな鬼ごっこを逃れることができたのだった。
山の位置から見当を付けると、タリはゆっくりと、本当にゆっくりと――寝ている赤ん坊の寝相を直すくらい慎重に、怖々とペダルを踏み込み、操縦桿を傾けた。飛行手袋の中で、手のひらが汗ばんでいるのがわかる。
基地からあまり遠くないといっても、それはあくまでも、すべて順調な飛行機の中に座っていればの話。しかも、下はほとんど途切れなく続く森に、それを縫う曲がりくねった川。不時着できるだけの空き地はありそうにない、というのは、ふだんの哨戒飛行の際にも確認済み。部隊内で、
「あれはいざという時、やばいよねえ。途中に一カ所、森を拓いて空き地を作っておかない?」
なんて話が出たこともあったくらいだった。もっともそれは、道具を抱えてえっちらおっちら、数十リーグも森の中を歩いていかねばならないことを意味したし、その分前線に近づくため、敵の斥候と遭遇する危険性もあって、どだい無理な希望といえた。そんなわけで、どうしたって、この頼りない機体が、自分をなんとか連れて帰ってくれることを願うしかないのだった。
王国製9年式の戦闘機は小型軽量、俊敏な動きが売りの機体だ。空冷星型、ロータリー式エンジンのトルクと相まって、曲芸のようにくるくる回るし、魔女のほうきのように上昇できる。タリ自身、機体がきしむほどの急機動を試してみるのが好きだった。けれど、今はそんな無茶をするわけにはいかない。回転するプロペラの向こうで、地平線がわずかに傾き、機はゆるやかな弧を描いて変針して行く。けれど、それだけでも計器の針がぶれるほど機体の振動は増すのだった。お願いだから、もって――。
****
出撃が午後遅かったこともあって、基地にはすでに夕暮れが迫ろうとしていた。
ちぎれ雲が密に浮かんでいたこともあって、今日の空戦は敵味方双方にとって想定外の“出会いがしら”だった。発見もほぼ同時、しかしわずかに敵部隊のほうが上空に占位していたことが災いした。味方も善戦し、敵に多くの損害を与えたが、それでも、2機、3機とばらばらに帰ってくる機はどれも傷付き、苦い戦いだったことを示していた。駐機場に開いた隙間が、未帰還機の数を表している。そして、最後の機が帰着してからすでに30分。燃料の限界は近い。
「未帰還は、誰だ」
戦隊長が尋ねる。
「ヨッコ少尉、シュトレル曹長が墜とされました。目撃者がいます。ミルラは先ほど、ジョルジ基地に緊急着陸したと電信が入っています。撃たれましたが、大きな怪我ではないとのことです。しかし行方不明がもう2機、アナ軍曹とミシュコ曹長が戻ってきていません」
「そうか……」
整備斑は、すでに傷付いた機体の修理に取りかかっている。いつまた戦闘があるか判らないのだから、使える機体は一刻も早く、再び飛べる状態にしておかなければならないのは当然だった。
しかしそんな中で、タリ機の機付き整備士のマルカは、工具の入った油染みだらけの頭陀袋をしっかり胸に抱きかかえて、駐機場の外れで、敵地の方角の空を見据えていた。
「タリを……ミシュコ曹長を、見ていませんか。どうなったか、ご存じないですか」
普段は内気で黙々と整備をしているか、そうでなければ隅で恥ずかしげに小さくなっているマルカらしくもなく、先ほどまでは、誰かが帰ってくるたび、駆け寄っては訊ねていたのだった。しかし疲れ果てた操縦士達は、無言でうつむくか、「見ていない」と一言答えるだけ。そして、しばらく前からは、もう新たに訊ねる相手もいない。
そんなマルカに、整備斑長が歩み寄って、肩に手を掛けた。ただそれだけで、二人とも黙ったままだ。
タリならきっと戻ってくる、そんなに易々とやられてしまうようなタマじゃないだろう、タリの腕なら敵に後ろを取られたりはしない――。
そんな言葉を掛け合いたいのは山々だが、それが余りに空虚なことも、二人とも身に染みて知っていた。どんなに熟練の飛行士だって、墜とされるときは呆気ないものなのだ。どれだけ優れた技量を持っていても、しかも、圧倒的に味方が優勢な空戦であったとしても、流れ弾一つで墜ちてしまうことがある。それが空の戦いというものだから。
その時、マルカの肩がびくりと震えた。そして、駆け出したいのを我慢するかのように、その場でふたつみっつ、たたらを踏んだ。いぶかしげに覗き込む整備斑長に、マルカは、空から視線を逸らすことなく、帰ってきた、とつぶやいた。その視線を追うと、はるか向こうの空に、けし粒のような機影が見えた。
「一機、帰ってきたぞ!」
整備斑長が待機所に向けて大声を張り上げると、隊員達もぱらぱらと駆け出てきた。機影は少しずつ大きくなり、次いで、まだ蚊の鳴くほどだが音も途切れ途切れに聞こえ始めた。
「タリだ、タリですよ」
「見えるのか?」
「いいえ、でもあのエンジンの音は確かにタリなんです」
熟練の整備班長でも、そんな音の違いは判別できない。もしかしたら、何が何でも、帰ってきた機がタリだと信じたいだけなのかもしれない。そう思いつつも、ネジの一本一本まで吟味しつくして整備するマルカなら、自分が手塩にかけたエンジンのほんのわずかの癖を聞き分けるくらい、やってしまいそうな気もする。
そして次第に近づき、はっきりしてきた機影は……確かにタリの乗機だった!
機体はひどく傷付いていた。ふらついた飛び方から、姿勢を保つだけでも一苦労なのが判る。着陸コースを選ぶこともなく基地に滑り込み、二度、三度と跳ねてから、ようやく尾橇を地面に着けた。と見る間に、まるで力尽きたかのように左の主翼が折れ、引きずられて機体が半回転し、そのまま、派手に土塊をまき散らしながら横滑りした後に、ようやく停まった。
隊員達が我先に駆け寄り、半ばスクラップと化した機体から、操縦士を助け出した。撃たれたか、怪我は、と口々に訊ねる声と、なおも差し出される手を軽くさえぎって、タリは少しふらつきながらも、自分の足で立ち上がった。
「大丈夫、怪我はないから。でも、着陸の時に頭をぶつけて、コブができたかな」
飛行帽を脱いで、短く刈り込んだ亜麻色の髪を自分でくしゃくしゃとかき回しながら、ばつが悪そうにタリが答えた。
それでも触ってみないことには、本当にきちんと生身で帰ってきたのかわかったものじゃないとでもいうように、仲間たちは群がって盛んに肩や背中を叩いた。そんな輪の中から、タリは、少し離れたところに立ち尽くしている機付きのマルカを見つけた。ようやく抜け出してマルカのもとへ歩み寄ると、タリはその手を取って言った。
「ごめん、マルカ。機を壊しちゃったよ」
「いいえ、いいんです」
マルカは泣き出しそうな、けれど、なんとか踏みとどまった笑顔で、もう一度繰り返した。
「いいんです」
数日後、前線近くの森を偵察中の歩兵部隊が敵機の残骸を発見、タリの撃墜として認められた。通算5機目、タリがついにエース(撃墜王)に達した撃墜だった。