第2話 黒衣の来訪者
噂の男を見かけたのは、昼過ぎのことだった。
午前中はルッツと一緒に草むしりをしていた。約束は約束だ。ルッツは終始しょんぼりした顔で雑草を抜いていたけど、途中から妙に真剣になって、最後には「俺、草むしり得意かもしれない」とか言い出した。単純なやつだ。嫌いじゃない。
昼食を終えて、私は井戸に水を汲みに行った。そこで、見慣れない人影を見つけた。村の広場に、黒い外套を纏った男が立っていた。
若い男だった。二十代の半ばから後半くらいだろうか。黒髪に灰色の瞳。整った顔立ちだけど、表情が乏しくて、どこか冷たい印象を受ける。周囲には村人たちが遠巻きに集まっていた。好奇の目。警戒の目。この村では見知らぬ顔は珍しくないけど、あんな格好の人間はそういない。明らかに「ただの旅人」ではなかった。
「何者かね、あんた」
村長のおじいさんが声をかけている。男は丁寧に一礼した。
「お騒がせして申し訳ありません。私はカイル・ヴィアと申します。人を探して旅をしている者です」
声は低く、落ち着いていた。物腰は丁寧だけど、どこか事務的というか、感情が乗っていない感じがする。
「人を探してる? 誰を」
「それは——」
男が言いよどんだ、その時だった。ふと、男の視線がこちらを向いた。私と、目が合った。
灰色の瞳が、私を捉えている。なぜか、足が動かなかった。睨まれているわけじゃない。敵意があるわけでもない。ただ、見られている。まるで、私の奥底まで覗き込まれているような。男の視線が、一瞬だけ私の右目で止まった気がした。
「……すみません。少し、村を見て回らせていただいてもよろしいでしょうか」
男は視線を外して、村長に向き直った。私は知らず知らずのうちに止めていた息を吐いた。なんだったんだ、今の。
村長は少し考えてから頷いた。「まあ、悪さしなけりゃ構わんが。宿が必要なら、東の通りに一軒ある」
「ありがとうございます」
男——カイルと名乗った人物は、再び一礼して歩き出した。
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その後、私は水を汲んで家に戻った。戻ったはずなのに、さっきの男のことが頭から離れない。
「リーネ姉ちゃん、どうしたの? ぼーっとして」
台所で水瓶に水を移していると、ルッツが顔を覗き込んできた。
「ん、ちょっと考え事」
「あ、もしかして広場にいた黒い人?」
「見てたの?」
「うん、遠くから。なんか怪しい人だったね。魔法使いかな?」
ルッツは目を輝かせている。子供は珍しいものが好きだ。
「さあ。でも関わらない方がいいよ、ああいう人には」
「えー、気にならないの?」
気になる。気にならないと言えば嘘になる。特に、あの視線。私の何を見ていたんだろう。でも、私はただの農家の娘だ。あんな人と関わる理由なんてない。
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そう思っていたのに、夕方、私は再びその男と顔を合わせることになった。
市場の帰り道だった。母さんに頼まれた野菜を抱えて歩いていると、道端の木陰に黒い外套が見えた。男は何かを手帳に書き込んでいた。私は見なかったふりをして通り過ぎようとした。
「少し、よろしいですか」
声をかけられた。立ち止まる。振り返る。男は手帳を閉じて、こちらに歩み寄ってきた。近くで見ると、思ったより背が高い。
「はい、何でしょう」
「この村に長く住んでいる方ですか」
「生まれてからずっとですけど」
「では、村の人々のことはよくご存知で」
「まあ、一応は」
男は少し考え込むような顔をした。次の質問を選んでいるみたいだ。
「……最近、何か変わったことはありませんでしたか」
「変わったこと?」
「原因不明の体調不良を訴える人がいる、とか。急に様子がおかしくなった人がいる、とか」
妙な質問だった。何を探しているんだろう、この人は。
「特に聞かないですね。みんな元気ですよ」
「そうですか」
男は頷いた。でも、その目は私から離れない。
「……あの、何か?」
「いえ」
「さっきから私のこと見てますよね」
我ながら直接的な言い方だったと思う。でも、見られっぱなしは落ち着かない。男は少し意外そうな顔をした。無表情だと思っていたけど、多少は表情が動くらしい。
「……失礼しました。少し、気になることがあったもので」
「気になること?」
「あなたの——いえ、何でもありません」
言いかけてやめた。なんだそれ。気になるじゃないか。
「何ですか、最後まで言ってくださいよ」
「今は言えません」
「今は、ってことは後で言う気はあるんですか」
「……確証が持てたら」
会話が噛み合っているようで噛み合っていない。この人、会話が下手なのかもしれない。
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私は小さくため息をついた。
「あなた、誰かを探してるんですよね。どんな人を?」
