第5話 兄の言葉
眠れない夜を過ごして、朝が来た。
体は重いし、頭はぼんやりするし、最悪のコンディションだ。鏡を見たら、目の下に隈ができていた。ルッツに「姉ちゃん幽霊みたい」と言われて、「幽霊は実体ないから畑仕事できないでしょ」と返しておいた。我ながら意味不明な返しだ。
朝食を済ませて、いつものように畑に出る。鍬を振るう。土を耕す。種を蒔く。体が覚えている動作を繰り返していると、少しだけ気が紛れた。
でも、頭の中はぐるぐるしたままだ。
勇者。前世。三十一人。あの映像の男。カイルの言葉。全部がごちゃ混ぜになって、整理がつかない。
「——リーネ」
声をかけられて、私は手を止めた。振り返ると、トーマが立っていた。
「兄さん。どうしたの、仕事は」
「休憩だ。お前もそろそろ休め」
言われて気づいた。もう昼近い。いつの間にそんなに時間が経っていたんだろう。
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私たちは畑の端にある木陰に腰を下ろした。トーマが水筒を差し出してくる。受け取って、一口飲んだ。冷たい水が喉を通っていく。
「顔色、悪いぞ」
「寝不足なだけ」
「嘘つけ。ここ数日ずっとおかしい」
トーマは遠慮というものを知らない。昔からそうだ。何か気になることがあると、納得するまで追及してくる。面倒くさい兄だと思っていたけど、今はその面倒くささがありがたいような、煩わしいような。
「……ちょっと、考え事があって」
「あの黒い服の男のことか」
「それも、ある」
「それも、ってことは他にもあるのか」
鋭い。本当に鋭い。この兄の前では誤魔化しが効かない。
私は黙った。何をどこまで話せばいいのか分からなかった。「実は私、勇者らしいんだよね」なんて、どう考えても頭がおかしくなったとしか思われない。
「……言いたくないなら無理にとは言わん」
トーマが言った。意外だった。いつもならもっとしつこく聞いてくるのに。
「でもな、リーネ。お前、昔からそうだ」
「そうって、何が」
「一人で抱え込む。困った時ほど笑って誤魔化す。家族に心配かけまいとして、余計に心配させる」
図星だった。何も言い返せない。
「俺はお前の兄だ。何があっても味方だ。それだけは忘れるな」
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トーマの言葉が、胸に沁みた。
この人は昔からこうだ。普段は口うるさくて、細かいことにいちいち文句を言ってくる。でも、いざという時は絶対に味方になってくれる。私が子供の頃、村の男の子たちにからかわれた時、真っ先に飛んできて追い払ってくれたのもトーマだった。
「……兄さんは、信じる?」
「何を」
「例えばの話なんだけど」
私は慎重に言葉を選んだ。
「もし私が、自分でも信じられないようなことを言ったとして。荒唐無稽で、馬鹿げてて、普通なら笑い飛ばすようなこと。兄さんは信じてくれる?」
トーマは少し考え込んだ。
「お前が本気で言ってるなら、信じる」
「根拠は」
「お前が嘘つきじゃないことは知ってるからな。馬鹿なことは言うが、嘘はつかん」
「馬鹿なことって何さ」
「去年、屋根から飛び降りたら空飛べるかもって言ってただろ」
「あれは冗談で言っただけ! 本気にしてたの!?」
「本気にしたからベルトと二人で止めたんだろうが」
そういえばそんなこともあった。完全に忘れていた。
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少しだけ、空気が軽くなった。
「……まだ、ちゃんと話せる段階じゃないんだ」
私は正直に言った。
「私自身が整理できてないから。でも、近いうちにちゃんと話す。約束する」
「分かった」
トーマはあっさり引き下がった。でも、次の言葉が意外だった。
「で、あの男は信用できるのか」
「え?」
「黒い服の男だ。お前に何か吹き込んでるんだろ。そいつは信用できる人間なのか」
考えたことがなかった。カイルの言葉を疑う、という発想自体がなかった。「名前の鍵」で真名を読み取られた時、否定しようのない感覚があったから。でも、それだけで全部を信じていいのか。
「……分からない」
「分からないなら、確かめろ」
「確かめる?」
「そいつが嘘をついてないか。お前を騙そうとしてないか。自分の目で確かめろ。話はそれからだ」
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トーマの言葉が、頭の中でぐるぐる回っていた。
確かめる。自分の目で。カイルの言うことを鵜呑みにするんじゃなくて、自分で判断する。当たり前のことだ。でも、私はそれをしていなかった。「勇者だ」と言われて、動揺するばかりで、何も確かめていなかった。
「兄さん」
「ん?」
「ありがとう。ちょっと目が覚めた」
「そうか。なら良かった」
トーマは立ち上がって、土を払った。
