第四話 十五袋の帰還と、廊下の席次
学院の尖塔は、渇いた空の中でもまだ白かった。
白さは清潔ではない。石灰の塗り直しだ。水が減るほど、建物はきれいに見せたがる。崩れていないふりを、壁が先にやる。人のカーストと同じだった。
十五袋は、門の前で十四になっていた。最後の一口を、熱の男が吐き戻したからだ。ミレイユが土に埋め、印を置いた。神殿の作法と衛生の作法が、同じ穴で重なる。重なった穴を、門衛は見ないふりをした。見ないふりは、この学院がいちばん上手い武芸だ。
「開錠」リリアの声が門に当たる。
当たった声は、河原の訓練より低い。低いのに、門衛の背筋が伸びる。クイーンビーが泥を着て帰ってきても、順位は門で復元される。復元の途中で、彼女の胴衣は Sweat と白い粉を乾かしたまま貼りついていた。貼りついたままの団長を、中庭の生徒たちが見る。見る位置は、いつもの階段だ。授業の合間に、一番きれいな女子を確認する位置。今日は確認の内容が違う。泥と血と、後ろに繋がれた男と、土の付いた杭。
囁きが、水より速く走る。
「討伐成功?」
「幼体だけらしい」
「拾い物が荷を……」
「捕虜? 商人?」
「リリア様の脇、開いてる」
最後の一句を、セレナが目だけで斬った。黒髪の一瞥は、剣より先に廊下の秩序を戻す。戻った秩序の下で、欲望は消えずに列を変える。変えた列が、すでに黒運河の余白どおりだった。学院の娘は旗にせよ。旗は、見られた瞬間から機能する。
トオルは馬を下りず、轡を門衛へ渡した。下りる位置を間違えると、カーストの話になる。荷役は門の横。英雄は正面。彼は横へ回った。横でよかった。正面には、もう席がない。
「雑役は来い」リリアが言った。「杭と地図を落とすな。落としたら、想像に戻る」
想像に戻る、を彼女は河原と同じ目で言った。嫌っている。嫌っているものを、本部の階段へ運ばせている。運ばせる相手を、拾い物のまま連れていく。連れていくこと自体が、学院にとっては事件だった。
本部は冷えている。石が水を記憶しているせいか、水がないせいか。廊下の窓から中庭が見える。中庭で下級生が走っている。女子の Sweat が普通の午後を装う。装いの横を、泥の騎士団が横切る。二つの時間が、同じ石畳ですれ違う。
会議室の扉の前で、先に人がいた。
金刺繍の男子。騎士科三年、席次は表向きリリアの次、裏向きでは「男子の一位」。ジョックの完成形。顎がきれい、剣茧がある、家名がある。トオルの現代語で言えば、クイーンビーの隣に立つことを許された側の男。許された側は、隣を独占できないと順位が落ちる。落ちることを、彼の視線が最初に計算していた。
「リリア。泥を会議室へ入れるな」
「入れるわ、クラッド。泥の中に紋がある」
「紋なら書記に渡せ。雑役まで入れる理由がない」
クラッド・ヴァレンの目が、トオルで止まる。止まる位置は人ではない。順位の穴だ。穴から上がってきた臭い――河原の Sweat と、幼体の甘い腐臭と、袋の革――を、彼は鼻で嫌った。嫌う顔が、そのままカーストの宣言になる。
リリアは扉を開けた。開けた肩のラインが、乾いた胴衣の下でまだ行軍の形をしている。形を、クラッドは見る。見る理由は護衛ではない。所有の確認だ。確認を、リリアは受け流す。受け流す技術が、頂点の女子の日常だった。日常が、いま杭の土で汚れている。
「父上が待っている。あなたは後でいい」
「後、は拒否だ」
「拒否ではなく順番よ。水の順番と同じ」
クラッドの頰が一度硬くなった。水の順番に負けた男は、剣の順番では負けていないつもりでいる。つもりが、廊下に残る。残ったつもりを、アリアが舌を出して踏んだ。踏むのは赤髪の特権だ。特権の Sweat が、閉じた扉の前でまだ乾ききらない。
会議室の中央に、長い机。机の上に、水はない。水の代わりに、地図と家名と、神官正の印。リリアの父――学院防衛卿ヴァイスクロイツ――は、娘の泥を見て眉を動かさなかった。動かさないことが、家の作法だ。作法の横で、神官正だけが鼻をひそめた。 Sweat と血の匂いを、神罰の外にあるものと見なしている。
