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第六話 暗渠の詰め物と、夜明けの指

夜の作業は、見栄えを捨てるところから始まる。


リリアは中庭を歩いた。歩く位置は、クラッドの窓から見える位置だ。頂点の女子が夜間巡回している。見られるための巡回。旗にならないための、逆の旗。白い上着は乾いているのに、訓練のあとの Sweat が首筋に残り、夜風がそれを冷やす。冷えた匂いが石に落ちる。落ちる匂いを、誰かが見届ける。見届けているあいだ、本体は馬小屋側へ沈む。


トオルは蹄洗いの蓋を開けた。蓋の下は、複写の二枚目どおり暗渠へ折れている。折れた先で空気が重い。重い空気は、甘い腐臭とは種類が違う。卵が腐った匂い。弱い。弱い匂いを、ミレイユが袖で押さえた。


「掻き回すな」銀髪が暗い。神官服の裾を帯でからげ、足首まで出している。「匂いが消えても安全ではない。消えるほうが危ない。中は一人。外は必ず紐。灯は入口だけ。中で火を焚くな。焚くと、別の気体が先に食う」


聖女枠の知識は、今夜も祈りではない。手順だ。トオルは現代の安全講習の残骸を、その手順の横に置いた。置いても言わない。言うと想像になる。想像は今夜、暗渠の中では人を殺す。


アリアが槍ではなく太い紐を肩にかけた。赤髪は夜間用に短く結い、薄い胴衣が呼吸で張り、外番の Sweat がもう始まっている。中へ入りたがる顔を、セレナが先に封じた。


「私が入る。幅と呼吸の問題だ。お前は引け。引けない位置で槍を構えるな。構えると音がする」


セレナの黒髪は布で巻いてある。巻いた布の下で、鎖骨の汗が一条光る。光は作業灯ではない。ただの熱だ。二位の女は、容量の話をするときだけ身体が正直になる。正直な身体を、暗渠の入口が飲み込む。紐が伸びる。伸びた先で、トオルは井戸の縁へ走った。走らないと、刻みが守れない。刻みは今夜の本文だ。


厨房の裏口が先に動いた。


桶が二つ。夜間なのに湯気がない。水だけ。運ぶ男は学院の下働きではない。香水はない。剣油もない。手だけが黒い。焼いた粘土の黒だ。アリアが入口で足を出した。出した足に桶が当たり、水が石を打つ。打った音は小さい。小さい音で、夜の加速が一度止まる。


「夜間の汲みは禁止」アリアが笑わない声で言った。「団長の巡回中だ。巡回中に井戸を空に見せるな」


男は桶を捨てて裏へ折れかけた。折れる前に、ミレイユの白い袖が喉元ではない。手首だ。脈を押さえる位置。押さえたまま、彼女は熱を見る目で男を見た。


「走るな。走ると、中の気体が怖がる。怖がった気体は、入っている子のほうへ寄る」


男が止まった。止まった理由は剣ではない。わからない恐怖だ。わからない恐怖が、今夜は一番よく効く。トオルは桶の量を目で測った。二十リットルが二つ。一時間にこの加速が続けば、指は夜明けまでに物語になる。物語になると、空のせいへ逃げられる。逃げる前に、加速を切る。止め、そして剥がす。


紐が二度、短く鳴った。セレナの合図。生きている。生きている合図のあとに、泥を掻く音がしない。しないことが正しい。掻くと、溶ける気体が跳ねる。跳ねた先で人が落ちる。落ちた人は浅い水でも溺れる。ミレイユが入口で布を扇いだ。扇ぎは呪術に見える。中身は換気だ。


トオルは縁の炭を読む。夜間の使用を止めて一刻。水面はほとんど動かない。動かないことが、加速を切った証拠になる。戻ってはいない。戻らない横ばいは、まだ截水が生きている印だ。詰め物が残っている。残っているあいだ、涵養は一時間十八リットルまで戻らない。戻らない数字を、彼は石に書かない。書くと測っていると分かる。分かるのはリリアとセレナだけでいい、が昨夜の命令だ。


暗渠の奥で、乾いた音がした。剥がす音。焼く粘土は、水を漏らさないために焼いてある。焼いてあるものを、刃ではなく楔で起こす。起こした破片を、セレナは全部は捨てない。一片を布に包む。包む作業のあいだ、彼女の呼吸が紐に伝わる。伝わる呼吸が速くなる。速くなった瞬間、アリアが紐を一掌分引いた。引きすぎない。引きすぎると中の女が壁に額を打つ。


「臭くなった」アリアが鼻を鳴らす。「卵。リリア様の巡回じゃ勝てないやつ」


「勝たなくていい」ミレイユが扇ぎを速めた。「入口の空気を入れろ。入れたら、中の子は前進するな。破片だけ持って戻れ」


セレナが戻った。黒髪の布が泥で黒く、白い頬に一条の Sweat。暗い穴から出てきたクイーンビー二位は、教室の席次を全部脱いでいる。脱いだあとに残るのは、容量と正確さだけだ。正確な手が、焼印の付いた破片をトオルの前へ置いた。


「詰め物は新しい。下層は古い粘土。上層だけ黒運河。厨房の夜間は、空に見せるための拍車。拍車を止めた。層は残した。残さないと、誰かの改修になる」


証拠は、剥がしすぎると改修になる。残すと、截水になる。残し方の政治を、セレナは暗渠の中でやっていた。トオルは破片の焼印を見て、山の杭と同じ目をした。同じ目を、リリアは中庭で作っている。作っているあいだ、こちらは円筒を読む。