「それは——」
「言えない、とか言わないでくださいよ。村の人に聞いて回るなら、それくらい教えてくれないと誰も協力できないでしょ」
正論だと思う。男は少し黙ってから、口を開いた。
「……特別な人を、探しています」
「特別な人」
「この村にいるかもしれないし、いないかもしれない。まだ分からないんです」
「ずいぶん曖昧ですね」
「私にも、確実に見分ける方法があるわけではないので」
見分ける。その言い方が引っかかった。まるで、外見では分からない何かを探しているみたいな。
「……人探し専門の方ですか? 何かの依頼で?」
「いいえ。これは私の——私の家の、役目のようなものです」
「役目」
「代々、受け継いできた務めです」
ますます分からない。貴族か何かだろうか。でも、貴族にしては供も連れていないし、服装も質素だ。黒い外套は上等な生地に見えるけど、装飾は一切ない。ふと、男の左手が目に入った。細い銀の指輪をはめている。それだけが、唯一の装飾品らしかった。
「あの、もう一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「お名前、カイル・ヴィアさんでしたよね。ヴィアって、どこかの地名ですか?」
「いいえ、家名です」
「じゃあ、やっぱりどこかの貴族?」
「貴族ではありません。ただの——」
男は言葉を切った。「ただの」の続きが気になる。
「ただの?」
「……ただの魔法使いです」
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魔法使い。その単語を聞いて、私は少し身構えた。連邦の辺境とはいえ、魔法使いの存在は知っている。魔法学院を出た人とか、宮廷に仕える人とか。でも、実際に会ったことはほとんどなかった。
「へえ、魔法使い。すごいですね」
「すごくはありません。私の魔法は、戦いには向いていないので」
「戦い向きじゃない魔法って、どんな魔法ですか」
「——記憶に関する魔法です」
記憶。それもまた、妙な響きだった。
「人の記憶を読んだりするんですか?」
「読むこともあります。ただ、それだけではなく——記憶を、受け継ぐための魔法です」
「受け継ぐ?」
「いつか、詳しくお話しする機会があるかもしれません」
また「いつか」だ。この人、本当に焦らすのが好きなのか、単に説明が下手なのか。
「……あなた、会話苦手でしょ」
思わず口に出た。男は一瞬固まって、それから微かに眉を動かした。
「……よく言われます」
ちょっと不服そうだった。意外と分かりやすいところもあるらしい。
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日が傾いてきた。野菜を抱えたまま長話をしている場合じゃない。
「じゃあ、私はこれで。野菜、傷んじゃうので」
「引き止めてすみませんでした」
「いえ。あ、私、リーネって言います。リーネ・アルトス」
名乗ったのは、なんとなくだった。向こうが名乗ったのに、こっちが名乗らないのも変かと思って。男は——カイルは、私の名前を聞いて、少しだけ目を見開いた。
「リーネ、さん」
「はい」
「……良い名前ですね」
「へ? あ、ありがとうございます?」
突然の褒め言葉に、変な返事をしてしまった。カイルは小さく頷いて、「では、また」と言って歩き去った。また、って何だ。また会う前提なのか。私は首を傾げながら、家路についた。
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夕食の席で、私はぼんやりしていた。あの男のことが気になる。「特別な人」を探している。記憶に関する魔法を使う。代々受け継いできた役目。何一つ、私には関係なさそうなのに。あの視線が、ずっと引っかかっている。
「リーネ、また夢のこと考えてるのか?」
トーマの声で我に返った。
「ううん、今日はちょっと別のこと」
「別のこと?」
「村に来た黒い服の人と話した」
途端に、食卓の全員が私を見た。ルッツなんか口に入れた芋を吹き出しそうになっている。
「あの怪しい人と?」
「怪しいって決めつけるのもどうかと思うけど」
「何話したの?」
「別に大したことじゃないよ。ちょっと道を聞かれただけ」
嘘だ。でも、説明が面倒くさい。トーマは怪訝そうな顔をしていたけど、それ以上は追及してこなかった。代わりに「あんまり関わるなよ」とだけ言った。分かってる。分かってるんだけど。
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その夜、また夢を見た。
戦場の夢。光と闇がぶつかり合う夢。でも今日は、いつもと少し違った。夢の中の「誰か」が、振り返った気がした。こちらを見ている。私を見ている。そして、口を動かした。声は聞こえなかったけど、唇の形は読み取れた。
——やっと見つけた。
私は汗だくで目を覚ました。右目の奥が、焼けるように熱かった。




