第4話 夢の正体
勇者だと告げられてから、どれくらい経っただろう。
私はまだ林の中に立っていた。カイルも動かない。木漏れ日が揺れて、鳥の声が遠くから聞こえる。世界は何事もなかったように回っているのに、私の頭の中だけがぐるぐるしていた。
「……あの、座ってもいいですか」
「どうぞ」
私は近くの切り株に腰を下ろした。足の力が抜けている。立っていられる気がしなかった。
「なんか、すみません。急に座り込んで」
「いえ。当然の反応です」
「当然って言われても、何が当然なのか分からないんですけど」
カイルは少し考えてから、私の向かい側の木に背を預けた。立ったままだけど、少しだけ距離が近くなった気がする。
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「……整理させてください」
私は指を折りながら言った。
「私は勇者。三十二代目。魂が何度も生まれ変わってて、前世が三十一人いる。あの夢は前世の記憶。右目が熱いのは勇者の証。合ってます?」
「合っています」
「よし。じゃあ次の質問」
「どうぞ」
「なんで私なんですか」
カイルが首を傾げた。質問の意図が分からなかったらしい。
「いえ、だから。なんで農家の娘なんですか。勇者って、もっとこう、王族とか貴族とか、そういう人に生まれるものじゃないんですか」
「そうとは限りません。転生先は完全に無作為です。貴族に生まれることもあれば、農民に生まれることもある。男の時もあれば、女の時もある」
「選べないんですか」
「魂に選択権はありません」
なんだそれ。理不尽にもほどがある。
「じゃあ歴代の勇者の中に、私みたいな庶民出身の人もいたんですか」
「います。というより、庶民出身の方が多いくらいです」
「そうなんですか」
「二十三代目は羊飼いでした。十九代目は孤児院育ち。十五代目は漁師の娘」
意外だった。勇者といえば、高貴な生まれで、幼い頃から英才教育を受けて、みたいな想像をしていた。
「……でも、みんな戦えたんですよね。勇者として」
「覚醒すれば、自然と力が目覚めます。剣術の才能、光魔法の適性。魂に刻まれたものが、体に馴染んでいく」
「覚醒って、いつするんですか」
「人によります。早ければ十五歳、遅ければ二十歳過ぎ。あなたの場合——」
カイルが言葉を切った。
「もうすぐです。あるいは、もう始まっているかもしれない」
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右目の奥が、じんわりと熱を持っている。さっきからずっとだ。
「……あの夢を見せてもらえますか」
私は言った。
「夢?」
「前世の記憶だって言いましたよね。どんな人たちだったのか、見てみたい」
自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。たぶん、現実感がないのだ。まだ他人事みたいに感じている。だから、確かめたかった。本当に私が勇者なのか。本当に前世なんてものがあるのか。
カイルは少し躊躇うような顔をした。
「……心の準備はできていますか」
「できてないですけど、このまま悶々としてる方が辛いので」
「分かりました」
カイルが左手を上げた。銀の指輪が、再び淡く光る。
「これから見せるのは、過去の勇者の戦闘記録です。俺の一族が代々受け継いできた記憶。『記憶の書庫』と呼んでいます」
「書庫……」
「映像として再生します。実際に起きたことの記録です。触れることはできませんが、見ることはできる」
カイルが詠唱を始めた。聞き取れない言葉。古い、どこの言語とも違う響き。
「——『記憶の書庫』」
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世界が、変わった。
林の景色が薄れて、代わりに別の風景が浮かび上がる。水面に映る像のように、揺らめきながら形を成していく。
荒野だった。私が夢で見たのと同じ、赤黒い空と、ひび割れた大地。
そこに、一人の男が立っていた。
白銀の鎧。光を放つ剣。夢で見た「誰か」と同じ姿。でも、今度ははっきりと顔が見える。三十代くらいの、精悍な顔つきの男だ。傷だらけで、血を流していて、それでも立っている。
目の前には、巨大な「闇」があった。形を持たない、純粋な闇。それが蠢いて、男に襲いかかろうとしている。
男が剣を構えた。
「——まだだ」
声が聞こえた。夢で聞いたのと同じ声。低く、力強い。
「俺が立っている限り、お前を止める」
剣が振り下ろされる。光が闇を切り裂く。轟音。衝撃。世界が白く染まって——
映像が、消えた。
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私は切り株に座ったまま、呆然としていた。
「今のは、二十七代目勇者です」
カイルの声が、遠くから聞こえるようだった。
「約五百年前、北方大災厄と呼ばれる戦いがありました。彼はその災厄を止めるために戦い、勝利した。ただし——」
「ただし?」
