第7話 戦わなかった勇者
勇者記の最初のページには、アシェルの生い立ちが記されていた。
『アシェルは、北方諸侯領の小さな村で生まれた。父は鍛冶屋、母は機織り。三人兄弟の末っ子として、何不自由なく育った』
北方諸侯領。カイルが言っていた、災厄で大きな被害を受けた地域だ。でもアシェルが生まれた頃には、もう災厄は過ぎ去っていたらしい。
『十七歳で覚醒。当時のヴィア家当主、ロドリク・ヴィアに見出される。覚醒時、アシェルはこう言ったという。「俺が勇者? 何かの間違いだろう」』
思わず笑ってしまった。私と同じだ。同じ反応をしている。
「どうしました?」
カイルが不思議そうに聞いてきた。
「いえ、アシェルさんも最初は信じなかったんだなって。私と同じだなって」
「ああ……そうですね。勇者の多くは、最初は否定します。当然の反応です」
「みんなそうなんですか」
「記録を読む限りでは。すんなり受け入れた勇者の方が珍しい」
少し安心した。私だけじゃないんだ。
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ページをめくる。アシェルの青年期の記録。
『アシェルは修行を拒んだ。剣を握ることを嫌い、魔法の訓練にも身が入らなかった。ロドリクは困惑したが、強制はしなかった。勇者に仕えることと、勇者を縛ることは違う、というのが彼の信条だったからだ』
「修行を拒んだ……」
「はい。アシェルは、戦うことが嫌いでした」
「でも、勇者なのに」
「勇者だからといって、戦いを望むとは限りません」
カイルの言葉が、静かに響いた。
『アシェルはこう語ったという。「俺は誰かを傷つけるために生まれてきたんじゃない。守るためでも、戦うためでもない。ただ、生きるために生まれてきたんだ」』
その言葉が、胸に刺さった。ただ、生きるために。当たり前のことなのに、勇者という肩書きがつくと、それが許されないような気がしていた。
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アシェルの記録は、戦いではなく、日常で埋め尽くされていた。
『二十三歳、故郷の村に戻る。父の鍛冶屋を手伝いながら、農具の改良に取り組む。従来の鋤より軽く、土を深く耕せる新型の鋤を考案。周辺の村々に広まる』
『二十八歳、灌漑水路の設計を始める。北方の痩せた土地でも作物が育つよう、山からの雪解け水を効率よく引く方法を研究。五年の歳月をかけて完成させる』
『三十五歳、飢饉の年。アシェルの水路のおかげで、周辺の村々は被害を最小限に抑えることができた。人々は彼を「静かな英雄」と呼んだ』
勇者記を書いているのはイレーナだけど、文章の端々にアシェルへの敬意が感じられた。戦わない勇者。でも、確かに人々を救っていた。
「アシェルさんは、後悔しなかったんですか」
私は顔を上げてカイルに聞いた。
「後悔?」
「勇者なのに戦わなかったこと。修行しなかったこと」
カイルは少し考えてから、答えた。
「記録を読む限り、後悔はなかったようです。ただ——」
「ただ?」
「一度だけ、こう言ったことがあるそうです。『もし俺の時代に災厄が来ていたら、俺は何もできなかっただろう。その時は、誰かに恨まれても仕方ない』と」
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災厄が来ていたら。その言葉が、重く響いた。
アシェルは幸運だった。災厄のない時代に生まれて、戦わずに済んだ。でも、それは自分で選んだことじゃない。たまたま、そうだっただけだ。
「私の時代には、災厄は来るんですか」
気づいたら、そう聞いていた。
カイルの表情が、少しだけ曇った。
「……分かりません。災厄の周期は二百年から三百年と言われています。前回から約二百八十年。来てもおかしくない時期ではあります」
「おかしくない」
「ただ、確実に来るとは言えません。あと百年来ないかもしれないし、明日来るかもしれない」
「なんですか、その幅」
「災厄とは、そういうものなんです。予測できない」
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私は勇者記に視線を戻した。アシェルの晩年の記録。
『六十歳を過ぎてから、アシェルは体が弱り始めた。それでも畑に出ることをやめなかった。「土を触っていると落ち着く」というのが口癖だった』
『六十七歳、春の終わりに永眠。眠るように穏やかな最期だったという。遺言は「墓には何も書くな。俺はただの農夫だ」だった』
ただの農夫。勇者なのに、最期までそう言い張った人。
『しかし、人々はその言葉に従わなかった。墓碑には、こう刻まれている。「ここに眠るは静かな英雄。剣を持たず、土を耕し、命を繋いだ者」』
目頭が熱くなった。なんでだろう。会ったこともない人なのに。でも、この人の生き方が、なんだか眩しく見えた。
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「こういう勇者も、いたんですね」
私は勇者記を閉じて言った。
「はい」
「戦わなくても、勇者だった」
「そうです」
カイルの声は穏やかだった。
「アシェルは、母にとって特別な存在でした。初めて仕えた勇者であり、生涯でただ一人仕えた勇者でもあった」
「お母さんは、アシェルさんのことが好きだったんですか」
「……恋愛感情という意味では、分かりません。ただ、深く敬愛していたのは確かです」
カイルの表情が、少しだけ柔らかくなった気がした。母親の話をしている時だけ、この人は少しだけ人間らしくなる。
「お母さんは、どんな人だったんですか」
「厳しい人でした。でも、優しくもあった。俺に多くのことを教えてくれました」
「例えば?」
「勇者に仕えることの意味。記憶を受け継ぐことの重さ。そして——」
カイルが言葉を切った。
「そして?」
「……いえ、何でもありません」
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何か言いかけて、やめた。カイルにはそういうところがある。肝心なことを言わない。でも、今は追及しないことにした。
「私、少し希望が持てました」
「希望?」
「アシェルさんみたいな生き方もあるんだって。戦わなくても、人を救う方法はあるんだって。もちろん、災厄が来たらそうも言ってられないのは分かってます。でも、来ないかもしれないじゃないですか」
「……そうですね」
「私も畑仕事なら得意ですし。農業改良くらいなら、できるかもしれないし」
我ながら楽観的すぎる気もする。でも、今はこう思わないとやっていけない。
カイルは小さく笑った。笑った、というほどではないけど、口元が緩んだ。
「あなたらしい考え方ですね」
「褒めてます?」
「褒めています」
「そうですか。じゃあ素直に受け取っておきます」
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私は立ち上がって、棚を眺めた。三十一冊の勇者記。そのどれもが、一人の人間の一生を記録したもの。
「他の勇者記も、読んでいいですか」
「もちろん。ただ、全部読むには何日もかかりますが」
「全部は無理でも、いくつかは読みたいです。私の前世なんでしょう? どんな人たちだったのか、知りたい」
カイルは頷いた。
「では、明日も時間を取りましょう。今日はもう遅いですから、休んでください」
言われて気づいた。燭台の蝋燭がだいぶ短くなっている。どれくらいここにいたんだろう。
「部屋を用意してあります。こちらへ」
私は勇者記を棚に戻して、カイルについていった。
階段を上がりながら、ふと思った。アシェルは「ただの農夫だ」と言った。私も、できればそうありたい。ただの農家の娘として、普通に生きていたい。
でも——災厄が来たら?
その問いが、頭の片隅にこびりついて離れなかった。




