第64話 涙のわけ
「嫌いよ、松なんか……」
そう言うしか、ないじゃない……
好きって言ったって松を困らせるだけだって分かってるんだから。それなのに心がぐちゃぐちゃにつぶれるように苦しい。
「じゃあ、なんで泣いてるんだよ……」
優しい響きを帯びた松の声が降ってきて、はじめて自分が泣いていることに気づく。困惑したように口角をきゅっとねじった松は、戸惑うようにゆっくりと私の方に手を伸ばし、涙をそっと拭う。
ポロッ、ポロッて瞬いた瞬間、涙がこぼれて、気持ちが溢れだす。
「俺のことが嫌いだから? こんなふうに側にいるのが泣くほど嫌なのか……」
皮肉気に言ってきゅっと唇をかみしめた松の、制服をくしゃっとにぎる。
「松なんか嫌い……女子みんなに優しいし、お洒落で女子にモテモテだし、気安く名前で呼んだりしてるし、足が速いなんてカッコよすぎるし……」
ずっと心に閉まっていたことが、口をついてポロポロとこぼれ落ちていく。なんだか半分は悪口じゃないってことも気づかないくらい、頭がぐちゃぐちゃで、自分でもなにを言ってるのかわからなくなる。
涙でぐちゃぐちゃの顔を拭って、くっと顔を持ち上げて松を見る。その瞳が切なげに揺れている。
「嫌いになろうと思ったけど……松がいいやつだって知ってるから、嫌いになんかなれないよ。だからお願い、彼女がいるのに私に優しくなんかしないで。友達じゃいられなくなる……」
「俺が好きなのは、芹だよ。彼女はいない……」
「うそっ。美咲ちゃんと付き合ってるじゃないっ!?」
「美咲――藤堂とは、もう付き合ってないんだ。夏休みに告白されて、俺は好きな子がいるからって断ったんだけど、期間限定でもいいから付き合ってほしいって言われて……学園祭までの約束だったから、もう付き合ってないんだ」
「でもお昼一緒に食べたり……」
「藤堂とは友達だよ。俺が好きなのは芹なんだ。こんな気持ちになるのは初めてで、これが好きって気持ちなんだって全然分からなくて、分かってからもどうしていいか分からなくて――芹は元彼をまだ好きだって言ってたから、気持ちを伝えて友達としても一緒にいられなくなるのが怖くてずっと言えなかった――」
そう言って私の瞳を覗きこんだ松の瞳が真剣な光を宿していて、胸が熱くなる。
松が、私をすき――……?
なんかこの会話の前にもなんどか松がそう言った気がしたけど、それは友達として言っているんだと思っていた。でも、この言い方って……
「芹、好きだ――」
「私は……」
いまにも口をついて出てきそうになる言葉。
“スキ”ってたった二文字なのに、喉に絡まって声にならない。
嫌いはすぐに言えるのに、好きって言葉は私のずっと隠してきた真実だから、言ってしまったらもう後戻りできなくなりそうで、怖くてなかなか口に出来ない。
口を開いたまま、言葉を喉に張りつけて何も言わない私に、松が焦れたように掴んだ腕に力を込める。
「松、痛い……っ」
眉根を寄せて小さな声でそう言うのがやっとだった。
「芹は? 俺のこと嫌いか?」
「私は……」
ぎゅっと唇をかみしめて、松を振り仰ぐ。
「松のこと嫌いになんかならないよ……、でもっ、松の言葉は信じられない。私のことを好きだなんて、ついこの前まで美咲ちゃんと付き合ってたのに、そんな言葉信じられない」
私の言葉に、松は苛立ったように眉間に深い皺を刻んで、それから決まり悪そうに横を向いてからぐいっと私の腕を引いた。
「きゃっ……」
「これでも、信じられない――?」
背中に回された強い腕の感触、頬に当たる鍛えられた逞しい胸に、心臓が飛び出しそうになる。
ドキドキと鼓動が高鳴って、松にも聞こえてしまいそうで恥ずかしかった。だけど。
とくんとくんって私よりも速いビート音が耳に響いて心をついた。
抱きしめられた腕の中で見上げれば、松が顔を真っ赤にして顔をしかめている。その耳まで赤い事に気づいて、この音が松の心臓の音なんだって気づく。
松が、こんなに緊張してる――
私よりもドキドキしてる――?
「なあ、どうして泣いてるの――?」
掠れた声が降ってきて、松が照れて目元を赤くして私を見ている。
言いたいことはいっぱいあったけど、いま言いたいことは一つだけだった。
「私も……松のことが好き……」
ポロポロと涙があふれてきて、口元を手で覆ってやっとの思いで口にする。
ずっと言いたくて、言えなかった言葉。
涙があふれてくるのは切ないから――