「報告」
リリアが杭を置いた。焼印が机の木目を殴る。セレナが地図を広げる。ミレイユが捕虜の状態を短く述べる。熱はない。渇きだけ。アリアは立ったまま槍を壁に預け、自分が装飾になることを拒む。拒む姿勢もまた、運動部エースのカーストだった。
トオルは机の端に立った。端は席ではない。席でない位置から、余白の文字が見える向きに地図を直す。直す指を、防衛卿が見た。見た目は怒っていない。測っている。測る目は、黒運河の男と同じ種類だ。種類が同じだと気づくと、トオルの喉が十五袋目の砂を思い出す。
「黒運河」防衛卿が先に言った。「交易組合。今年の水路改修を、神殿が一部許可している」
神官正の顎が動いた。
「許可は祈りの補助だ。減水は天の試し。試しを、人の溝で受けるなと私は反対した」
「反対は記録に残っている。残っている反対より、水位が速い」防衛卿の声は娘に似ている。似ている声で、彼はトオルを見た。「雑役。名」
「トオルです」
「家なし。日誌と地図を読んだのはお前か」
「はい」
「先に語ったな」
リリアの背中が、わずかに強張った。強張った位置で、乾いた布が肩甲骨に貼る。父の前でも、彼女の身体は行軍を終わらせない。終わらせない身体を、神官正もクラッドも、それぞれの理由で見る。見る理由が重なる部屋は、すでに余白の予言どおりだった。
「語らせました」リリアが言った。「斬ったあと、と読んだあとです。想像のままでは上げていません」
防衛卿は娘の弁護を受け取らなかった。受け取らず、杭の土を指で捻る。
「等間隔。 Straight な試掘。幼体の誘導。ここまでは観測だ。観測の先を、雑役は“配る者”と言ったそうだな」
「言いました」トオルが答える。「止める竜と、配る人はセットになり得ます。セットになったとき、学院の騎士は旗として消費されます」
「旗」神官正が繰り返した。「娘たちを穢す言い草だ」
「穢れではなく用途です。用途は、もう書いてあります」
セレナが余白を指で押さえた。押さえ方が正確で、正確さが神官正の顔を白くする。学院の娘は旗にせよ。文字は綺麗ではない。綺麗ではない文字が、一番きれいな廊下を直撃する。
沈黙のあとに、外の授業ベルが鳴った。ベルは平和のふりをする。ふりに合わせて、誰かが中庭で笑った。笑いの中に、女子の掛け声。普通の Sweat。普通の順位。会議室だけが、普通から外れている。
クラッドが扉を開けて入ってきた。後でいい、は効かなかった。効かない男が、机の横に立つ。立つ位置はリリアの右。右は慣習の婚約者枠だと、トオルは後から知ることになる。今は、ただ匂いが違うことだけが分かった。部屋の Sweat は行軍。クラッドの匂いは香水と剣油。水が減る世界で、まだ香水が残っている順位。
「黒運河を敵と呼ぶのは早い」クラッドが言った。「奴らは水路を売る。水路は村を生かす。生かす者を、拾い物の妄想で斬るのか」
「妄想なら、杭の土は落ちる」リリアが返した。「落ちない」
「落ちない土を、戦争にするな。戦争にすれば、お前はもっと見られる。見られるのは好きだろう。嫌いだとは言わない。言わない代わりに、雑役を下がらせろ」
見られるのは好きだろう。一句が、机の上で幼体の甘い臭いと混ざる。トオルはクラッドの顔を見た。ジョックの逆襲対象として、あまりに完成している。完成している男ほど、クイーンビーの Sweat を所有の証明に使う。使う論理は、帝国の余白と同じだ。旗にせよ。配れ。返すな。
防衛卿が手を上げた。上がった手で、部屋の順位が一度止まる。
「黒運河の件は、学院評議会へ回す。捕虜は地下。地図は複写して神殿と騎士科の両方へ。雑役は――」
間があった。間のあいだに、リリアの Sweat が一本、耳の裏を落ちた。落ちる軌跡を、クラッドが見る。トオルは見ない。見ないことが、この部屋での唯一の礼儀だった。