「彼も、その戦いで命を落としました」
死んだ。勝ったのに、死んだ。
「……他の人は。他の勇者は、どうだったんですか」
「様々です。戦いで命を落とした者。災厄を退けて天寿を全うした者。中には、災厄のない平和な時代に生まれ、一度も戦わずに生涯を終えた者もいます」
「戦わなかった勇者もいるんですか」
「います。三十一代目——あなたの一つ前の勇者が、そうでした」
一つ前。それは、私の直前の前世ということだ。
「三十一代目は、どんな人だったんですか」
「……穏やかな人でした。争いを好まず、農業の改良や水路の整備に生涯を費やした。剣を振るうことなく、六十七歳で老衰で亡くなりました」
「それって、勇者として失格だったんですか」
「いいえ」
カイルは静かに首を振った。
「彼は彼なりに、世界を守った。災厄がなかっただけで、彼が勇者だったことに変わりはない」
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沈黙が落ちた。
私は自分の手を見つめていた。土で汚れた、農作業で荒れた手。この手が、いつか剣を握る。あの映像の男のように、闘と戦う。そんなことが、本当にあり得るんだろうか。
「……信じられないです」
正直に言った。
「あの映像の人が、私の前世だなんて。全然実感が湧かない」
「それが普通です」
「でも、本当なんですよね」
「本当です」
カイルの声には、迷いがなかった。千年分の記録を受け継いできた人間の、静かな確信。
「あなたは勇者です。でも、今すぐ何かをしなければならないわけではない。覚醒には段階がある。まずは受け入れることから始めればいい」
「受け入れる……」
「無理に急ぐ必要はありません」
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日が傾いてきた。どれくらいここにいたんだろう。
「家に、帰らないと」
私は立ち上がった。足はまだ少しふらついていたけど、歩けないほどじゃない。
「家族には、何と説明するつもりですか」
カイルの問いに、私は固まった。そうだ。家族にどう言えばいい。「私、実は勇者だったみたい」なんて、信じてもらえるわけがない。
「……まだ、言わない方がいいですかね」
「あなたの判断に任せます。ただ——」
「ただ?」
「いずれ話さなければならない時は来ます。覚醒が進めば、隠し通せなくなる」
分かっている。分かっているけど、今日はまだ無理だ。私自身が受け入れられていないのに、他人に説明なんてできない。
「考えておきます」
「分かりました。俺はしばらくこの村に滞在します。何かあれば、宿に」
「あ、東の通りのところですか」
「はい」
「分かりました」
私は歩き出した。数歩進んで、振り返った。
「あの、カイルさん」
「はい」
「……ありがとうございました。教えてくれて」
自分でも意外な言葉だった。でも、嘘じゃなかった。知らないままより、知っている方がいい。たとえそれが、受け入れがたい真実でも。
カイルは少し驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
「いえ。これが俺の役目ですから」
役目。その言葉が、少しだけ引っかかった。でも、今日はもう考える余裕がない。私は林を出て、家に向かった。
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夕食の席で、私は普通を装った。
いつも通り食べて、いつも通り喋って、いつも通りルッツとおかずの取り合いをした。ミラが「姉ちゃん今日なんか変」と言ったけど、「寝不足なだけ」と誤魔化した。
嘘をついている。家族に嘘をついている。その事実が、ちくちくと胸を刺した。
「リーネ」
夕食後、トーマに呼び止められた。
「何?」
「今日、あの黒い服の男と話してただろ」
「……見てたの」
「村の人が言ってた。林の方に二人で歩いていくのを見たって」
しまった。田舎の情報網を甘く見ていた。
「別に、大したことじゃないよ」
「大したことじゃないなら、何で隠す」
トーマの目が、まっすぐに私を見ている。長兄の目。誤魔化しが効かない目。
「……ちょっと、まだ整理できてなくて」
「整理?」
「うん。もう少し待って。ちゃんと話すから」
トーマは何か言いたそうだったけど、結局「分かった」とだけ言って引き下がった。信頼してくれている。その信頼が、今は重かった。
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その夜、私はなかなか眠れなかった。
目を閉じると、あの映像が浮かぶ。白銀の鎧の男。闇に向かって剣を振るう姿。あれが、私の前世。私の魂が、かつて経験したこと。
「三十一人……」
呟いてみる。三十一人分の人生。三十一回の生と死。それが全部、私の中にある。
途方もなさすぎて、笑えてくる。昨日まで畑を耕していた私が、勇者だなんて。冗談にしても出来が悪い。
でも、冗談じゃない。
右目の奥が、また熱を持ち始めていた。




