第6話 ヴィア家の館
出発の朝は、よく晴れていた。
村の入り口で、カイルが馬を二頭連れて待っていた。いつの間に用意したんだろう。聞いたら「昨日、近くの町で借りてきました」と言われた。手際がいい。
「乗れますか」
「一応。上手くはないけど」
農家の娘でも、馬に乗る機会くらいはある。荷物を運ぶ時とか、隣村に行く時とか。ただ、三日間も乗り続けたことはない。
「無理はしないでください。休憩は多めに取ります」
「ありがとうございます」
私は馬に跨って、振り返った。村の風景。見慣れた畑、見慣れた家々、見慣れた空。三日で戻ってくるとはいえ、なんだか感慨深い。
「行きましょうか」
カイルの声で、私は前を向いた。馬が歩き出す。村が少しずつ遠ざかっていく。
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初日の道中は、ほとんど会話がなかった。
カイルは必要最低限のことしか喋らない。「この先で休憩します」「水を飲んでください」「日が暮れる前に宿場町に着きます」。事務連絡みたいだ。
私も私で、話しかける気力がなかった。馬に乗っているだけで体力を消耗する。お尻は痛いし、太ももは張るし、想像以上にきつい。
夕方、小さな宿場町に着いた。宿を取って、夕食を済ませて、すぐに寝た。
二日目の朝、体中が痛かった。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないけど、大丈夫です」
「意味が分かりません」
「気合いで何とかするってことです」
カイルは少し困った顔をした。この人、冗談というか、勢いで喋る言葉に弱い気がする。
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二日目の昼、街道沿いの木陰で休憩を取った時、私は思い切って聞いてみた。
「カイルさんって、普段は何してるんですか」
「普段?」
「勇者を探してない時。趣味とか、好きなこととか」
カイルは少し考え込んだ。
「……勇者に関する研究を」
「それ趣味じゃなくて仕事では」
「仕事というか、生活そのものというか」
「じゃあ、それ以外は?」
「それ以外……」
カイルが黙った。長い沈黙。まさか、本当に何もないのか。
「……読書は、します」
「おお、やっと出た。どんな本を?」
「歴代勇者の記録や、災厄に関する文献を」
「それ結局勇者関連じゃないですか」
「……そうですね」
カイルが微妙に気まずそうな顔をした。この人、本当に勇者のこと以外何もないのか。ちょっと心配になってきた。
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「あの、失礼なこと聞いていいですか」
「どうぞ」
「友達とか、いるんですか」
カイルが固まった。あ、これ地雷だったかもしれない。
「……友人と呼べる存在は、特には」
「特には」
「ヴィア家は代々、勇者に仕えることを第一としてきました。俺も幼い頃からそう教育されてきたので、同世代との交流は少なかったんです」
「幼い頃から……」
「五歳で継承の儀を受けて、それからはずっと修行でした」
五歳。私がその頃何をしていたか思い出してみる。たぶん、泥だんご作りに夢中だった。ルッツはまだ生まれていなくて、ミラと一緒に遊んでいた記憶がある。
「寂しく、なかったですか」
「考えたことがありませんでした」
その答えが、なんだか胸に刺さった。考えたことがない。寂しいかどうかも分からないまま、ずっと一人で修行してきた。
「……今度、何か勇者と関係ない本を読んでみたらどうですか」
「関係ない本」
「物語とか。冒険譚とか、恋愛ものとか」
「恋愛もの……」
カイルの表情が微妙に歪んだ。想像もつかないという顔だ。
「まあ、無理にとは言いませんけど」
「……善処します」
「善処って。その返事が一番やらないやつですよね」
カイルは何も言わなかった。図星だったらしい。
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三日目の夕方、ヴィア家の館が見えてきた。
「あれが、俺の家です」
カイルが指差した先に、古い屋敷があった。
森の中に佇む、石造りの館。三階建てで、蔦が壁を覆っている。窓は多いけど、どれも暗い。人の気配がほとんど感じられなかった。
「……広いですね」
「広いだけです。今は俺しか住んでいないので」
「一人で?」
「はい。両親は亡くなりました。使用人もいません」
さらりと言われて、返す言葉が見つからなかった。この広い屋敷に、たった一人。それがどれだけ寂しいことか、私には想像もつかない。
馬を厩舎に繋いで、私たちは館に入った。
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中は、外観以上に古めかしかった。
埃っぽいわけではない。掃除はされている。でも、空気が重い。何十年も、何百年も、同じ場所に同じものが置かれてきた。そういう重さ。
「こっちです」
カイルが先導して、廊下を進む。壁には古い絵画が掛かっていた。人物画が多い。男の人、女の人、老人、若者。みんな違う顔、違う服装。でも、どこか似た雰囲気がある。
「この絵は?」
「歴代の当主です。俺の先祖たち」
「みんな、勇者に仕えてきた人たち?」
「はい」
何十枚もある。数えきれないほど。千年分の歴史が、壁に並んでいる。
カイルは階段を下りていった。地下に続く階段。空気がひんやりと変わる。
「記録庫は地下にあります」
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地下室の扉を開けた瞬間、息を呑んだ。
本だ。本、本、本。壁一面の棚に、びっしりと本が詰まっている。革張りの背表紙、古い羊皮紙、巻物。どれも年代物に見える。部屋の中央には大きな机と椅子があって、燭台がいくつか置かれている。
「これが、記録庫です」
カイルが燭台に火を灯した。薄闇の中に、本の背表紙が浮かび上がる。
「ここにあるのは、すべて勇者に関する記録。勇者記、災厄の記録、各地の伝承、研究書。千年分の歴史が、この部屋に収められています」
千年。その時間の重みが、ずしりとのしかかってきた。
私はゆっくりと棚に近づいた。背表紙に触れる。指先に、古い革の感触が伝わる。
「触っても、いいですか」
「どうぞ。ここにある記録は、あなたのためのものでもありますから」
私のため。勇者である私のため。まだ実感が湧かないけど、そういうことらしい。
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「これを見てください」
カイルが棚の一角を示した。そこには、他とは少し違う装丁の本が並んでいる。背表紙に番号が振ってある。一、二、三……三十一まで。
「勇者記です。初代から三十一代まで、すべての勇者の生涯が記録されています」
三十一冊。三十一人分の人生。三十一回の生と死。
私は震える手で、「三十一」と書かれた本を取り出した。一番新しい勇者記。私の、一つ前の前世。
「三十一代目、アシェル」
カイルが言った。
「災厄のない時代に生まれ、戦うことなく生涯を終えた勇者。俺の母が、彼に仕えていました」
「お母さんが……」
「はい。だからこの勇者記は、母が書いたものです」
私は本を抱えて、机に向かった。椅子に座り、表紙を開く。古い紙の匂いがした。
最初のページには、こう書かれていた。
『三十一代目勇者アシェルの記録。記録者、イレーナ・ヴィア』
イレーナ。カイルのお母さんの名前だ。
私はページをめくり始めた。