「――今夜だけ、記録係に置け。明日、馬小屋へ戻せ。家なしを本部に置くと、廊下の席次が壊れる」
席次が壊れる。それが、真っ直ぐな線より重い判断として落ちた。水は十五袋で戻った。真実も杭の土で戻った。戻ったものの行き先は、馬小屋だ。文明は、危機の証拠より先に、誰が誰の横を歩いてよいかを守る。守るものが最後まで残る。残るから、次の帝国の台座になる。
リリアは「了解」と言わなかった。言わない代わりに、トオルの袖を指で弾いた。弾け、下がれ、という合図。合図の指先は、まだ砂で粗い。粗い指が、クイーンビーの最後の未整備だった。
廊下へ出たとき、アリアが壁に背を預けて待っていた。待っている姿勢で、赤髪の Sweat がすでに学院の石鹸へ近づいている。近づいても、行軍の匂いはすぐには落ちない。落ちない匂いを、通りがかりの男子が吸って、視線を外す。外しきれない。
「本部、つまんなかっただろ。クラッドの顔、香水臭かった」
「水より高い匂いでした」
「それ。水より高いものが、この学校の上位なんだよ。トオルは水側だから、廊下じゃ負け続ける。負けてるほうが、井戸には近いと思うけどね」
アリアの軽口は、時々核心を雑に運ぶ。雑な運河が、黒運河より正直だった。
セレナは複写の指示を受けて書庫へ消える。ミレイユは地下の捕虜へ、規定の水を一滴ずつ運ぶ。一滴は慈悲ではない。生存させておくための簿記だ。リリアは父の部屋へ戻らず、訓練場の井戸へ向かった。学院の井戸は、まだ死んでいない。死んでいない水面に、彼女は自分の顔を映す。映った顔は美貌のまま、泥を残している。残した泥を、彼女は拭かない。拭くと、旗の手入れになる。
トオルは馬小屋へ荷物を戻した。戻した角で、下級生の女子が走り込む。授業の遅れ。 Sweat の匂い。普通。普通の横で、彼は杭の土を布から落とさずに棚へ置いた。棚の暗がりは、会議室より正直だ。正直な場所で、余白の文字がもう一度浮かぶ。
水は返さず、配れ。
学院は、まだ返す側のつもりでいる。つもりでいられるうちに、真っ直ぐな線は尖塔を測り続けている。測り終わったとき、廊下の席次は残る。残った席次の一番上に、いちばん Sweat の似合う女子が立たされる。立つ理由は騎士ではなく、人が従うから。
夜、馬小屋の外で靴音が止まった。リリアではなかった。クラッドでもない。神官服の裾。ミレイユが、規定外の時間に立っていた。銀髪は洗ってある。洗ってあるのに、治療の匂いが残る。
「熱の男は眠った。捕虜も死なない」彼女が言った。「死なない代わりに、一つ聞いたわ。黒運河の先に、名前がある。まだ呼べ、とは言われていない名前」
「魔王、ですか」
「そうは言わなかった。言ったのは――水位を約束できる一人、よ。一人が決めた配給が、神より速いって」
風が、学院の石鹸と河原の Sweat を同時に運んできた。同時に来る世界では、祈りと測量が同じ喉を奪い合う。トオルは十四袋目の空を見た。空は、まだ予報を返さない。
「明日、馬小屋へ戻せ、と言われました」
「戻せばいい。戻った場所で、複写の二枚目を読め」ミレイユが袖の中から紙を出した。「セレナが落とした。落としたふりよ。廊下の席次を壊さないための、落とし方」
紙の端に、セレナの正確な字。地図の線が、学院の井戸まで伸びている。伸びた先に、日付。日付は近い。近い日付の横に、小さな注があった。
『成体は堰の完成後。完成は、次の減水に合わせる』
次の減水。天候は読めない。読めないものを、向こうは日程にしている。日程にされた側の学院は、今夜も席次の話をしている。
トオルは紙を袋の裏へ滑り込ませた。滑り込ませた指先に、リリアが弾いた砂がまだ残っていた。砂は落ちない。落ちないものが、この話の本体だった。
尖塔の窓で、誰かが灯を消す。消えたあとでも、中庭の石は昼間の Sweat を返している。返す石の上を、明日の女子たちが走る。走ること自体は、まだ青春だ。青春の下で、真っ直ぐな線が席次を測っている。
――第四話 了――




