第3話 名前の鍵
翌朝、私は寝不足だった。
あの夢のせいだ。「やっと見つけた」という唇の動き。あれは誰に向けた言葉だったんだろう。夢の中の「誰か」が私を見ていた、なんてことがあるわけない。夢は夢だ。ただの脳が見せる幻。そう自分に言い聞かせても、右目の奥に残る熱が消えてくれなかった。
「リーネ、顔色悪いぞ。大丈夫か」
朝食の席で、トーマが眉をひそめた。
「うん、ちょっと寝不足なだけ」
「また夢か」
「……まあね」
トーマは何か言いたそうだったけど、結局黙って粥を口に運んだ。ルッツが「姉ちゃん目の下くろーい」と無邪気に指摘してきたので、「あんたも夜更かしするとこうなるよ」と脅しておいた。
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午前中は畑仕事をした。体を動かしていると、余計なことを考えずに済む。土を耕し、種を蒔き、水をやる。単純な作業の繰り返し。私の日常。私の人生。
昼前に一段落ついて、井戸で手を洗っていた時だった。
「リーネさん」
背後から声をかけられて、心臓が跳ねた。振り返ると、黒い外套の男——カイルが立っていた。
「うわっ、びっくりした。気配消して近づかないでくださいよ」
「すみません。消したつもりはなかったのですが」
「それ、余計に怖いんですけど」
カイルは少し困ったような顔をした。本当に無自覚らしい。魔法使いってみんなこうなんだろうか。
「何か用ですか」
「はい。昨日の話の続きを——」
「続き?」
「確証が持てたら話す、と言いました」
ああ、そういえばそんなことを言っていた。私の何かが「気になる」とかなんとか。
「確証、持てたんですか」
「おそらく」
「おそらく」
「……九割方」
一割の不確実さを残すあたり、この人は正直なのか慎重なのか。
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カイルは周囲を見回した。井戸端には誰もいないけど、遠くで村人が歩いているのが見える。
「少し、人目につかない場所で話せませんか」
「え、いきなりそういうこと言われると怖いんですけど」
「あ——いえ、変な意味では」
「分かってますよ、冗談です」
カイルが一瞬固まった。冗談が通じにくいタイプだ。
「じゃあ、裏の林でいいですか。そこなら誰も来ないので」
「お願いします」
私は手を拭いて、カイルを案内した。正直、ついて行くべきか迷った。でも、昨日からずっと気になっていたのも事実だ。あの視線の意味。私の「何か」が気になると言った、その理由。聞かないまま終わるのは、なんだか気持ち悪い。
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村外れの林は、静かだった。木漏れ日が地面に斑模様を作っている。私がよく一人で来る場所だ。考え事をしたい時とか、家族がうるさい時とか。
「ここなら大丈夫です。で、話って何ですか」
カイルは少し間を置いてから、口を開いた。
「リーネさん。あなたは最近、不思議な夢を見ていませんか」
心臓が、どくんと鳴った。
「……なんで、それを」
「戦場の夢。光と闇がぶつかり合う夢。見たこともない武器を持って戦う、誰かの夢」
全部、当たっている。私が誰にも詳しく話していないことまで。
「あなた、私の夢を読んだんですか」
「いいえ。読んでいません」
「じゃあなんで——」
「それが、勇者の覚醒の兆候だからです」
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勇者。その単語が、頭の中で空回りした。
「……は?」
「勇者です。災厄から世界を守るために、神々に選ばれた存在。あなたは——」
「ちょっと待ってください」
私はカイルの言葉を遮った。
「勇者って、あの勇者ですか。伝説の。御伽噺に出てくる」
「御伽噺ではありません。実在します」
「いやいやいや」
思わず両手を振った。何を言い出すんだ、この人は。
「私、ただの農家の娘ですよ? 剣なんて握ったこともないし、魔法も使えないし。昨日だって畑耕して草むしりして、弟と干し肉の取り合いしてたんですけど」
「それでも、あなたは勇者です」
「人違いです」
「人違いではありません」
「絶対人違いです」
会話が平行線だ。カイルは真顔で、私は必死で否定している。端から見たら滑稽な光景だろう。
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カイルは小さく息を吐いた。
「……証明します」
「証明?」
「あなたの魂に刻まれた真名を、読み取ります。それで確定できる」
「真名って何ですか」
「勇者の魂には、本当の名前が刻まれています。リーネ・アルトスという名前は、今世であなたの両親がつけたもの。でも魂の奥には、勇者としての名がある」