「じゃあ俺は戻る。お前も適当なところで切り上げろよ。倒れられたら困る」
「はいはい」
「あと、晩飯の芋は俺の分残しとけよ」
「それ私に言う意味ある? 取り合いしてるのルッツでしょ」
「お前もたまに参戦してるだろ」
「してないし」
「してるだろ。この前——」
「してないってば!」
トーマは笑いながら歩いていった。本当に面倒くさい兄だ。でも、嫌いじゃない。全然嫌いじゃない。
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午後になって、私はカイルのところへ向かった。
東の通りにある宿は、村で唯一の宿泊施設だ。宿といっても、民家を改装しただけの簡素な建物。旅人が時々泊まる程度で、普段は閑散としている。
宿の主人に「黒い服の人に会いたいんですけど」と言ったら、「ああ、あの兄ちゃんか。二階の奥だよ」と教えてくれた。私は階段を上がって、奥の部屋の扉を叩いた。
「……はい」
中からカイルの声がした。
「リーネです。少し話があるんですけど」
間があって、扉が開いた。カイルは相変わらず黒い外套を着ていて、相変わらず表情が乏しかった。でも、少しだけ驚いているようにも見えた。
「どうぞ。中へ」
部屋は質素だった。寝台と机と椅子。机の上には何冊かの本と、例の手帳が置いてある。窓から午後の光が差し込んでいた。
「座ってください」
カイルが椅子を勧めてくれた。私は座って、まっすぐにカイルを見た。
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「証拠を見せてください」
単刀直入に言った。
「証拠?」
「私が勇者だっていう証拠。あなたの言葉だけじゃなくて、もっとはっきりした証拠。あなたの一族が本当に千年も勇者に仕えてきたっていう証拠。全部」
カイルは少し目を見開いた。それから、微かに口元が緩んだ。笑った、というほどではないけど、表情が動いた。
「……良い判断です」
「え?」
「疑うのは当然です。俺の言葉を鵜呑みにしないのは、正しい」
「じゃあ、見せてもらえますか」
「はい。ただ、ここでは無理です」
「どういうことですか」
「証拠は、俺の家にあります。ヴィア家の館。そこに千年分の記録がある。勇者記と呼ばれる、歴代勇者の生涯を記した書物。それを見れば、すべて分かります」
ヴィア家の館。カイルの実家ということだ。
「……遠いんですか」
「この村から馬で三日ほど。連邦の領内です」
三日。往復で六日。決して近くはないけど、行けない距離でもない。
「私に、来いってことですか」
「無理強いはしません。でも、見てもらえれば納得できると思います」
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私は考えた。
三日間、家を空けることになる。家族にも何か説明しなければならない。でも、このまま悶々としているよりはいい。自分の目で確かめる。トーマもそう言っていた。
「……行きます」
決断は、思ったより早く出た。
「家族には、ちょっと旅に出るって言います。詳しいことは帰ってきてから話す」
「いいんですか」
「良くはないけど、今のままじゃもっと良くないので」
カイルは頷いた。
「では、明後日の朝に出発しましょう。準備の時間を取ります」
「分かりました」
私は立ち上がって、部屋を出ようとした。扉に手をかけたところで、振り返った。
「あの、カイルさん」
「はい」
「もし私が勇者じゃなかったら、どうするんですか」
「——その場合は、謝罪します」
「それだけ?」
「それだけです。俺の探す旅は振り出しに戻りますが、あなたには何の責任もない」
淡々とした答えだった。でも、不思議と嘘には聞こえなかった。
「分かりました。じゃあ、明後日」
「はい。明後日」
私は部屋を出て、宿を後にした。空はよく晴れていて、雲一つなかった。
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夕食後、私は家族に告げた。
「ちょっと、数日家を空ける」
全員の視線が集まった。予想通りの反応だ。
「どこに行くんだ」
父さんが聞いた。
「知り合いのところ。大事な用事があって」
「知り合いって、あの黒い服の——」
「うん」
隠しても仕方ない。どうせトーマには分かっている。
「何の用事だ」
「それは……まだ言えない。でも、帰ってきたらちゃんと話す。約束する」
沈黙が落ちた。母さんが心配そうな顔をしている。ミラとルッツはきょとんとしている。父さんは眉をひそめている。そしてトーマは——黙って私を見ていた。
「危ないことじゃないだろうな」
父さんが聞いた。
「たぶん、大丈夫」
「たぶん?」
「……大丈夫です」
父さんは長いこと私を見つめていた。それから、ため息をついた。
「行ってこい。ただし、必ず帰ってこいよ」
「うん。絶対帰ってくる」