剥がしたあと、一刻。


水面は、すぐには踊らない。踊らない理由を、トオルは知っている。土の中の水は、栓を抜いた樽ではない。経路が開いても、圧力が伝わるのに時間が要る。時間のあとに、一時間あたり十リットル強が戻る。戻りの弱さが、夜明けの指一本半になる。一本半は凱旋ではない。凱旋にすると、神殿が奇跡と言う。奇跡と言うと、また空の話に戻る。戻るな。指一本半を、観測と呼べ。


中庭で靴音が重なった。リリアの巡回に、別の靴。香水。クラッドだ。窓から降りてきた。降りてきた男は、夜間のクイーンビーを一人にしない。しない理由は護衛の顔をしている。中身は所有の確認だ。確認の視線が、リリアの Sweat の冷えた線をなぞる。なぞらせたまま、彼女は井戸のほうを見ない。見ると、馬小屋側が死ぬ。


「夜歩くのはやめろ。美貌は昼の資産だ」


「渇きは夜に進むわ、クラッド。昼の資産を、夜の水位に使っている」


「水位は神殿だ。お前の Sweat を井戸に寄付するな」


一句が石に落ちる。落ちた一句を、リリアは斬らない。斬ると旗が立つ。旗が立つと、暗渠の紐が切れる。切れる前に、彼女は笑った。笑いは教室のそれだ。教室の笑いで、ジョックを中庭へ留める。留めているあいだ、円筒は指を戻し始める。


東がまだ黒い刻限で、トオルは炭の線を三度目に見た。横ばいが終わっている。終わった先で、水面が線に近づく。近づき方は遅い。遅い近づきが、正しい。速い近づきは、誰かが水を戻した嘘になる。嘘ではない戻りは、土が許した量だけだ。


アリアが紐を巻いた。巻く肩が上下し、夜間胴衣の脇が開く。開いたまま、彼女は笑った。


「中、narrow だったろ。セレナのほうが入るって、そういう意味か」


「幅の話だ」セレナが布を外す。外した黒髪に泥。泥を払わない。「払うと、今夜入ったことが化粧になる。化粧にするな」


ミレイユがセレナの脈を見る。見る位置は手首。熱はない。気体を吸ったあとの目の揺れもない。ないことを確認してから、彼女は破片の包みを神官服の裏へ滑らせた。滑らせ方は、セレナが紙を落としたふりと同じだ。廊下の席次を壊さない運び。


灰色の光が縁に落ちたとき、リリアが中庭から外れた。外れた靴音は速い。速いが走らない。走ると窓が起きる。起きた窓の前で、彼女は井戸に膝をつかない。つかず、立ったまま水面を見る。見た目は女王蜂のまま、数字を読む目になっている。


「戻った」


「指一本と、半分」トオルが言った。「夜間の加速を止めた分が大きい。詰め物を剥がした分は、まだ小さい。小さい戻りが、空ではない印です。空なら、止めても戻らない。戻った以上、入りがある。入りは、焼いた粘土の裏側にありました」


リリアの金髪が頰に張り、夜明けの冷気で Sweat が白い。白い線の下で、彼女は初めて小さく息を吐いた。吐息は安堵ではない。次の計算だ。


「評議会は来週。来週まで、厨房の夜桶は止める。止められないなら、私の巡回を毎晩にする。毎晩にすると旗になる。旗になる前に、父上の机へ破片を置け。置く人間は――」


間があった。間の先で、彼女はトオルではなくセレナを見た。見た順番が、カーストの修繕だった。家なしを正面に出すな。出すと廊下が壊れる。壊さないために、二位が運ぶ。運ぶ二位の泥を、一位が許可する。


「セレナ。書記を通せ。雑役の名は出すな。出すのは刻みと、戻った指と、焼印だけ」


「了解」


「雑役は馬小屋へ戻れ。戻ったあと、円筒を見るな。見ると、また測っていると分かる」


分かるな、は昨夜と同じだ。同じ命令のあとに、リリアは一言だけ足した。足した言葉は、剣の届く距離で落ちた。


「嫌いだは残す。残したまま、指一本半を借りた。借りた分は、斬る理由に変える」


変える先は、まだ成体ではない。成体の予約を外すための、暗渠の一夜だ。一夜で井戸は満タンにならない。ならないことが、この世界の正直さだった。正直な水面が、炭の線へ指一本半だけ戻っている。戻った高さを、朝課の女子たちは知らない。知らないまま走り始める。走る Sweat が石に落ち、落ちた石の下で暗渠が細く息をする。息は弱い。弱い息を、黒運河は再び詰められる。詰められる前に、破片が机へ届くかどうか。届く速さは、水位より席次に支配される。


馬小屋の闇で、トオルは空の袋を数えた。数えた先で、複写の二枚目の日付がまだ消えない。次の減水は、今夜ずれた。ずれた減水は、向こうの堰の完成を一日遅らせる。一日は竜を斬らない。斬らない一日を、 Sweat と紐と焼いた粘土で買った。


東の光が尖塔を白くする。白い尖塔の下で、クラッドの香水が中庭に残っている。残った香水より、井戸の指一本半のほうが低い。低いものが、今夜は勝った。勝った話を、廊下はまだ知らない。知らない廊下へ、セレナの泥が歩いていく。


――第六話 了――

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