今世。その言い方が引っかかった。まるで、前世があるみたいな言い方。
「読み取るって、どうやって」
「魔法を使います。少し、目を見せてください」
「目?」
「右目を」
カイルが一歩近づいた。私は反射的に後ずさりそうになったけど、踏みとどまった。逃げても何も分からない。それに、怖くはなかった。不思議と、この人が危害を加えてくるとは思えなかった。
「……痛くしないでくださいよ」
「痛みはありません」
カイルが右手を上げた。左手の銀の指輪が、淡く光った。
「——『名前の鍵』」
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視界が、一瞬だけ白く染まった。
頭の中に、何かが流れ込んでくる感覚。痛みはない。ただ、自分の奥深くを誰かに見られているような、不思議な感覚。
そして——声が聞こえた。
自分の声じゃない。もっと古い、遠い場所から響いてくるような声。
『——エルディア』
それは、名前だった。聞いたことのない名前。でも、どこか懐かしい響き。
視界が戻った。カイルが私を見ていた。その灰色の瞳が、微かに揺れていた。
「……見つけました」
「え?」
「あなたの真名は『エルディア』。勇者の魂に刻まれた、最初の名前です」
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頭が真っ白になった。
エルディア。その名前が、まだ頭の中で響いている。知らない名前のはずなのに、否定できない感覚がある。まるで、ずっと忘れていた何かを思い出したみたいな。
「三十二代目」
カイルが言った。
「あなたは、三十二代目の勇者です。最初の勇者エルドから数えて、三十二番目の転生者」
「転生……」
「勇者の魂は死んでも消えません。何度でも生まれ変わり、新しい体に宿る。あなたの中には、三十一人分の前世がある」
三十一人。その数字が、重くのしかかってきた。三十一回の人生。三十一回の死。それが全部、私の中にある?
「待ってください。待って。ちょっと整理させて」
私は頭を抱えた。情報が多すぎる。
「つまり、私の中には昔の勇者の魂が入ってて、それが何度も生まれ変わってて、今回は私の番だった、ってことですか」
「概ね、そうです」
「概ね」
「細かい部分は後で説明します」
「いや、細かい部分も大事でしょ!」
思わず声が大きくなった。カイルが少し身を引いた。
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深呼吸。落ち着け、私。
「……じゃあ、あの夢は」
「前世の記憶です。覚醒が近づくと、過去の勇者たちの記憶が夢として現れるようになる」
「右目が熱くなるのは」
「勇者の証です。覚醒すると、右目の奥に光が宿る。今はまだ微かですが、いずれはっきりと現れます」
全部、繋がった。夢も、右目の熱も、全部。でも、繋がったからといって納得できるわけじゃない。
「……私、勇者になんかなりたくないんですけど」
本音が口をついて出た。
「知ってます」
「知ってるんですか」
「誰だって突然そう言われて、喜ぶわけがない」
カイルの声は淡々としていたけど、どこか優しさがあった。
「でも、これは選べるものではないんです。あなたは生まれた時から勇者だった。ただ、それを知らなかっただけで」
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選べない。その言葉が、胸に刺さった。
「あなたは、何なんですか」
私はカイルを見た。
「なんで勇者を探してるんですか。見つけてどうするんですか」
「俺は——」
カイルが一瞬言葉を詰まらせた。「俺」。初めて、敬語が崩れた気がした。
「俺の一族は、代々勇者に仕えてきました。勇者を見つけ、導き、支える。それがヴィア家の役目です。千年以上、続けてきた」
千年。途方もない時間だ。
「だから俺は、あなたを探していた。三十二代目の勇者を。あなたを——見つけるために」
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カイルの灰色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。
そこには使命感があった。千年分の重みを背負った、静かな決意。
「……本当に、人違いじゃないんですか」
最後の抵抗だった。でも、自分でも分かっていた。あの夢、右目の熱、そして「エルディア」という名前。全部が繋がってしまった以上、否定しようがない。
「人違いではありません」
カイルが静かに言った。
「あなたが、俺が探していた人です。リーネ・アルトス。三十二代目勇者——エルディア」
木漏れ日が揺れていた。風が木々を鳴らしていた。世界は何も変わっていないのに、私の日常は、たった今、音を立てて崩れた気がした。




