第1話 自然消滅の恋
何もかもがキラキラ輝いてみえて、世界が希望だけにあふれていた頃、恋がこんなに苦しくて辛いものだなんて、私は知らなかった――
※
「おっ、これゴールデンGPのチケットじゃん」
ちょっと低くて、どこまでも澄んだその声に、私はドキッとする。
教室の自分の席に座り、机の上に出した二枚のチケットを眺めていた私は、突然声をかけられて顔を見上げた。
「松岡君」
私に声をかけたのは同じクラスの松岡 遥君――っといっても、四月にクラスが一緒になったばかりで中学も違うから松岡君とはほとんど話した事がなくて、話しかけられて戸惑ってしまう。
短く整えた髪はサラサラと日に透けて茶色に見える。きりっとした眉、澄んだ瞳、通った鼻すじ、形のよい唇の彼は、とてもカッコイイ男の子だというのが第一印象だった。
松岡君はとんっと机に手をついて、食い入るように机の上のチケットを見つめている。
「名雪、ゴールデンGP行くのか?」
ゴールデングランプリ、略してゴールデンGPっていうのは地元、川崎で五月に行われるプロの陸上大会のことで、私の机の上にあるのはその大会の前売りチケット。
「うん」
あんまり話したことないけど、松岡君のやわらかい話し方になんだか親しみが湧いて、友達相手のように気軽な気持ちで頷き、チケットを眺めていた理由を話した。
「実はね、中学の友達と一緒に行く約束してたんだけど、その友達が都合悪くなっちゃって、一人で行くかどうしようか迷ってたんだ」
言いながら私は、内心の複雑な気持ちに眉尻を下げて手元に視線を落とした。
少しの沈黙を挟んで。
「チケット、余ってる……?」
ゆっくりと紡がれた言葉に顔を上げると、松岡君が瞳を輝かせてチケットを見ているから、私は苦笑して首をこくんと横にかしげる。
「松岡君、いる? チケット」
「えっ、いいのか……?」
「うん、いいよ」
瞬間、ぱっと浮かべた満面の笑顔に、私は見つけたの。
左の頬に、くりっとくぼんだえくぼを。
そのえくぼが印象的で、私はゆっくりと瞬く。
「ありがと」
机の上から一枚のチケットを取り上げた松岡君はそのまま立ち去るのだろうと思ったのに、すっと私の目の前に携帯を差し出した。
「名雪のアドレス教えてよ」
「えっ……?」
驚いて見上げると、松岡くんが携帯をいじりながら、思いもかけないことを言う。
「どうする? 近くの駅で待ち合わせる? それとも現地集合?」
なにを言われているのか分からなくて首をかしげる私に、松岡君は一回ゆっくりと瞬き、ふわりと人懐っこい笑みを浮かべる。
「一緒に行くだろう?」
さも当然のように満面の笑みで言われて、私は思わず頷いていた。
※
一緒に行く約束をした友達というのは、中学の時、同じ陸上部だった男の子、結城君。
中学二年の冬に告白されて、付き合いだした、友達じゃなくて彼氏……
初めてされた告白に少し浮かれていたのもある。特別、好きだったわけではないけど、結城君とはずっと同じ部活でよく話してたし、陸上が好きという共通の趣味があったから、付き合ううちに好きになれると確信があった。
実際、一緒に過ごすうちに「ああ、好きってこういう気持ちなんだな」って実感して、二人でいると嬉しくて楽しくて、優しい気持ちにふわりと包まれる、そんな恋だった。だけど――
結城君は県外の陸上強豪校へ、私は県内の高校へ。別々の高校を選び、進学することが決まった。
その頃は離れて寂しいとは思わなかった。お互いの目指すものが違ったから、無事に高校に合格するように励まし合うだけで。
ただ、その時から二人の進む道はちょっとずつずれはじめたんだ。
二人で会う回数が減って、毎日していたメールが一週間に一通になって。
去年一緒に行ったゴールデンGP、今年も行こうねって約束して前売り券を二枚買ったけど、四月半ばを過ぎて連絡が来なくなって二週間。四月も終わろうとした今朝、学校についてすぐに、携帯がメールの着信を知らせて震えた。
ずっと来るのを待っていたメール、だけどその内容は――
『ゴールデンGP一緒に行けなくなった……忙しいから、メール出来ないし、会えない』
って、あまりにも素っ気ない文章。
届いたメールが何を意味するのか、分からないほどバカじゃない。
これが世にいう自然消滅なんだって。
そうなるんじゃないかなって感じていながら、この恋を繋ぎとめようとあがかなかったのは私自身で、結城君との恋が終わってしまったのは仕方がないと思う。でも、だけど。
こんなふうに曖昧にされるより、すっぱり別れようって言われた方が気分的に踏ん切りがついて良かったのに……
結城君と行くはずだったゴールデンGPに一人で行く気にはなれなくて、せっかく買ったのにチケット無駄になっちゃったなぁ……なんて、朝の教室、複雑な気持ちで机に並べたチケットと携帯を眉根を寄せて交互に眺めていた私に声をかけたのが松岡君だった。